残夜
残夜 伴はもう眠ってしまっただろうか、と飛雄馬はベッドの上で寝返りを打つ。来客用の寝室だと言うこの部屋は、あまりに広すぎて居心地が悪く、ベッドにしろゆうに二人は寝転がることができそうな大きさで、まったく落ち着くことがない。
それでも眠らなければ明日に差し支える。
こんなことなら引き留めるねえちゃんの制止を振り切り、ひとりで帰宅するんだった、と飛雄馬は数時間前のことを思い出し、後悔の念に駆られる。
ねえちゃんの──花形さんの屋敷に伴と共に招かれたおれは、彼と一緒なら、と二つ返事でその誘いを受けたまでは良かった。
しかして、その後が問題で──久しぶりに味わうねえちゃんの手料理に舌鼓を打ち、そろそろお暇しようかと思った矢先に伴が酔い潰れ、宴の最中にも関わらず大いびきをかいて眠ってしまったのだった。
これ幸いとばかりに伴を残し、おれはひとりで寮に帰ろうと考えたのだが、花形さんに寮長に電話を入れておいたからきみも泊まっていきたまえなどと言われてしまい、ねえちゃんもそれに賛同する形で勢いに押され、風呂を借り、今に至る。
我ながら押しに弱いな、と飛雄馬は借り受けたパジャマに身を包んだ格好で再び寝返りを打つと、目を閉じる。元はと言えば伴が酔い潰れなければ良かったのだが、と飛雄馬はふつふつと己の中に怒りの感情が湧き上がるのを感じたが、疲れが溜まっていたのだろう、彼のことだ、おれを気遣ってくれたに違いない、とそう考えることで溜飲を下げた。
ねえちゃんからおれのことで相談でも受けたのだろうか。伴にはおれのことのみならず、ねえちゃんや親父のことでも気を遣わせてしまって申し訳ないな、と今頃隣の部屋で大いびきをかいているであろう親友の顔を思い浮かべる。
酔った親友を背負い、二階に上がるのは少々骨が折れたが、これもトレーニングだと思えば苦にはならなかった。
「…………」
それにしても、花形さんの屋敷は静かすぎる。
タクシーが敷地入口の正門をくぐってから屋敷の玄関に到着するまで、しばらくかかるのだから当然とも言えよう。不気味と表現すると些か言いすぎかも知れんが、どうにも気味が悪い。
伴の屋敷もそれなりに広くはあるが、まだ人の気配が感じられる。何度か、訪れるとその違和感のようなものも次第に薄れていくのだろうか。
ねえちゃんは夫である花形さんが留守の間、この広い屋敷の中で何を思うのだろう。
「…………飛雄馬くん」
そこまで考えたところで、部屋の扉がノックされ、飛雄馬は飛び上がらんほどに驚いた。扉の向こうから声をかけたのが花形だと判明しても尚、心臓はどくどくと早鐘を打っている。
寝たふりを、決め込んでしまおうか。
今更、何の用で訪ねてきたのか。
「…………」
「眠れないのなら少し、話さないか。明子も早々に眠ってしまってね」
何と答えよう。このまま黙っていれば、諦めて帰っていくだろうか。
「…………」
飛雄馬はベッドの上から体を起こすと、扉一枚隔てた先にいるであろう義兄の姿を思い浮かべる。
花形さんは、変わった。
以前は、決しておれとは馴れ合おうとはしなかった。 口を開けば紡がれるのは皮肉のそれで、おれはいつも彼に圧倒されるばかりだった記憶しかない。
だと言うのに、花形さんはおれのことを飛雄馬くんと呼び、こうして屋敷に招くまでになった。
おれも早く、順応しなければならないとはわかっている。けれども、それができたらこうも悩みはしないのだ。
「…………」
「どうぞ」
飛雄馬は、花形の入室を許す言葉を口にし、扉を開け、顔を出した彼に笑みを向ける。
「起こしてしまったかね」
部屋に踏み込むなり、照明を付けた花形が飛雄馬に尋ねた。ほとんど真っ暗に近かった部屋が瞬時に明るくなり、飛雄馬は一瞬、眩しさに顔をしかめたが、いや、起きていた、と当たり障りなく返した。
