予期せぬ再会
予期せぬ再会 「ねえ、きみ、星飛雄馬くんじゃあ、ないよね?」
師走の末、道行く人の足取りが心なしか速く感じられるこの季節。
街に並ぶ商店の呼び込み文句も、正月に向けてのそればかりで、居心地の悪さを感じていたところに掛けられた声。
飛雄馬はハッ、と一瞬、足を止めはしたものの、背後を振り返ることもせず、人違いだ、と言うなりかぶる帽子のひさしを下げ、人混みに紛れるべく歩き出した。けれども、後ろで名を呼んだ彼は怯むことなく、待って!と再び静止をかけてくる。
「待って!星くん!ぼくだ、ぼくだよ!牧場だよ!」
「…………」
嫌な、名前を聞いたなと飛雄馬はサングラスのレンズの下で眉をひそめる。
しかして、嫌な名前、は少し言い過ぎたな、と考え直し、その償いのためにも、名を呼ぶ彼──の方を振り返った。
道行く人の群れを、掻き分け掻き分けこちらに近付いてくる昔の面影そのままの牧場春彦、の顔を見つけ、飛雄馬はその懐かしさに、ふと、口角を緩める。
「ああ、やっと追いついた……はぁっ……ふぅ……ちょっと、ごめんよ……息が、っ……」
身を屈め、丸めた背中をしきりに上下させながら息を整えようとしている牧場を飛雄馬は瞳に捉えたまま微動だにしない。
スケッチブックを小脇に抱え、頭からずり落ちかけたベレー帽を定位置に戻しつつ、牧場はこの寒いというのに額から汗を滴らせ、呼び止めておいてごめんよと喘鳴混じりに謝罪の言葉を吐いた。
飛雄馬はそれを受け、気にしなくていい、とだけ返し首を振る。
さて、足を止めたものの、これから先どうするか考えていない。
飛雄馬はやっと落ち着いたか、今少し時間あるかい?と尋ねてきた牧場に、少しなら、と答えた。
「じ……じゃあ、ちかくの、っ、喫茶店でも、どうかな。久しぶりに……走ったらちょっと……」
「…………」
「おかねは、ぼくが出すから……心配しないで」
顔を真っ赤にして微笑む牧場がなんだか不憫に思えて、歩くのもやっとのような彼を連れ、飛雄馬は近くにあった喫茶店の扉を開けた。
来客を告げるドアベルが店内に鳴り響いて、それに気付いた店員が、いらっしゃいませとこちらを振り返る。この寒さゆえか喫茶店は満員に近く、店員も少し店内を見回してから空いた席を見つけると、こちらにどうぞとふたりを席に通した。
飛雄馬はコーヒーをふたつ、と店員に声を掛けてから、奥のソファー席に牧場を座らせてから自分もまた、椅子へと腰を下ろす。
「何から何まで、すまないね」
「いや……気にすることはない。それで」
「あの、もしかして、牧場先生ですか?!」
隣のテーブルに着いていた若い女性の二人組が、言葉を遮るように話しかけてきて、面食らったところに、やっぱりそうだ!とやられ、飛雄馬は完全に閉口してしまう。
「あ、うん、そうだけど……」
「あっ、あの、私、牧場先生の大ファンなんです!よかったらサインください!」
「わたしもお願いします!」
女性の二人組は脇に置いていたカバンから手帳とペンをそれぞれ取り出し、牧場のそばに駆け寄るとそれらを差し出してくる。
その声に他の客らも牧場の存在に気付いたか、牧場春彦が来てるんだってよ、とざわつき始め、握手を求める声やサインをねだる声があちらこちらからし始めて、飛雄馬はしばし呆然となったいたが、ここは静かにその様子を見守ることにした。
幾分かその人波が落ち着いたところで、やっと氷水の入ったグラスとホットコーヒーが到着し、ふう、と大きな溜息を吐いた牧場を飛雄馬はねぎらった。
「すごい人気だな」
「今度、ぼくの描いた漫画がテレビ漫画になるんだ。それでちょっと顔が知られるようになってね」
「…………」
「でも、それもこれもきみのおかげだよ星くん。きみがいなきゃ今のぼくはない」
運ばれてきたコーヒーの中に牧場は角砂糖ひとつとミルクを入れ、スプーンでそれを掻き混ぜつつ、そんな言葉を口にする。
飛雄馬はやや汗をかきつつある氷水入りのグラスに口をつけ、それで喉を潤す。
「あんた、さっきからおれを星と呼ぶが、おれはあんたの言う星とは別人だ。あのまま人混みに紛れてしまおうかとも思ったが、あんまり辛そうにしているもんでつい、な」
「……それは、ごめんなさい。あんまり、似てたから」
「ふふ、まあ、いいこうして巡り合ったのも何かの縁だろう。コーヒーくらいはご馳走にならせてもらうさ」
「…………」
飛雄馬もまた、カップの中に角砂糖とミルクを投入し、スプーンで撹拌した甘いコーヒーを喉奥に追いやる。
それにしても、牧場さん、テレビ漫画の原作者とは……と飛雄馬はばつが悪そうに俯く彼に、それで、どんな漫画を?と尋ねた。
「あ、えっとね、今は……」
今までの落ち込みようなど、嘘のように自作について語る牧場のその嬉しそうな顔に飛雄馬もまた、サングラスの下で目を細める。
色々と、ありはしたが、彼の成功はただただ嬉しい。 何より、うらぶれたおれに声を掛けてくれるとは。
嫌な名前を聞いたなどと思ってしまったことが、今は恥ずかしい。
