夕練のあと
夕練のあと
「いてて……」
捕手用のミットを外しつつ伴がぼやくのを横目に見つつ、飛雄馬は部室のロッカーにてユニフォームを脱ぐ。制服のスラックスに足を通しながら視線を遣れば、左手は真っ赤に腫れ上がり、指一本動かすにも痛みが走るのか伴は顔をしかめている。
「大丈夫か。だいぶ抑えてはいるつもりなんだが……」
「ん?いや、なに。これくらいで音を上げる伴宙太さまではないわい!ガハハ!気にすることはないぞい、星よ」
伴はそう言って、右手をかばいながらユニフォームを脱ぐ。さもありなん。日々、柔道で鍛錬を重ねていようとも掌までは鍛えようがない。
おれもとうちゃんとキャッチボールを始めた当初は球を受ける掌と投げる腕、縫い目のかかる指先が痛み、眠れなかったことを思い出す。
夜中、眠れず泣いていたおれを慰めてくれるねえちゃん共々、とうちゃんにはよく怒鳴られたっけ……。
「…………」
飛雄馬はランニングシャツから覗く左腕を眺め、幼少期の苦い記憶を思い出しつつ小さく微笑む。
と、伴に名前を呼ばれ、我に返って、すまん。急いで着替える、と慌ててワイシャツに腕を通した。
「どうしたんじゃい。腕をぼうっと眺めたりして」
「いや、おれもとうちゃんとキャッチボールを始めた当初は掌が痛くて泣いていたのを思い出してな。ふふ、帰ったらよく冷やすんだぞ」
「星……」
「すまん。遅くなってしまった、帰ろう」
日が落ちるまで投球練習をしていたせいで部長の天野先生は職員室に戻っており、他の部員たちはとっくに帰宅してしまっている。
部室の鍵を職員室に返しに行き、帰路に着く頃にはいくら日が長い時期とはいえ、辺りは真っ暗になっていた。
「辛い、時期を過ごしたんじゃな。星は」
部室の明かりを消し、グラウンドに出たところで背後から伴がぽつりとそんな言葉をかけてきて、飛雄馬は歩みをはたと止める。
辛い時期、か。そう言ってくれるのは伴が初めてかもしれないな。貧乏で着の身着のままの生活をするおれをからかい、優越感から援助を申し出る級友たちばかりで、今までおれに優しく声をかけてくれる人など誰ひとりとしていなかった。
伴は、優しいんだな。だからこそ柔道部の主将を務めるに至り、部を辞めると言ったときも部員たちが引き留めに来たのだろう。
今まで暴君だ、自分勝手なやつだと思っていたが、実際のところはそうではない。伴は優しく、思いやりのある人間なのだ。
「……伴だって柔道の練習で辛い思いをしたこともあるだろうさ。そんなことより早く鍵を返しに行こうぜ。天野先生も腹を空かせて待っているんじゃないか」
部室の鍵を閉め、飛雄馬は伴と連れたち再び歩き始める。
「おう。星、その、だな。これからは辛いこと苦しいことを、あの、その、おれとふたり分け合っていこうぞい。いや、それだけじゃのうて楽しいこと嬉しいことももちろん」
外灯に照らされるグラウンドを横切りつつ伴が気恥ずかしいのかしどろもどろになりながら呟いた。
「なんだ、急に……」
「捕手と投手は夫婦だと言うじゃろう。亭主を支えるのは女房の務めじゃい。二人三脚で末永くやっていこうぞい」
「…………」
外灯の明かりを背にする伴の、得意げに笑っているであろう顔がまともに見られず、飛雄馬は視線を逸らすと足早に彼から距離を取る。
「ほ、星?おれ、何か気に障ることを言ったかあ?」
末永く、なんて、伴はあと一年で卒業してしまうじゃないか。いい大学を出て、親父さんの跡を継ぐんだろう。あんな頃もあったなと思い出に浸って、将来は何の心配もせずに暮らしていくんだろう。