「花形さんこそ眠れないのか。明日も仕事だろう」
「フフッ、なに、飛雄馬くんがぼくの屋敷を訪ねてくれたことがあまりに嬉しくてね。舞い上がってしまった」
「…………」
飛雄馬は花形がビール瓶一本と、グラスふたつを部屋に置かれていたテーブルの上にそれぞれ並べると、瓶の栓を抜くまでを何を言うでもなく見守る。
まだ汗を流していないのか、先程、一階で食事をしたときと同じ出で立ちの彼はグラスのひとつに瓶の中身を注ぎ入れると、もうひとつのものにも同じように瓶を傾けようとしたため、飛雄馬は花形さんだけ、と言葉を濁した。
「洋酒は、お気に召さんかね」
「いや、酒は飲まんことにしている。昔は飲みもしたが……」
「…………」
グラスを満たした液体を花形は一息に飲み干すと、二杯目を同じように注ぎ入れる。
「飲みすぎは体を壊す」
「経験者は語る、か。フフフ……しかし、栓を抜いたからには空けねばなるまい。ぼくを飲み過ぎだと言うのならきみも手伝ってくれたまえ」
「っ…………!」
「ぼくのためを思うのなら、ね」
花形がグラスのふたつめに瓶の中身を注ぎ入れ、囁いた。しまった、と飛雄馬は己の発言を悔やむ。
「話がある、とさっき花形さんは言わなかったか」
「…………」
きみが飲んだら話をしようじゃないか、と花形はグラスに三杯目を注ぎつつ、そう言うと、何ら悪びれる様子なくニコリと微笑んだ。
飛雄馬の目の前では、グラスに入ったままのビールが物言わぬままじっと佇んでいる。
何を、考えているのだ花形さんは。
急に部屋を訪ねてきたかと思えば、酒の瓶などを持ち寄って……食事の席で伴と共に浴びるほど飲んでいただろうに。どう、切り抜けたものか。
「……フフッ、困らせるつもりはなかったんだがね……」
すまない、と断ってから花形は注いだ三杯目と、四杯目のグラスを続けざまに空にした。
悪い冗談はよしてくれ、と飛雄馬は低い声で囁いてから、それで、話とは?と目の前に佇む彼を真っ直ぐに見上げる。
表情、立ち姿共に普段通りで、実際にあの場に同席していなければ彼がアルコールを嗜んだとは到底思えない。一緒に飲んだ伴などは足元も覚束ぬまま、呂律も回らぬ状態でベッドに倒れ込んだと言うのに。
「聞きたい?」
ニッ、と花形の唇が笑みの形を作り、飛雄馬は眉をひそめる。
「いい加減にしてくれないか、花形さん。酔っ払いの相手を真面目にするほどおれは暇ではない」
人を弄ぶのも大概にしてくれ、の言葉を飛雄馬は飲み込み、再びベッドに横になると布団を頭からかぶった。相手をするからいけないのだろう。
このまま寝たふりを決め込んでしまえばきっと部屋から出ていってくれるに違いない、とそう踏んでのこと。
「…………」
暗い布団の中で飛雄馬は目を閉じ、彼が立ち去ってくれるのを待つ。
と、次の瞬間、ベッドが不自然に軋み、飛雄馬は何かがマットレスの上へと乗り上げたような感触に驚き、掛け布団を跳ね除けた。
するとどうだ、ちょうどこちらににじり寄って来る花形と視線が絡んで、そのまま身動きが取れなくなる。
何をするんだ、と声を上げれば、隣の部屋で眠っているであろう伴や、はたまたねえちゃんを起こしてしまうことになりはしないか。
「っ、…………」
花形の体が、目と鼻の先、手をほんの少し伸ばせば届く距離にあって、飛雄馬は怖気づく。
ここが球場で、はたまた互いにユニフォームを着用していれば、もっと強気に出られたかもしれない。
けれども、今は義理の兄弟の間柄で──おれが対応を間違えばねえちゃんが辛い思いをするかもしれない。
それを考えると、何も言えなくなってしまう──。
「なぜ何も言わない?明子に遠慮してのことかい?それとも隣で眠る伴くんに気を遣っている?」
「あなたの冗談を毎回真に受けていたら身が持たん」
