欲求
欲求 どくどくっ、と腹の上に撒かれる熱さに飛雄馬は目を閉じ、大きく息を吐く。
顔を隠すように目元を覆っていた腕をどかせば、伴がニコッと満面の笑みを浮かべてきて、飛雄馬も釣られて笑った。
ねえちゃんの目を盗んで、こういった行為をするようになって、果たしてどれくらいになるだろうか。
人間の三大欲求なんてものは、睡眠欲と食欲、それから性欲だと言う話をどこかで聞いたことがある。
果たしてそれを耳にしたのが、中学の時分だったか、たった数ヶ月しか通っていない高校生時代のものだったかは思い出せないが、おれはこの三大欲求の中で、何が一番強いのだろうか、と腹の上に撒かれた伴の体液を上体を起こしてから手渡されたティッシュで拭いつつ考えた。
オズマはおれを野球人形だと言ったが、おれがロボットであるならば、めしを食うこともしないだろうし、はたまた眠ることもせず、花形を始めとするライバルに打たれたところで痛くも痒くもないであろう。
それに、伴の与えてくれる体温が心地良いと感じる気持ちだって持ち合わせていないはずだ。
そう考えると、おれは食べることや眠ることよりも、伴に抱かれていたい、と言う気持ちが強いのだろうか。
おかしな話だ。
まったく、伴に出会ってからおれという人間はどうもおかしい。
「星よ、何か食いに行かんか。腹が減って腹が減ってどうも目眩がしてきたわい」
伴の気の抜けた発言に飛雄馬は我に返ると、腹をさする彼に微笑みを返してやってから、ソファーの足元に落ちていた下着を拾い上げると、それに足を通した。
「あまり外出ばかりしていると寮長の雷が落ちるぞ」
「い、今更なんじゃい!それならここに来る前に断るべきじゃあ!」
「ふふ……じゃあ、最近近くにできた蕎麦屋にでも行ってみるか」
「おお!駅前のじゃな!気になっとったんじゃい!そうと決まればはよう支度せい!」
「まったく……伴は勝手だなあ。こっちはまだ腰が痛くて立つのがやっとだと言うのに」
そんな嫌味を飛雄馬が口にすると、伴はにゃにおう!?と一瞬、カッとなったが、すぐにその発言の意味に気付き、今度は頬を真っ赤に染めた。
「あっ、その……悪気は、なかったんじゃが……」
「ほら、行こう。もう大丈夫さ」
スラックスを穿き、ベルトを締めてから飛雄馬はもごもごと何やら口ごもる伴の肩を叩くと、ひとり玄関先へと向かう。
そうしてそのまま、伴に背を向けた状態で靴を履いていると、どすどすと足音を響かせやって来た彼もまた、飛雄馬の隣で靴に足を差し入れた。
「冬は好かんのう。寒いのは堪えるわい」
「そう、だな。冬は苦手だ」
部屋を出たふたりは乗り込んだ地上へと下りるエレベーターの箱の中でそんな会話を交わす。
「夏も夏で辛いがのう。炎天下の中の練習は頭がぼうっとなって頭がおかしくなりそうじゃい」
「夏も冬も、あまりいい季節ではないな。春や秋がいちばん過ごしやすくていい」
「星と海やらスキーやらに行ってみたいがのう」
「…………」
飛雄馬が答えあぐね、口をつぐんだところでエレベーターが1階に着いたことを知らせる。
すると、同じマンションに住む老夫婦が扉を開けたすぐのところに立っており、飛雄馬は小さく会釈をすると、ふたりが乗り込むまで扉を押さえてやっていた。
ありがとう、と何度も頭を下げ、お礼の言葉を口にする老夫婦に、いえいえ、と胸の前で手を振りつつ飛雄馬は、それではと再び会釈をし、先で待つ伴のもとに駆け寄る。
「すまん、待たせたな」
「いや、ふむ……」
「どうした?変な顔をして……気が変ったか?蕎麦でなく久しぶりに中華料理屋にでも行くか?」
「星のその何気ない気遣いやらをおれも見習わんとな、と思ってじゃのう」
腕を組み、伴がぶつぶつと何やら呟くのを見兼ね、飛雄馬は彼を励ますような言葉をかける。
「なに、きみの優しさにおれだっていつも助けられている。伴のおかげでおれだって人間らしくいられるようなものさ」
「む、蕎麦を奢られようったってそうはいかんぞい」
「ふふ、バレたか」
マンションの出入り口から出て、綺麗に舗装された歩道をふたり、駅前まで歩み始める。
風のないお陰で、あまり寒さも感じられず、道行く人もしっかりとした足取りで歩を進めているのが見てとれた。
「人間の三大欲求っちゅうのを、星は知っとるか?」
「え?」
どきん、と飛雄馬の心臓が跳ねる。
まさか同じことを考えていようとは、いや、もしかして伴はおれの心を読めるのだろうか!?とまで飛雄馬は考えたが、そんな馬鹿な話があるものかと苦笑してから、何食わぬ顔をして、それで?と尋ねた。
「いや、あまり大きな声じゃ言えんがのう、おれは食うことも寝ることも好きじゃが、星と一緒のときが何より幸せで……そう考えると、一番強いのは、せ、性欲っちゅうことになるんかのう、と思ってじゃな……」
「……伴よ、きみはてっきり食欲と思っていたが、そう来たか」
ははは、と飛雄馬は声を上げ笑う。
笑うことはないじゃろう、と伴は心底情けない声を出し、しゅんとうなだれた。
「おれも、伴と一緒にいると楽しいし、好きだ。きみのおかげで野球ができるからな」
「めしも好きじゃが、どうも星のことを考えるとめしが喉を通らんのじゃ……うう」
「それはまた、ひどいな」
ぷっ、と飛雄馬は吹き出して、ほら、あそこだと目と鼻の先にまで来ていた蕎麦屋を指差す。
伴は目の色を変え、今にも駆け出さんばかりにその瞳を爛々と輝かせた。
「う、うまそうじゃのう。よだれが出てきたわい」
「そう急がずともなくなりはしないさ」
言いつつ、やっぱり伴のやつ、食欲が強いじゃないか、と飛雄馬が苦笑した刹那、伴は彼の手を取り、星よ、行こうぜ!と走り出す。
「…………!」
その力強い腕に引かれながら、飛雄馬は掌から伝わる温もりに顔を綻ばせ、伴のあとに続くように蕎麦屋の暖簾をくぐったのだった。