弱み
弱み ひとり消え、ふたり消えとする内に遂にひとりぼっちになってしまった飛雄馬はちらちらと先程から手首にはめた腕時計で時間を気にしている。
うちで食事会をするからぜひ来てほしい、もちろんきみの顔馴染みの友人たちも呼んでいるから安心したまえ、と飛雄馬は先日、花形から誘いを受け、伴や左門、牧場らと共に彼の屋敷を訪ねた。
なかなかこういう機会もなく、それぞれの近況を知ることができてそれなりに楽しかった。
しかし、楽しかったのもここまでで、原稿の締切が、とか明日の会議の資料が、とか妻が待っちょるからなどと言った理由をつけ、皆早々に屋敷を引き上げてしまい、残ったのは飛雄馬ひとりという有様。
伴がここを去る際、おれもお暇させてもらう、と飛雄馬は腰を上げたが、姉の明子にあなたは何の予定もないんでしょうなどと言われ、強引に引き留められてしまったのであった。
昔から、ねえちゃんの、あの縋るような目に飛雄馬は弱い。
思い出の中のねえちゃんは、いつも悲しい顔をしている。現に今だってそうだ、花形さんはおれのせいで再び球界に返り咲き、遠征などで家を留守にすることが多いと聞く。
屋敷にひとり残り、ねえちゃんの相手をすることがおれなりの罪滅ぼしと言ったところか。
とは言え、これくらいで相殺できるとは到底思えんが。 しかし、物事には限界と言うものがある。
間もなく寮の門限の時刻になろうとしている。
名残惜しくはあるが──否、やっと帰れる、と安堵している気持ちが勝るやも知れぬ──飛雄馬はそろそろ、と言うなり来客用のソファーから腰を上げた。
「あら、もうそんな時間?泊まっていったら?ね?」
「うむ、それがいい。飛雄馬くん、明日は月曜だろう。寮長にはぼくから話をつけておくよ」
「いや、そう言ってもらえるのはありがたいが、明日は朝から行くところがある」
飛雄馬はここに来て、真っ赤な嘘を口にする。
後ろめたくはあるが、正直、早くひとりになりたいと言うのが本当のところだ。
「…………」
「そう、それなら仕方ないわね」
しゅん、と目に見えて肩を落とす明子と、じっとこちらの顔を見上げ、押し黙ったままの花形から飛雄馬は視線を逸らし、部屋の出入り口へと向かった。
なぜ、花形さんは何も言わない?
まさか、おれの嘘に気付いている?
これくらいの嘘、誰だってつくだろうに。
なぜ花形さんは、そんな顔をする?
飛雄馬は自分の背後で、ぼくが送るよと言う花形の声と、お願いね、と念を押す明子の声を聞く。
「明子はここでいい。片付けが残っているだろう」
「そう、ね。玄関まで行くと名残惜しくなってしまうものね……飛雄馬、また来てちょうだいね。今日はとても楽しかったわ」
「…………」
飛雄馬は大きく鼻から息を吸うと、口から鋭くそれを吐いてから、おれも楽しかったよ、とだけ返すと、後ろを振り返りもせず、歩いた。
顔を見れば泣いてしまうかもしれない。
今日に限ってなぜ、いや、おれは再会した日以来、ねえちゃんに接触することを避けてきた。
再び野球をする、と言ったおれを引き留めたねえちゃんを悲しませるのは、あんまりだと思ったから。
おれが巨人に返り咲いてしばらく、花形さんまでもが球界入りし、おれの足はますますこの姉の家から遠退いてしまった。
だと言うのに、ねえちゃんはおれにまた来てほしい、と、そう、言ってくれるのか。
「待ちたまえ飛雄馬くん、飛雄馬くん」
玄関先で靴を履き、早々に屋敷を出ようとする自分を引き留める声があって、飛雄馬は背後を振り仰いだ。
「花形さん、まだ何か?」
「さっき、明日用事があると言ったのは嘘だろう」
「…………それが、どうしたって言うんです」
図星を突かれ、飛雄馬はハッ、と大きく目を見開いたが、すぐに真っ直ぐ花形を見つめ返すと、淡々と答えた。
「そんなにぼくが嫌いかね」
しかし、花形にそう切り替えされ、思わず口籠る。
「そういう、わけでは……」
「では、なぜ、ここに留まることを嫌がる?」
「…………話したくな、っ!」
突然に距離を詰めてきた花形に両手首をそれぞれに掴まれ、飛雄馬は扉にドン!と強かに背中をぶつける。
手首もそれぞれに扉に押し付けられ、身動きが取れない。自由になるのは両足くらいなものだが、その足の間にも花形の膝が入っている。
「理由くらい教えてくれたっていいだろう。別に怒ったりはしないよ」
「ねえちゃんを呼ぶぞ、花形さんっ……!こんな真似……」
「呼びたければ呼ぶといい。別にぼくはきみとの関係が彼女に知れたところで困りはしない」
「なに、をっ……!」
手首を握る手の力は緩むどころか、強くなる一方で、飛雄馬は顔をしかめ、痛みに喘ぐ。
と、そこに花形が顔を寄せてきて、飛雄馬は首を振り、彼を躱した。
が、足の間に入れられていた膝、その腿で股間を押され、ギクリと体を強張らせたことが仇となった。
寄せてきた唇に口を塞がれ、続いて滑り込もうとしてきた舌に飛雄馬は身を震わせるも、すんでのところでそれの挿入を阻むことに成功する。