ふいと顔を逸らした飛雄馬の顎先を花形は指で掬い上げたかと思うと、その瞳を覗き込んだ。
ぎく、と飛雄馬は花形の仕草に身を強張らせ、唇をきつく引き結ぶ。
すると、唇に花形のそれが触れてきて、飛雄馬は思わず反射的に目を閉じる。
突然与えられた口付けに驚き、飛雄馬が短く声を上げると、パジャマの裾から中に差し入れられた花形の指 が様子を伺うようにそろりと腹を撫でた。
喉が引き攣り、掠れたような声を漏らすのみとなった唇を塞がれて、飛雄馬は絡められる舌の熱さと唾液の甘さに酔い痴れた。
息継ぎのために離れた唇から漏れる吐息が肌を上気させ、飛雄馬から正常な思考を奪う。
「フフッ…………」
耳元で囁かれたかと思えば、首筋に小さく吸い付かれ、飛雄馬は顔を背けると口元を手で覆った。
しかして花形の手は止まることなく、飛雄馬の着ているパジャマのボタンをひとつずつ外すと、はだけさせた肩から胸へと唇で優しく触れながら下っていく。
肌に触れる唇が、ちゅっ、と音を立てるのが羞恥心を煽り、飛雄馬は口元を掌で強く押さえた。
「んん、っ……」
尖り、熱を持つ突起には触れず、その周辺を唇でなぞる花形に焦らされ、飛雄馬は己の下腹部がじわりじわりと熱を帯びていくのを自覚する。
新品だと渡された下着の中では膨らんだそれ、がパジャマのズボンを押し上げ、解放を待ち侘びる。
「抵抗しないところを見ると、溜まっていたのかね」
花形の手が下腹部をさすり、飛雄馬は首を横に振った。へえ、とまるで信用していない口ぶりで花形は飛雄馬のズボンの中へと手を滑らせると、そのまま勃起した陰茎を露出させる。
「っ…………!」
白熱灯の下に飛雄馬は自身のそれを晒され、飛雄馬は逸らした顔、その頬へと涙を伝わらせた。
耳まで赤く染まっているのが自分でもわかる。
このままでは取り返しのつかないことになる。
大声を出せば花形さんは己の過ちに気付くだろうか。
却って恥をかかせることになりはしないか。
まともじゃない、おれも、花形さんも。
ようやく、正気を取り戻しつつある頭で懸命に飛雄馬は思案するが、花形の手が立ち上がった男根に触れ、それをゆっくりと上下にしごき始めたことで冷静さを失う。
腹の奥が切なく疼き、焦らされた胸の突起が熱を帯び、膨らみ始めるのを感じる。
裏筋をそろそろと指先で撫でられたかと思えば、溢れた先走りで濡らした指で亀頭を嬲られて、飛雄馬は限界が近いことを悟る。
「こんなに濡らして……フフフッ、まるで漏らしたようだね」
くちゅくちゅと先走りに濡れた指がわざとらしく音を立て、飛雄馬は恥ずかしさから指を噛む。
「っ、……う、ぅっ、っ」
噛んだ指に滲む血が、唾液に混じり舌に乗る。
あと少し、あと少しで…………。
そう、思った矢先に手を止められ、飛雄馬は噛んでいた指から口を離す。思わず無意識にかばった左手、その逆の指を飛雄馬は噛み締めており、痛み、痺れる右手で拳を作った。
「指を噛むのはやめたまえ、飛雄馬くん。きみの大事な手じゃないか」
口調こそ優しいが、声は低く、殺気に満ちている。
この期に及んで、彼は何を言うのか。
今、自分が何をしているのか分かっているのか。
花形の手が、腰にかかり、飛雄馬はビクッ、と体を震わせる。と、そのまま下着とズボンとを剥ぎ取られ、飛雄馬は下半身を花形の眼下に晒すこととなった。
「な、っ…………!」
「楽にしていたまえ」
「くっ……っ、」
わけもわからぬままに、飛雄馬は足を左右に開かれたかと思えば、花形が羽織るジャケットの中から取り出した容器の中身を尻へと塗り込まれた。
入口を丹念に撫でていたかと思えば、見計らったかのように腹の中に指を挿入され、内を探られる。
浅いところを何度も行き来しては、奥を撫でられ、飛雄馬はもどかしさを覚えた。
痛い?と何度も尋ねてきた花形が、今度はほしい?とそう、問いかける。
