湯殿
湯殿 「飛雄馬、お風呂入っちゃいなさい」
姉の明子にそう言われ、リビングのソファーに座りぼんやりとテレビを眺めていた飛雄馬はうんと頷いた。
あら、珍しいわね。飛雄馬がテレビなんてと笑う明子に、たまにはねと苦笑し、着替えを取りに自室へと入った。下着一式をマンション入居時に買い揃えたタンスから取り出し、向かった浴室にて着ていた衣類を脱ぎ捨てる。自宅に文明の機器である風呂や洗濯機がある生活にもようやく慣れたように思う。
冬の寒い中、銭湯から身を縮めながら帰らずとも良くなり氷のように冷たい水で洗濯板を使い、衣服を洗わずとも良くなった。
姉はこんな楽な生活をさせてもらっていいのかしらと笑うが、おれたちが貧乏暮らしをしていただけで市井の人々はこの電化製品の溢れた便利な生活を当たり前だと思っているのだ。
浴室で飛雄馬は今日の練習での疲れと汚れを落とすため髪と体を洗い、湯の溢れんばかりに溜められた浴槽へと身を沈める。
程よい熱さの湯が肌に纏わりつき、自然と溜息が漏れた。
「…………」
ひとりで入る風呂の、なんと心地よいことだろう。
考えてみれば、長屋では銭湯通いをしていたし巨人の寮にいた頃も先輩方に混じり、身を小さくして湯船に浸かっていた。こうして風呂にひとりでゆっくりと浸かったことなどここに越してくるまでは未経験であった。狭くはあるが、唯一ひとりになれる時間と場所である。
「飛雄馬、湯加減どうかしら」
洗面所から明子が声をかけてきて、飛雄馬は大丈夫と声を張り上げる。
タオル、ここに置いておくわねと言うなり明子はリビングへと戻ったか気配がしなくなって飛雄馬は再び、大きな溜息を吐いた。
しかし、良いのか悪いのか──。
こうしてひとり、風呂に浸かっていると自己嫌悪に陥ることが多くなった。
あのときああしていれば良かったんじゃないか、こうしていればもっと上手くやれたんじゃないか。
父は、父ちゃんは、迷ったときは険しい道を選べと言っていたが、選んだ道は、本当に険しい道だったのだろうか。過ぎたことを悔やんだところで時が戻るわけでもなく、あのときはそれでよかったのだと無理矢理己を納得させるしかないのだが──。
飛雄馬は両手の平で湯を掬い、それで顔を洗う。
寮にいた頃は常に伴と一緒で、風呂に入るときも眠るときも明日の試合のことや特訓、気になる選手らの話で持ちきりとなり、ここまで気分が落ちることはなかったような気がする。
ひとりとは気楽なようで案外、寂しいものなのかもしれぬ。
ざぶん、と飛雄馬は一度、湯船の中に頭のてっぺんまでを沈めると大きく息を吐きつつ、顔を出した勢いで浴槽を跨ぎ、洗い場を経て洗面所に繋がる浴室の戸を開ける。そうして、明子の用意してくれていたバスタオルで水気を拭い、持ち込んだ下着類を身に着けリビングへと戻った。
「ありがとう、ねえちゃん。いい風呂だったよ」
「そう。それはよかったわ」
にっこりと微笑む明子につられ飛雄馬も笑顔を見せると、体の火照りが治まるまで時間を潰すべく、入浴前に座っていたようにソファーへと腰かけ、背もたれに深く身を預けた。
「明日もアルバイトかい」
「ええ。ねえさんも甘えてばかりはいられないわ。こんな贅沢な暮らしをさせてもらっているんだもの。
あ、そうそう。昼間にお買い物に行ったときアイスを買ったの。冷凍庫に入っているわよ」
「贅沢なんて……これが今の世の中の普通の暮らしだよ」
「ふふ、ねえさんにとっては贅沢よ」
最新式の冷蔵庫に備え付けられた冷凍庫からアイスクリームを取り出し、飛雄馬は食器棚からスプーンを手にソファーへと戻る。
明子の、ねえさんもお風呂いただくわねの言葉にアイスクリームの蓋を取りつつ返事をし、スプーンで一口分を掬った。
乳白色をしたそれはひどく甘く、口に運ぶなり舌の熱でじわりと解けていく。
半分ほど食べたところで飛雄馬は寒さを感じ、部屋に戻ってパジャマを羽織ると、残り半分を食べ終えてからぼうっと部屋の天井を眺めた。
これが、幸せで、いわゆる人並みの暮らしなのだろうか。プロ野球選手になって、巨人の星になって、得たかったものとは今考えてみれば、何だったのだろう。
「…………」
「ふう。いいお湯だった」
「ふふ、そりゃよかった」
長い髪を拭いつつ、風呂から戻った明子に笑いかけ、飛雄馬は明日も早いからもう寝るよと腰を上げる。
「ちゃんと歯磨きするのよ」
「言われなくてもわかってるよ」
「ふふ……」
冗談を飛ばしてきた明子に苦笑いし、飛雄馬は歯磨きを済ませると自室のベッドの上に横になった。
姉の明子が洗面所でドライヤーを使い、髪を乾かす音がここまで聞こえてくる。
目覚まし時計をセットし、飛雄馬はそのまま目を閉じた。今日の出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡るのがわかる。明日は、今日よりいい日でありますように、そう願いつつ、飛雄馬は一度、寝返りを打った。
そのうちに姉が使うドライヤーの音もいつしか聞こえなくなり、飛雄馬は訪れた睡魔に抗うことなくそのまま身を委ねた。