夕暮れどき
夕暮れどき 暑いなあ。
高校の帰宅途中、道すがら伴がぼやいた。
ふむ、確かに暑い。飛雄馬の被っている学生帽の中はしっとりと汗をかき頬を幾筋もの汗が伝い落ちている。それは隣を歩く伴宙太とて同じだった。
いや、伴の方が飛雄馬より恰幅がよく背が高い分、この暑さが堪えているやも知れない。
「星よ、アイスでも食べて帰らんか」
「アイス?いや、そうしたいのは山々だがあいにく金が……」
「ばか!奢る!それくらい」
帽子を脱ぎ、ぐいと捲ったシャツの袖で額の汗を拭いながら伴は声を荒げた。
「奢るったって、あ!」
渋る飛雄馬の腕を取り、伴はずんずんと先を行く。参ったなあ、早く帰らないとねえちゃんに心配かけちまうなあ、と思ったものの伴の気迫に気圧されて飛雄馬は腕を握られたままとある駄菓子屋の店先に引きずられるようにしてやって来た。
「おばちゃん!!アイスをふたーつ!」
勝利のブイサインよろしく伴は店先に佇む白髪の女性に立てた二本の指をずいと見せ付けた。
「はいはい。おやおや、伴さんところのお坊ちゃん。今日はお友達と一緒かい?」
「ああ。そうだ」
頷き、伴はその女性がアイスを取りに奥に引っ込むのを見送ってから飛雄馬におれの親父が小さい頃からある店でな、おれも親父も馴染みなのだと耳打ちした。
ふうん、と飛雄馬は納得し、戻ってきた女性からいわゆるアイスキャンデーと呼ばれる持ち手のついた水色のアイスを受け取る。
「ありがとうございます」
「いえいえ。ふふ、坊っちゃんがお友達を連れてくるのは初めてでねえ。坊っちゃん、見てのとおりだろう」
「ぶっ!おばちゃん!妙なことを星に吹き込まんでやってくれ」
代金を渡してからアイスを口に咥えた伴であったが女性の発言に吹き出して、ごほごほと数回噎せ込んだ。
「ふふ……そうですか」
飛雄馬もまた、アイスを咥えるとニコニコと笑んでみせる。
「いつも一人でね、坊っちゃん。こんな人だけど優しいところもあるんじゃよ」
「ええ、知っています」
「……」
にこやかに飛雄馬に言われ、伴はそれきり黙った。火照った体をアイスが冷やしてくれる。優しい、だなんて初めて言われたな、と伴は女性と楽しげに談笑している飛雄馬を横目で見遣った。
伴自動車工業の跡取り息子、としか幼い頃から見られなかった。誰一人伴宙太として見てくれる人はおらず、学校に行ってもセンセイ達はご機嫌取りに必死であったし、学友たちも何かあってはいけないとばかりに自分を遠巻きにするばかりだった。
子供の頃から体格は良かったし、それならと柔道を始めてみたものの、あっという間に日本一の座に輝いてしまい、手応えはまったくなかった。刺激のない毎日。
びくびく怯える部員たちに喚き散らして、鬱憤を晴らす日々。そんな時、何気なく野球部の練習を見かけて、ははあ応援団長としてしごいてやればちっとはこの青雲高校野球部も強くなるだろう、と思ったのがきっかけだった。
野球なんてくだらない。棒でまりを叩くのが何が面白いと思っていた。
しかして、その名は体を表すと言う言葉よろしく星飛雄馬という男は流星のように青雲高校にやって来たのだ。
「あははは、そうなんですか」
飛雄馬の笑い声に伴はどきりとし、目尻に涙を浮かべた彼を再び瞳に映す。
星、おまえがいなかったらおれはどうなっていただろうか。無意味無乾燥に毎日を過ごして、未だ怯える学友たちに当たり散らしていただろうか。親父の敷いたレールをただただ辿っていただろうか。
口の中でアイスを溶かして、伴は目を何度か瞬かせる。
あの小さな体がおれの運命を変えたのだ。 野球の厳しさ、楽しさを教えてくれ、友を持つ喜び、楽しさを身をもって味わわせてくれた。