「いらな、っ…………」
そう、と短い言葉が返ってきたばかりか、それに続くように聞きなれぬ金属が擦れる音が耳に入って、飛雄馬は、ハッ、と音のする方向に視線を遣った。
すると、花形が前をはだけたスラックスから取り出したそれ、をちょうど自分の尻に押し当てるのが目に入って、花形!と飛雄馬はここに来て初めて声を張り上げた。しかして、その怒号は花形を躊躇させるでもなく、逆に飛雄馬に今の騒ぎで誰かがここに来るのではないか、という不安を抱かせた。
その一瞬の隙を突かれた、とでも言うのか、飛雄馬は花形の侵入を許すことになり、だらしなく開いた両足の間に彼を受け入れることになる。
腹の中が妙に熱いのは、入口を無理やり押し広げられたせいか。
「痛いね。指とは違う」
「…………」
時折、笑みを言葉端に交えながら花形が囁く。
強引にこじ開けられた場所よりも、こちらを見つめてくる視線が痛い。
「まだ動かない方がいい?」
尋ねつつ、花形は飛雄馬の腹の上で萎えてしまった男根を指でくすぐり、首をややもたげたそれに再び愛撫し始めた。
「あ、ぅ…………うっ、」
「フフッ……」
腹の中に収まっていた花形がほんの少し腰を動かしたか、中を擦り、飛雄馬は顔を腕で覆う。
足りなかった箇所を補うように、指では届かなかった場所に花形の男根が触れ、そこを優しく掻いた。
「ふ、っ……ん、ん」
花形が腰を使うたびに、体が震え、口からは声が漏れる。それに合わせるようにベッドが軋んで、音を立てた。
「もう少し奥かな。それとも位置がいけない」
「い、っ……う、ぅっ」
体の脇で揺れていた飛雄馬の両足、その膝を曲げ、花形はより体を密着させると、先程まで擦っていた箇所とは違う位置を嬲り始めた。
「あ、っ……!!」
この位置が、いけなかった。
微量に与えられ続けていたそれ、とはまったくの別物。声を堪えることもままならぬような快感が背筋を抜け、飛雄馬は再び花形の口付けを許すこととなる。
唾液に濡れた唇を重ね合わせることを何度も繰り返し、名を呼ばれるたびに体が戦慄いた。
「声をもっと出したまえ。外には誰もいない。この屋敷で起きているのはぼくときみだけさ、飛雄馬くん」
「はながたっ、さ……っ、あ」
指を絡ませるようにして握られた手は、ベッドの上で与えられる快楽に打ち震える。
「…………」
何度気を遣ったかもわからぬまま、飛雄馬は花形が腹の上に放った体液の熱さに、小さく呻いた。
「う……」
強張った体をようやくベッドの上で伸展させ、飛雄馬は大きく息を吸う。
「急に訪ねて申し訳なかったね。ゆっくり休みたまえ」
「…………」
それだけ?と飛雄馬はそれきり、何を言うでもなく部屋を出ていこうとする花形の後ろ姿を見つめ、尋ねようとしたが言葉にならない。
「何か?」
「っ、それだけか、と訊いている。人にこんな真似、しておいて」
「謝罪してほしい、と?何について」
「何にって、それは…………」
飛雄馬は、花形の問いに口ごもり、それ以上言葉が紡げない。ねえちゃんに、それともおれに、わざわざここまで着いてきてくれた伴に、か。
そもそも、おれが彼の頬を張りでもすれば、こうはならなかったんじゃないのか。
理由をつけながらも、受け入れてしまったのはおれ自身に他ならない。
「……おやすみ、飛雄馬くん」
飛雄馬はそう、言い残すと颯爽と部屋を出て行く花形を見つめたまま、扉が閉まる音を聞く。
ああ、馬鹿なのはおれひとり、とベッドの上に置かれたティッシュ箱から取り出した数枚で、腹の上に放出されたままの置土産を飛雄馬は拭うと、ふふ、と微笑する。
きっと明日、花形さんはねえちゃんと伴を前にしたおれを見て笑うだろう。
花形さんにとって、おれはそれくらいのものなのだ。
今から帰ろうにもタクシーは走っていないだろう。
