予想外
予想外 応答なし。
伴の屋敷の玄関前にて飛雄馬は首を傾げる。
しばらく待ったのち、気を取り直して玄関扉のすぐ横にあるチャイムを鳴らしたが、やはり中から返事はなく、飛雄馬はやはり電話を一本、入れてから訪ねるべきだったか、と閉じられたままの引き戸を見つめた。 日曜でもあるし、伴のやつ、もしかするとまだ寝ているのかもしれない。おばさんも手が離せない状況なのかもしれない。
久しぶりに訪ねて驚かせようという魂胆だったが、どうやらその目論見は外れたようだ。
仕方がない、帰るとしよう。
飛雄馬は手首に巻いた時計をちらと見遣ってから、どこかで昼飯でも食べて帰るか、とその場で踵を返す。
すると、今し方背を向けたばかりの引き戸が開く音がして、飛雄馬は、伴だろうか、それともおばさんだろうか、と脳裏にふたりの顔を思い描きながら振り返る。しかして、その予想はものの見事に裏切られ──開いた引き戸から顔を出した花形の姿に、呆気にとられ、飛雄馬は立ち止まった。
「おや、飛雄馬くん。どうしたのかね、こんな時間に」
「はっ、花形さんこそなぜ伴の家に?」
「いや、なに、伴くんと少し、話したいことがあってね。今日訪ねる約束をしていたんだが、彼はあの通り朝が弱いだろう。中で待つように言われてね。しばらくひとりで待っていたが、玄関に人が来ても誰も出る気配がない。無視しようとも考えたが……フフッ、まさかきみに会えるとはね」
「おばさんは、いや、花形さんに中で待つように勧めたお手伝いさんは?」
「買い物に出て行かれたよ。ついさっき、ね」
「…………」
とんだことになってしまったな、と飛雄馬は目の前に立つ男を見据え、額に汗を滲ませる。
今更、連絡してから訪ねるべきだったと強く後悔しても仕方がないこととはいえ、まさかこの男に会うとは。花形さんからはこれまでに何度も彼の屋敷に誘われてはいたが、その度に適当な理由をつけ、断ってきた。それが今、まさかこんな場所で顔を突き合わせることになるとは。
「きみも伴くんに何か用かね。それとも午後から約束でもしていたかい」
たまたま近くを通りがかったから──その言葉を飛雄馬は飲み込み、ああ、ちょっと、と言葉を濁す。
またここで厭味でも聞かされようなら堪らん、と思って飛雄馬が咄嗟につい吐いた嘘だったが、花形はそれを見抜いたか、へえ、と相槌を打つと目を細め、口元に薄く笑みを湛えた。
「伴を起こさないのか?このままここにいても埒が明かんだろう」
「ぼくの心配を?フフ、あいにくと時間はたっぷりあるからね。しかし、飛雄馬くんとの約束があるというのなら話は別だ。彼を起こそうじゃないか」
言うと、花形は飛雄馬に屋敷の中に上がるように促し、伴が寝ているという部屋へひとりで先に行ってしまった。参ったことになったな、と飛雄馬はがらんとした玄関先に立ちすくんだまま、自分の身の処し方を考える。このまま何も見なかったことにして、聞かなかったことにしてこの場を立ち去るか。
それとも伴を起こすべく、花形さんの後を着いていくべきか。
久しぶりに昼飯でも一緒に、と軽く考えたことが大事を招いてしまった。
「飛雄馬くん?」
引き返してきたらしき花形に名を呼ばれ、飛雄馬は、ギクッ!と身を震わせてから、ええいままよとばかりに玄関先で靴を脱ぐと先を行く彼の後を着いていく。 次第に大きくなる伴のいびきが、今はとてつもなく恨めしく感じられる。
花形が廊下と部屋とを隔てる襖を開け、先に中に入ると、伴の耳元で何やら囁くのを見遣りつつ、飛雄馬も室内へと足を踏み入れた。
それこそ暖簾に腕押し、糠に釘の状態で伴は未だ大いびきをかいている。飛雄馬も続いて伴の耳元で囁くが、やはり応答はなかった。
ふたり、無言のまま、浴衣の乱れも気にせず、布団に大の字になって眠る伴を見下ろす。
「…………」
「……外に出ようか」
先に口を開いたのは花形で、飛雄馬もそれに反対する理由もなく、すごすごと為す術なくふたり揃って伴の部屋から退散する結果となった。
「彼はいつもああなのかい」
訊かれ、飛雄馬は、「だいぶ疲れも溜まっているんだと思う」と伴を擁護するような言葉を吐く。
元々、朝は弱い方であるし、一度眠るとなかなか起きないタイプでもある。部屋の中には微かにアルコールの匂いも残っていたし、昨夜はきっとたらふく飲んでいるのだろう。
「……それならまた今度にするとしよう。きみは待つかね」