「…………!」
花形の唇に飛雄馬は歯を立て、彼を怯ませたのであった。飛雄馬の口の中には、裂傷を負った花形の唇からの出血による鉄の味が僅かに広がる。
「おれだけなら構わんが、ねえちゃんを泣かせるようなことだけはよしてくれ」
「フフ、なに、あれは気付いているとも。知っていて白を切っているに過ぎんよ。最初からね」
「う、嘘……」
「嘘じゃない。事実さ」
そんな、そんなこと…………。
飛雄馬の視界は歪み、体温が足元から抜けていくような錯覚を覚える。
あとに残るは、つめたく冷えた体と、虚脱感。
ねえちゃんは、全部知っていながら平静を装い、何食わぬ顔をしておれをもてなしてくれたと……。
「………………」
「フフッ、嘘だよ、飛雄馬くん。きみがぼくたちを欺いて帰ろうとしたからね、そのお礼さ」
その場に呆け、瞬きすることも忘れ立ちすくむ飛雄馬の頬に花形は口付けると、帰ろう、と握っていた手を離し、ドアノブを捻った。
「あ……っ!」
扉を支えに立っていた飛雄馬は急に支えを失い、危うく転倒しそうになったのを花形が抱き留める。
「そんなに驚いたかね。ぼくの演技力も大したものだね」
「っ…………、」
まるで他人事のように笑う花形を睨み、飛雄馬は自分を支えてくれた腕を跳ね除けると、ひとりで帰れる、と彼に背を向けた。
「なに、もう遅い。いくらきみが男とは言え送るくらいさせてくれたまえ」
「断る。これ以上一緒にいたら何をされるかわからんからな」
「何を、ねえ」
「…………」
こんなところに、来たこと自体間違いだったのだ──飛雄馬はフフッ、とこちらを嘲るような笑い声を聞きつつ、悔しさに奥歯を噛む。
ねえちゃんは、花形さんの何がよかったんだろう。
何に惹かれ、結婚するに至ったのだろう。
それはおれには一生わからんだろうし、わかりたくもない……いいや、よそう。
ねえちゃんの好きな人をそんな風に言うのはよくない。元より、ここを一刻も早く出たいがゆえに嘘をついたおれが招いた結果だ。
それにしても広い、ここを抜ける頃には夜が明けてしまうのではないかと感じてしまうほどに、花形さん宅の庭の造りは壮大で、常時水を噴き上げている噴水もあれば、巨大な石像まで置かれている。
公園か何かと勘違いし、敷地を訪れる人がいるのではないか──と飛雄馬がくだらぬことを考えた刹那に、後ろから一台の外車がエンジン音を響かせ、接近して来た。
「乗りたまえ。この住宅街ではタクシーもろくに捕まらんよ」
「…………」
「門限に間に合わなくなるぞ」
「…………」
卑怯だ、と一度は花形を無視した飛雄馬だが、彼の発した一言により、その後部座席に飛び乗る。
何もかもすべてが、この人の手の内にあるような気がしてならない。おれは彼の掌の上で踊らされているに過ぎないのではないか。
おれが苦悩し、選んだ選択肢の先それぞれに花形さんは答えを用意しているんじゃないか。
それともどれを選んでも、こうなるように仕組まれているのか。
「妙なことをしてすまなかったね。フフ、明子の寂しそうな顔を見るとつい、ね」
「……おれにちょっかいをかけることに精を出すより、ねえちゃんを大事にしてやってください」
飛雄馬は花形の顔を、出来るだけ見ないで済むように彼の後ろに陣取り、そのドアに凭れている。
「きみがまた一晩、ぼくに付き合ってくれると言うのなら考えんでもないがね」
「……あれは一度きりの約束だったじゃないか」
「さあ、そんな約束をした覚えはないが」
「…………」
「まあ、いい。寮長にはよろしく伝えてくれたまえ」
いつの間にか、花形の車は寮の前に着いており、飛雄馬はハッ、とそこで初めて我に返る。
狐につままれるとは、まさにこのことを言うのではなかろうか。
いくら花形さんの車が外車とは言え、速すぎる──。
「……ねえちゃんに申し訳ないとは思わないのか」
苦し紛れに飛雄馬はそう言って、花形を煽る。
「きみが明子と、別れろと言うのならぼくは従うがね」
「…………!」
車から降り、飛雄馬は背後を振り返る。
ニッ、と花形はいつものように何やら含みある笑みを浮かべると、飛雄馬がドアを閉めるなり走り出した。
後に残るは排気ガスの匂いと、夜の静寂のみで飛雄馬はしばらく、その場に立ちすくんでいたが、慌てて寮の出入口の扉を開ける。
思ったより早かったな、おかえり、の優しい寮長の声に迎えられ、飛雄馬はホッと胸を撫で下ろすと、ただいま、と返しそのまま自分の部屋へと向かった。
そうして、扉を開けると、ふらふらとベッドに歩み寄り、きちんと整頓された掛け布団の上に顔から倒れ込む。マットレス内部のスプリングが勢いで軋み、飛雄馬の体をゆらゆらと揺らした。
疲れた。今はもう何も考えたくない。
思い出したくもない。
飛雄馬はベッドに突っ伏したまま目を閉じると、楽しげに談笑する皆を見つめ、微笑んでいた自分の顔を思い浮かべながら、次第に体を蝕んでくる睡魔に抗うことなく身を委ねた。