夜凪
夜凪 部屋の明かりを消してすぐ、布団を三組並べたうちの奥で眠るビル・サンダーは大いびきをかき始めた。
宮崎県宮崎市にある、旅館、その名も青島荘に飛雄馬と伴、それにビッグ・ビル・サンダーは身を寄せている。近くには読売巨人軍がキャンプの際に利用する青島グランドホテルがあり、飛雄馬たちがここ宮崎にいる理由もその巨人軍に纏わるものであった。
いわゆる、入団テスト生として飛雄馬は南国宮崎に身を寄せている。
ビル・サンダー氏を師と仰ぎ、ここまでこぎつけはしたが、入団できるかどうかはこれからの自分の行いにすべてかかっているのだ。
飛雄馬はこちらに背を向け、眠っているのか起きているのかわからぬ伴の背中をちらと一瞥してから、そっと布団を抜け出す。
何やら背後で、布団が動いた気がしたが、飛雄馬は振り返ることなく、ジャージの上を引っ掛けると部屋を出た。そうして途中、他の宿泊客が廊下まで聞こえる大きな声で宴会を繰り広げている楽しげな様を目に留めつつ、玄関へと向かう。
旅館を出るとすぐに潮の香りが鼻をくすぐり、打ち寄せる波の音が耳に入った。宮崎に、来たのだなと飛雄馬は目を細め、小さく微笑むと歩き出す。
感傷に浸るために抜け出したわけではないのだが、夜という時間のせいだろうか。人恋しいわけでもないのに。あの、日向三高野球部に巡り会ったのも、確かこの日南海岸だったか。
おれは再び、ここに戻ってきてしまったのだな。
それとも、彼女がおれを呼び寄せてくれたのか。
飛雄馬は、海岸沿いに建てられたホテルの宿泊客らが使用する遊歩道をしばらく歩いたのち、靴のままで砂浜へと降り立つ。
昼とはまったく違った顔を見せる夜の海。
変わらぬのは波の音だけだろうか。
外灯もほとんどない浜辺を歩いて、飛雄馬は波打ち際まで来ると、その場に腰を下ろす。
寄せては引き、引いては寄せる波の音が心地よく、飛雄馬は潮の香りを胸いっぱいに吸い込む。
明日も早起きせねばならんというのに、どうしても寝付けず、ここに来てしまった。
彼女に出会わなければ、海の美しさも波の音の心地よさも、おれは知らなかっただろう。
美奈さん、おれはまた、野球をやろうと思っています。あなたに出会い、一度は捨てることも考えた野球…………。
野球をやっていなければ、あなたのような素晴らしい人に出会うことはなかった。それだけでも、おれは野球をやっていてよかったと思える。
美奈さん、天国はどんなところですか?
そこからおれの姿はどのように見えますか?
「…………」
ふっ、と飛雄馬は吹き出し、首を振る。
相変わらず、女々しい。
今は、長島さんの期待に応えるべく、無事巨人軍入団を果たすべく体を休めることが先決だ。
感傷に浸るのは、それからでも遅くはない。
「星よ」
「伴……!」
すると、部屋で横になっていたはずの親友・伴宙太に名を呼ばれ、飛雄馬は慌てて背後を振り返ると、彼の名を口にした。いつからそこに立っていたのか。
足音さえも波の音に掻き消されていたか、まったく聞こえては来ておらず、飛雄馬は予期せぬ親友の登場に驚き、目を丸くした。
「何をやっとるんじゃこんな夜更けに。いくら宮崎が南国と言えども体を冷やすぞい」
「伴こそ、明日起きられるのか」
隣に腰を下ろす伴を見つめ、飛雄馬は身を案じる言葉をかけると、近くに落ちていた小さな貝殻を拾い上げる。
「明日から実際に球団練習に加わるんじゃろう。星らしくもない、こんなところで夜更かしなんぞ」
「気が立って眠れないんだ。眠ろうとすればするほど目が冴えて、な。そろそろ戻るつもりではあったが、まさか伴まで来るとはな。サンダーさんは?」
「気持ちよさそうに大いびきじゃあ」
「そうか。ふふ……伴も図体に似合わず気が小さいところがあるからな。枕が変わって眠れんのだろう」
「ばっ、馬鹿を言うでないぞ、星よ。わしゃきさまのことが心配で……」
飛雄馬は伴の反応に顔を綻ばせてから、小さくぽつりと、きみが来てくれて助かった、と漏らす。
伴もまた、その言葉の意味を理解したか、口を噤むと黙って波の音に聞き入る。
「…………」
「なに、わしでよければ好きなだけ頼るとええ。星のためなら一肌でも二肌でも脱ぐぞい」
「伴は」
「なに?」
柄にもなく臭い台詞を口にしてしまい、どっと汗をかいた伴だったが、飛雄馬に呼ばれ、場を取り繕うかのように笑みを浮かべると、どうした?と尋ねた。
「伴はもう、どこにも行かないと約束してくれるか」
「…………」
波がもう、足元を濡らしそうなほどに近くなっている。砂を浚い、引き返したかと思えば、再び足元まで忍び寄る。
「帰ろう、伴……」
飛雄馬は腰を上げ、手で尻についた砂を払う。
昼間のそれとは違う、やや湿気を孕んだ冷たい砂。
「わしはきさまともう野球をすることはできんし……もう、見守ってやることしかできんが、それでも傍にいてくれと言うのなら、わしはずっと星の傍にいるつもりじゃ」
「…………」
その場で伴に背を向け、飛雄馬は歩き出す。
砂を踏む、独特の足音が辺りに響き渡る。
「ほ、星よ、わしゃなんか妙なこと言うたかの。気を悪くしたのならすまん。許してくれえ」
「こちらこそ、伴。変なことを尋ねたな。ふふ、おれもいつまでもきみに甘えてはいられないからな」
「精一杯、やってこい、星。きさまなら大丈夫じゃい」
「その言葉が何より嬉しいな」
飛雄馬は立ち止まり、こちらに歩いてくる伴を見つめる。その背後、波打ち際に、一瞬、懐かしい人の姿を見たような気がして、飛雄馬はふいと顔を逸らす。
星?と訝しげに名を呼んだ伴に対し、何でもないと返してから飛雄馬は歩みを再開させる。
「それにしても、宮崎の海はいつ来ても綺麗じゃのう。ゴミゴミした都会の海とは大違いじゃい」
そうだな、と隣を歩く伴に頷き返し、飛雄馬は宮崎で出会った思い出の中の彼女を思い起こさせる海の音に、人知れず聞き入った。