「伴!どうしたそんなところでぼうっとして。暑さにやられたか」
「ほほほ、坊っちゃんが暑さにやられるなんて」
「む、二人があまりに楽しそうに話しているから入りづらかったのだ」
「坊っちゃん、いいお友達を持って……この星さんの話、聞きましたよ」
「なに?何を言うたのだ星よ!」
「うふふ、ひみつだ」
棒を咥えたまま飛雄馬はいたずらっぽく笑んだ。女性もまたふふふと含み笑いをし、伴を見遣る。
「か、帰る!!」
こっ恥ずかしくなって伴はかーっと頭から湯気を立たせるとがに股でずんずんと店から離れていってしまう。飛雄馬は女性に礼を言うと彼の後をゆっくりと追った。走れば追いつくことなど訳はない。しかして、一定の距離を保ちつつそうっと。
伴はその気配を感じつつもいつまでも飛雄馬が話しかけてこないものでしばらくそのまま歩いたが、ふいに歩を止めくるりと彼の方を向き直った。
「なんじゃあい!!コソコソついてきおって!」
「ひゃっ!」
突然に怒号を浴びせられ、飛雄馬は肩をすくめ顔をしかめる。
「ええい!胸くそ悪い!星よ言いたいことがあるならはっきり言え!」
「言いたいこと?なんのことだ」
「……」
つかつかと靴音響かせ歩み寄ってから伴は飛雄馬に掴みかからんばかりにコソコソするのは後ろめたいことがあるからだろう!と喚いた。
「ははあ、照れてるな。ふふ、あのおばさん伴のこと褒めてくれてたんだぜ」
「へ、ほ、褒め?」
飛雄馬は笑んで、腕組みするとにやりと笑う。
「おれの球をあざだらけになって取った話をしたらたまげていたぞ」
「む、む」
頬を染めつつ鼻の頭を掻く伴の背中を飛雄馬はぽんと叩いてから先を行く。
その姿を追った伴の目には沈みゆく真っ赤な夕日がやたらと眩しかった。
「おまえの小さい頃の話もたくさん聞いたぞ。うふふ」
「ど、どんな話だ!言うてみい!」
かっとなり伴は駆け出す。おっと、とそれに気づいた飛雄馬もまた走り出した。
「待てい!待たんか星!」
「あははは」
ちょろちょろと逃げ回る飛雄馬を追い、伴は走った。アイスのお陰で程よく冷えたはずの体がまた熱を持ち始める。
ああ、こんなにも楽しいと思ったことが未だかつてあっただろうか、と。誰かと共に同じ時間を共有し、心からの笑顔を向けられたことがおれにはあっただろうか。
それが無性に嬉しくて、切なくて、伴はぼろぼろと両目から涙を零す。
「ばっ、伴!?」
ぎょっとし、飛雄馬は足を止めると慌てて伴の元に駆け寄った。
「ははは!引っかかりおって!!」
心配そうに寄ってきた飛雄馬をがばと抱き締め伴は彼の体を抱き締める。
「うっ!しまった」
「……ふふ、夕日が目に染みただけじゃ」
「……」
ぐすと鼻を啜って伴は目を閉じると飛雄馬を抱く手を緩めていく。と、飛雄馬は爪先立ちになって、伴の首に縋りつくようにしながら彼の唇にそっと口付けた。
「な、えっ!?星」
「ふふ、夕日が見せた幻さ」
ついと体を離して、飛雄馬はにこっと伴に笑顔を見せてから一目散に駆け出す。
「ほ、星ぃ!」
叫んだが既に星の姿は地平線に沈み行く太陽の黒点のように小さくなってしまっている。何なのじゃああいつは、と一人残された伴はぼやいてラムネの味の残る上下の唇をすり合わせてから、明日一体やつとどんな顔をして会えばいいんだ、と悩みつつとぼとぼと家路についた。
やたらに心臓が高鳴って、体の火照りもなかなかに収まらず、伴は帰宅して早々ベッドに潜り込んでしまったのだが、次の日星が何食わぬ顔で、やあと練習にやって来たために伴はぱかんと彼の頭を拳で叩いてやったのだった。