おれには野球しかない。伴が去ったあと、今度は誰がおれの捕手を務めてくれるというんだ。
「伴は卒業後のことは考えているのか」
「えっ」
伴の驚いたか上ずった声を聞きつつ、飛雄馬はようやく辿り着いた校舎の乗降口で外履きを脱ぐ。
「鍵を返してくる。伴は待っていてくれ」
「…………」
永遠にこの時間は続かない。
伴は卒業と共に離れていってしまう。
末永くやっていこうなんて、無責任なことを言わないでくれ。今はただ、こうしておれの球を捕ってくれるだけで十分だ。
薄暗い廊下を進み、飛雄馬は職員室の外から天野を呼ぶと、遅くなりましたと部室の鍵を手渡す。
「こんなに遅くまで熱心なのはいいが、親御さんが心配するぞ。それに伴は三年生なんだからな。あまり負担をかけないようにな」
「はい。今後気をつけます。すみませんでした」
「…気をつけて帰るんだぞ」
職員室の前から手を振る天野に会釈し、飛雄馬は伴の待つ昇降口へと引き返す。
そうして、ぽつんとひとり、下駄箱の陰で待っていた伴の姿を目の当たりにし、飛雄馬は先に帰っていてもよかったんだぜと嫌味を言うなり靴を履く。
「なんじゃい。待っとけと言うたのは星ぞい」
「受験生だろう、伴は」
「う、ぐ……」
「いつも遅くまで付き合わせて悪かった。これからは早めに帰ろう」
「じ、受験がなんじゃい。卒業がなんじゃい!そんなことは甲子園で優勝してから考えたらええんじゃい!星の練習にはおれが好きで付き合っとるんじゃぞい!おれの好意を無駄にするんじゃないわい!」
「伴……」
「それに今更すぎるぞい!おれだからよかったようなものの、並の人間なら星の全力の投球を全身で受け止めた時点で全身複雑骨折で入院して受験だの進路だの考える状況にないわい!」
興奮して体温が上がり、掌の痛みがぶり返したか伴は左手をぶらぶらと振りながら眉根を寄せる。
「…………」
「まったく、心配性じゃのう。星は。出会った頃のあの傍若無人で生意気だったのが嘘のようじゃい」
「それは……」
お互いさまだろう。言いかけて飛雄馬は口を噤むと、帰ろう、と一言呟く。
「じゃから星は何も心配せんでええ。大丈夫じゃい」
「……ああ」
学校の敷地を出て、ふと見上げた夜空のなんと美しいことだろう。伴、この日見たこの空をおれは一生忘れないだろう。きみがそう言ってくれたことも含めて、全部。
深く、入り込みすぎてはいけない。
来年の今頃、伴は隣にいない。
ただ、伴の言うように今は甲子園の、まずは都予選のことを考えなければ。
「星、頑張ろうぞい」
「……まずはその掌を治すのが先決だな」
「う、うぐぐ……」
「おやすみ、伴。また明日」
しばらく歩いて、飛雄馬は自身の住まう長屋へと続く道との岐路で伴にそう声をかける。
伴の居住する屋敷とは正反対の道。
飛雄馬はここからだいぶ先にある支度までひとり、歩いて帰宅することとなる。
「おう。星、また明日……明日の朝には掌も治っとるわい。心配せんでええ」
「…………」
飛雄馬は伴に手を振り、彼に背を向ける。
外灯の少ない路地へ入ると、途端に寂しさが襲ってくる。早く、明日にならないだろうか。
伴に出会ってからというもの、明日が楽しみで堪らない。
伴、きみに出会えて本当によかった。
飛雄馬は腹の虫が空腹を訴えるのをなだめながら家路を急ぐ。途中、見上げた空には満天の星が輝いており、伴も同じ風景を見てくれているといいな、とそんなことを考えながら。