洋雨
洋雨 数年ぶりに訪れた東京の街にて、飛雄馬は以前住居を構えていたマンション付近まで立ち寄ってみることとした。何か理由があるわけでもなく、好奇心からの気まぐれである。
誰にも行き先を告げずにひっそりと東京を離れてから二年、いや、もう三年になるだろうか。
毎日のように歩いた街並みは記憶とはだいぶ違っていて、駅前のラーメン屋は洒落た喫茶店に様変わりし、マンションの近くにあった喫茶店は閉店してしまっている。久しぶりにあの店の中華そばと餃子で腹を満たしたかったのだが。
空模様も思わしくなく、今にも雨が降り出しそうな雰囲気だが、さて、どうしたものかと考えているうちに見慣れたマンションの建物が視界に入って、飛雄馬はサングラスのレンズ越しに、遙か頭上にそびえる最上階を見上げた。そうして、あの屋上でまりをついたことを思い出し、ふ、と口元を緩める。
ミナちゃんとその両親は今でもここに住んでいるのだろうか。あの一件からエレベーター待ちの際など、顔を合わせるたびに怯えられたことを思い出す。
それまでは恥ずかしそうに母親の陰に隠れながらも、こちらが手を振れば手を振り返してくれたというのに。彼女には悪いことをしてしまったな。
ふと、飛雄馬は何気なしに視線を元に戻す。
すると、目の前には見覚えのある人物がひとり、佇んでいるのに気付いて、飛雄馬は驚きのあまり立ち止まる。伴、の二文字が喉元ギリギリまで迫り上がったのを飲み込んで、こちらに一瞥もくれず、マンションのとある階を見つめる彼の横顔を見遣った。
なぜ、ここに。一体何をしにきた。
尋ねたいのを必死に堪えて、飛雄馬が素知らぬ顔をしてそのまま通り過ぎようとしたところに、ぽつりと水滴が頬に触れる。
降り出したか、と見上げた頃には雨粒は大きくなり、勢いよく地上へと降り注ぎ始めた。
付近に止まっていたタクシーに駆け込む人々や、近くの商店の軒下を間借りする人などで辺りは騒がしくなり、雨足も強さを増す。
しかして、彼は道行く人々のように駆け出すこともなく、雨を遮るものの下に潜るわけでもなく、黙ってその場に立ちすくんでいる。
飛雄馬もまた、そこから一歩も動けぬまま、彼の横顔を見つめた。
「……星」
彼が、自分の名を呟いたような気がして飛雄馬は唇を引き結ぶ。雨音の奏でた幻だろうか。
そもそも、立派な三揃えに身を包んだ彼は本当に伴宙太なのだろうか。おれが、そう思いたいだけなのではないか。
風の噂で伴もまた、花形と同じように親父さんの興した会社の役員に就いたと聞いた。
いつまでもおれに構っていられる暇などないはずだ。
きっと他人の空似に違いない。
伴ならあるいはと、そう自分に都合よく考えたいおれの思い込みだ。
「宙太坊っちゃん、いや、常務。そろそろお戻りになられてはいかがです」
飛雄馬は何者の声で我に返ると、確かに今、彼は宙太と呼ばれたな、と疑惑が確信に変わったことに対し、奥歯を噛み締める。
いっそ、別人であってくれたら、このまま平然と通り過ぎてしまえたのに、と。
伴──の傍らに立つ制帽をかぶったスーツ姿の彼は専属の運転手だろうか、自らも傘をさし、もう一本の大きな紳士用の傘を差し出している。
「また親父、いや会長に嫌味を言われたか」
「いいえ、まさか。会長は何も……傘をささずにぼうっと立っている常務が私は心配で」
「へ、へ〜っくしょい!!う〜む、冷えてきたわい」
「行方不明になられた星さんが心配なのはわかりますが、毎日ご自分が見に行かれずとも、興信所の者に任せておけばいいじゃないですか」
「……かつての親友、伴宙太が一番に、おかえりを言ってやりたいじゃろう。いつ戻ってきてもええように部屋も当時のままにしてあるんじゃから」
「常務の気持ちはわかりますが、今日のところは引き上げましょう。風邪を召されては、星さんを出迎えるどころじゃありませんから」
へ〜くしょい!ともう一度、大きなくしゃみをしてから伴はそうじゃな、と肩を落としつつ、運転手から差し出された傘を受け取るのが飛雄馬の目に入った。
「…………」
雨が帽子や羽織るジャケットを濡らすのも厭わず、飛雄馬はふたりをじっと見つめる。
「ん、なんじゃい。きさま、傘を持っとらんのか」
と、こちらに視線を向けた伴に声をかけられ、飛雄馬はどきん、と自分の心臓が跳ねる音を聞く。
しまった、気付かれた、とそのまま駆け出そうとしたところで歩み寄ってきた伴から頭上に傘を差し出され、飛雄馬はその場に縫い止められたように動けなくなる。
「…………!」
「使うとええ」
「じ、常務!」
「ほら、早く受け取れい」
「…………」
差し出された紳士用の傘を、おそるおそる飛雄馬は受け取った。握った傘の柄には伴の手のぬくもりがまだ残っていて、飛雄馬は目頭が熱くなるのを感じる。
ありがとう、と伝えたいのに言葉にならず、頬を伝う涙を拭うこともできぬまま、飛雄馬はにっこりと微笑む伴の顔を雨に濡れたレンズ越しに見上げた。
「常務、傘は二本しかないんですよ!」
「ええい、うるさいのう。伴重工業は困った人には自ら進んで手を差し伸べる優しい人材を育てるのがモットーじゃろう」
「そ、そんなの初めて聞きましたよう!」
隣を通り過ぎていくふたりを見送り、飛雄馬は背後を振り返る。
「は〜っくしょい!!」
「ほら、言わんこっちゃない」
土砂降りの中、道行く人も疎らとなった街を伴と運転手は何やら口論となりながらも歩み、去っていく。
飛雄馬は傘の表面を雨粒が激しく叩く音を聞きながら、次第に小さく、遠くなっていく伴の背中をいつまでもずっと眺めていた。握る柄は未だ、伴のあたたかな体温を有している。