洋傘
洋傘 参ったな、と飛雄馬は商店の軒下から真っ黒な雲に覆われた空を見上げた。
黒い雲からは大粒の雨が降り注ぎ、数十メートル先も見えないような状況。
後楽園球場で行われた阪神戦のあと、そのまま実家に寄ると去っていった伴を見送り、寮に戻ろうと思った矢先のことである。
ラジオの予報では雨とは言っていなかったんだがな、と幾度目かになる溜息を吐き、いつ止むだろうかと土砂降りの中、目的地へと水飛沫を上げながら走る人々を眺める。タクシーも駅前で客を捕まえるのに忙しいのか、先程から一台の姿も見えない。
「おや、星くんではないかね」
傘を差し、商店前の歩道を行くひとりからそう、声をかけられ、飛雄馬は空に向けていた視線を下げるとやや自身の左へと向けた。
「はっ、花形さん……!」
飛雄馬は彼の名を呼ぶなり、後退り、口内にじわりと滲み出た唾液を飲み下す。
先程、球場で激闘を繰り広げた阪神の花形満が男物の傘を差し、目の前に立っていたのだから飛雄馬が驚くのも無理はない。なぜここに、あなたが、という言葉を飲み込み、飛雄馬は表情を緩めると、自宅に帰られるんですか?と問うた。
「近くを通りがかったらきみの姿が見えてね。雨宿りかね」
「ええ、見てのとおりです。この雨でタクシーも捕まらず困っていたところで……」
「…………」
一瞬の間ののち、ふふ、と自虐気味に笑い声を上げた飛雄馬の鼻先数センチのところに何を思ったか花形は差していた傘をすうっと差し出してきたのである。
みるみるうちに花形のポロシャツの肩は濡れ、雨に打たれた髪からの滴が額を滑り、鼻の横を流れ、顎から滴り落ちる。
「な、っ……!」
花形のまさかの行動に、飛雄馬の口からは素っ頓狂な声が漏れた。
「差したまえ、肩を冷やしてしまう。体調を崩したきみと戦っても面白くないからね」
「で、すが……花形さんも……」
声が震えている。飛雄馬は唇を固く引き結び、呼吸を整えてから、大丈夫ですよ、どこかで時間を潰して帰ります、と花形から視線を逸らした。
「本来なら、寮まで送ろうと言いたいところだが、きみは嫌がるだろうからね」
手を、と花形が続け、更に傘を押し付けるがごとく腕を伸ばしてきたため、飛雄馬の顔へと滴が飛ぶ。
「ひ、人の話を、聞いていたか?大丈夫だと……」
花形は語気を強め、拒絶の言葉を吐いた飛雄馬の手を掴み、傘を無理矢理握らせると、背を向けるなり一目散に駆け出した。
「花形さん!!」
叫んだ飛雄馬を振り返りもせず、花形は降り続く土砂降りの中へと消える。
参ったな、飛雄馬は溜息を吐くと、渡された傘の柄を強く握り、軒下から一歩を踏み出す。
借りた傘をどうやって返そう。球場では人の目もある。
とりあえず、急いで寮に帰ろう。
返す方法を考えるのは、帰ってからにしよう。
飛雄馬は歩調を速め、寮への岐路を急ぐ。
強引に押し付けられた傘の柄には、花形の手のぬくもりが残っている気がして、飛雄馬は握る指の力を強める。
雨は未だ、止む気配はない。