寝ているねえちゃんを起こしてまでタクシーを呼びつけようとも思わない。
「…………」
飛雄馬はどっとベッドの上に倒れ込み、気付けば姉・明子の起床を促す声で目を覚ます。
そうして、自分が昨日のままの格好で眠っていることに気付き、慌てて布団をかぶると、気分が悪いから朝はいらない、と彼女に告げた。
こちらを心配した様子で、お粥や、フルーツ、飲み物だけでもと勧める姉に飛雄馬は何も食べたくない、とだけ言うと、それきり黙った。
確かに、腹は減っているが、顔を突き合わせたくない。悪いのはおれじゃない、花形さんだと昨日眠る前、そう答えを出したはずなのに。
布団の中だというのに、一階のダイニングで楽しげに朝食を摂る三人の声が聞こえてくるようで、飛雄馬は耳を塞ぐ。
おれが帰ってこなければよかったのではないか、そうすればあの三人は、今も何ら気兼ねなく家族ぐるみの付き合いとやらを続けられたのではないか。
伴はおれに気を遣い、ここにはあまり来られなくなったと聞く。ねえちゃんだってやっと幸せになれたと言うのにおれのせいで気を揉ませてしまっている。
「………………」
「おうい、星ぃ、大丈夫か。わしゃ帰るが星はしばらく休むかあ」
食事を終えたらしき伴が部屋の外から声をかけてきて、飛雄馬は少し考えたのちに、おれも行く、と返し、衣服の乱れを直すと、扉を開けた。
「……明子さんが、星の服を洗濯してアイロンまでかけておいてくださったようじゃい。体調、いいのか」
扉を開けるなり、手渡されたシャツとスラックスの類に飛雄馬は泣きそうになるのを堪え、大丈夫だ、ありがとう、と受け取ったそれを手に、一旦扉を閉めると、パジャマから普段着へと着替える。
すると再び、扉を叩かれ、飛雄馬は伴だろう、と何ら疑うことなく来訪者を受け入れた。
「気分はいかがかね」
「はっ、花形…………」
見慣れた彼がその場に立っているとばかり思っていたが、まさか目の前に現れたのは花形で、飛雄馬は思わず視線を泳がせる。
「食欲はないかもしれんが、何か食べておいた方がいい。きみならご存知のことと思うがね」
「…………っ」
足がすくむ。昨日のことが鮮明に蘇る。
飛雄馬は、か、帰って食べますから、と言うのが精一杯で、花形の横をすり抜けると一階まで一息に駆け下り、どうしたの?と尋ねてきた姉に洗面所の場所を聞くと、そこに一目散に駆け込んだ。
食事は摂らずとも、顔くらいは洗わなければ。
そう、飛雄馬はこの期に及んでも見栄えを気にする己に苦笑し、洗面台の水道で顔を洗う。
冷たい水が血の昇った頭や顔に心地よい。
「タオル」
「…………!」
洗面台の目の前にある鏡に、何やら影が映り込んで、飛雄馬は思わず息を呑む。
「ここに置いておくわね。本当に、大丈夫?様子がおかしいわ」
「…………」
心配し、タオルを持ち寄ってくれたねえちゃんの影にまで怯えるとは。
飛雄馬は、ありがとう、と返すと、渡されたタオルで顔を拭い、歯を磨くと洗面所を後にした。
ダイニングでは伴と花形が楽しげに話している声が聞こえ、飛雄馬は考えまい、と首を振り、明子に礼を言うと玄関先で靴を履いた。
「え、でも、伴さん……」
てっきり、来客と共に帰宅するとばかり思っていた弟に自分は一人で帰るから、と言われ、動転する明子に、たまにはふたりで話をさせてあげてほしい、とだけ伝え、扉に手をかける。
「また来てちょうだいね。ねえさん、待ってるから」
「…………うん、また来るよ」
明子に背を向けたまま、飛雄馬はか細い声で呟くと、開けた扉から屋敷の外へと出た。
太陽が頭上高くにあり、今日も暑い日であろうことを飛雄馬に知らせる。
伴から寮に電話がいくだろうか、それは後日、彼に会って詫びることにしよう…………。
飛雄馬は太陽を見上げ、その陽射しを遮るように額に手を遣ると、頬に伝った汗を指でそっと拭った。