「…………!」
花形の口を吐いたまさかの言葉に飛雄馬は驚き、一瞬、歩みを止めた。
「一緒に昼食でも、と言ってほしかったかい?」
「い、いや、そんなことより、伴にはおれから強く言っておく。何か伝言でもあれば伝えておくが」
「伝言?」
ぴたり、と玄関先まであと十数メートルまで来ていた花形の歩みが止まる。
「…………」
そんな大仰なことを訊いたつもりはなかったが、と飛雄馬は花形が足を止めたことに恐れ慄き、瞬きもせぬままその場に固まる。
「今度はぼくの屋敷に来たまえ」
「な、っ……!」
いつの間に振り返ったか、前にいた筈の花形との距離が縮まっており、飛雄馬は数歩、後退った。
つい、と音もなく、そして何の躊躇いもなく顎先に掛けられた指によって、飛雄馬は花形の顔を嫌でも真正面に見つめ、表情を仰ぐ格好を取る。
花形さんの瞳に映る、自分の顔が情けなく、何と間の抜けていることか。
その時間が永遠にも思えた刹那、ふと、花形が顔を傾け、唇を寄せてきたために、飛雄馬は慌てて目を閉じると唇を引き結んだ。瞬間、温かく柔らかいものが唇に触れ、飛雄馬は身を強張らせると呼吸を止める。
すると、唇よりも固く、濡れた何かが閉じた唇をなぞって、飛雄馬は全身が粟立つのを感じた。
顎に触れていた指が、そろりと頬をなぞったかと思うと、その指先は飛雄馬の耳に掛かる。
再び、唇に柔らかなものが触れて、飛雄馬は反射的に口を開くと、新鮮な空気が肺を充たしたことで、全身が熱く火照るのを感じた。
しかしてそれも束の間、開いた唇の隙間から滑り込んだものにより、飛雄馬の口内は蹂躙される。
「ふ……っ、ぅあ……」
口の中を犯すもの──の正体が、花形の舌であると知ったとき既に飛雄馬は、彼に言われずともその動きに合わせ自分から舌を絡ませるまでになっていた。
唾液に濡れた唇を触れ合わせ、舌をゆるく吸い上げる。フフッ、と時折混じる花形の笑みが、飛雄馬の腹の奥を疼かせ、その腕を彼の体へと縋らせた。
と、玄関の扉が開く音がして、ハッ!と飛雄馬は我に返ると、弾かれたように花形から距離を取る。
「あら、靴がふたつ?」
「ああ、すみません。飛雄馬くん──星飛雄馬くんが訪ねて来てくれたもので──」
何事もなかったかのように、平然と花形は帰宅したらしき老女──おばさんに声を掛けた。
「まあ、嫌ですよ。星さん、そんないらっしゃるのなら一言おっしゃっていただけたら……」
「…………」
「っ……」
飛雄馬は真っ赤に染まったままの顔をしかめ、なるべく花形を見ぬようにして、すみません、と謝罪の言葉を口にする。
こんな形で、嘘が露見するとは。
「……急用を思い出したもので今日はお暇させて貰おうかと。彼にはよろしくお伝えください」
「それはそれは……すみません、花形さん。坊っちゃんはこのババが責任を持って叱っておきます」
「いえ、日曜に訪ねたぼくの責任です。また日を改めて」
花形の視線を感じながらも、飛雄馬は目を閉じたまま、未だ熱の残ったままの唇を噛み締める。
「何のお構いも出来ませんで申し訳ありません」
「とんでもない。こちらこそご迷惑をお掛けしました」
おばさんに見送られ、靴を履くと屋敷を出て行こうとする花形の後ろ姿を目の当たりにし、飛雄馬はようやく目を開けると、ホッと息を吐く。
「では、また」
そう言って、振り返った花形と視線が絡んで、飛雄馬はその場に硬直したまま、扉が閉まるまでの数分、身動きが取れなかった。
「まったく、坊っちゃんときたら……それに比べて花形さんの凛々しいこと。やっぱり所帯を持つということは大事なことでございますね……星さんにもご迷惑ばかりで申し訳ない」
「おれは、そんな、迷惑なんて……こちらこそ急に訪ねてすみません」
深々と頭を下げるおばさんに、飛雄馬は顔を上げてください、と彼女を労る。伴はまだ眠っているのか大きないびきはここまで聞こえてくる。
「坊っちゃん、宙太坊っちゃん!」
声を張り、買い物の荷物もそのままに伴の眠る部屋へと向かうおばさんの背を目で追いながら飛雄馬は、誰もいない無人の玄関に視線を遣ってから、先程の花形の言葉を反芻する。
あれは伴に対してのものなのか、それとも──?
いいや、深く考えるのはよそう、あのままを伴に伝えたらいい。おれが悩む必要はない。
飛雄馬は自身もまた、伴を起こすためにおばさんの後を追うようにして彼の部屋へと急いだ。