「星くんをモデルにした漫画の方も今、テレビ漫画化の企画の話が出ててさ」
「…………」
「あ、いや、その、そっちは星くんに許可貰わないとウンとは言えなくて、いや、あなたに言ってもしょうがないんだけどってぼくは何を……」
くすくす、と先程サインをねだった二人組が、牧場の慌てた様子が笑い声を上げる。
それですっかり上がってしまったらしく、牧場は遂には顔を俯け、黙り込んでしまった。
「……行こう」
「え?」
「場所を変えよう」
飛雄馬は席を立ち、店員が持ち寄ったテーブル上の伝票を手に取るとレジに向かい歩き出す。
牧場もそれを追うような格好で外に出ると、互いに寒さに身を縮めた。
「あ、コーヒー代」
「いや、いい」
言うと、飛雄馬はコートのポケットから財布を取り出そうとする牧場には目もくれず、再び歩み始める。
しかして牧場がそれに追いすがり、近くにぼくの仕事場があるから、と言うもので、飛雄馬はそのまま彼に着いていくことにした。
なぜ──。
この寒空の下で、何か拠り所が欲しかったからなのだろうか。
あれから何度も四季は巡り、誰もおれを巨人の星とは知らぬ環境で生きていくのも慣れてきたと言うのに。
今では、飛田の偽名のほうがよく馴染むくらいで、牧場さんに尋ねられた際にも、そう名乗ろうと決めている。捨てたわけじゃない、ただ少し、この名前でいることに疲れただけだ。
街行く人皆、新しい年に向け浮き立っている。
冷たい風に吹かれた人々の顔は赤く染まり、いかにも寒そうではあるが、目はキラキラと輝き、明日への希望に満ちているように見える。
正月を迎えるのが純粋に嬉しかったのはうんと幼い頃。まだ、硬球の重みを知らなかった頃。
「ここだよ、入って」
飛雄馬は牧場に話し掛けられ、立ち止まる。
「…………」
「ここの、三階」
牧場に言われ、飛雄馬は目の前のマンションを仰ぎ見た。ずいぶんと高級感の漂う佇まいについ見惚れ、飛雄馬は、こっちだよと自分を呼ぶ声で我に返る。
一階に来ていたエレベーターの箱に、ふたり乗り込んで扉の開いた先で廊下を行く。
角部屋だという仕事場の部屋の前に来ると、牧場はポケットから錠を取り出し、鍵を開けた。
飛雄馬が姉の明子ととともに暮らしていたマンションより中はだいぶ広い。
それに、整理整頓が行き届いているとはとても言えない状況で、まず目に飛び込んできたのは膨大な本の数である。加え、いわゆる、アシスタントと呼ばれる人たちが使うであろう机の数々。
飛雄馬も昔、手にした雑誌で漫画家先生の仕事場なる特集記事を読んだことがあった。
ゆえに、何となく想像はついていたが、いざこうして目の当たりにするのは初めてのことである。
「あっ、どうぞ。その、あんまり綺麗じゃないけど」
「いや……上がらせてもらう」
飛雄馬が帽子を取り、玄関先で靴を脱ぐと、こっちこっちと牧場に呼ばれ、普段は打ち合わせや客人を通すという一室に招かれた。
こちらはそれなりに片付けが行き届いており、飛雄馬は促されるままに革張りのソファーへと腰を下ろす。
「昨日、早めに原稿上がったから今日はアシスタントたちにも休みを取らせててね」
あ、アシスタントってわかるかな?と牧場は付け加えつつ、何か飲む?と尋ねてきた。
「いや、結構。さっき喫茶店で飲んできたばかりだからな」
「あ、そ、そうだよね。やだなあ、ぼくったら気が利かなくて……」
「……それで、なぜおれをここに?」
「え?なんで、なんでだろう……なんで……」
ぶつぶつ、と牧場は口元でそんな文句を繰り返しつつ、飛雄馬の対面の位置に当たるソファーに腰掛け、しきりに目を瞬かせている。
「まあ、いい。招いてくれてありがたい。あんたの漫画はおれも昔、読んだことがある。それこそ星とか言う野球選手がモデルの話だが、それ以来漫画からは足が遠退いていたからな」
「そ、そう?それはよかった……」
「…………」
飛雄馬は上がっているのか、顔を赤らめつつへらへらと何ともだらしのない笑みを浮かべる牧場につられ、ふふ、と笑みを溢す。
人の性格とはそうそう変わらぬものだな、とそんなことを思いつつ、サングラスの奥で懐かしさに目を細める。腐れ縁とはこういうことを言うのかもしれん。
忘れた頃にふらりと姿を現してくれるこの男に会うと、おれはあまり好ましくない転機を迎える羽目になる。さて、今回の邂逅はそうならなければいいが。
「いや、その……こういうことを言うと気味悪がられると思うけど、きみがあんまり星くんに似てたからつい……」
「……その星とやらは、大した理由もないのにうちに引っ張り込まんといかんほどの人物か?」
「……ぼくの恩人だから。今は行方不明になってて、彼の友人たちは皆行方を探してるんだ」
「行方不明、ね」
皆、おれのことを探している、か。
果たしてどうだろうな、皆、振り回されず、精々しているんじゃないだろうか。
今では彼らも青年実業家となり、はたまたプロ野球選手として成功し、充実した暮らしを送っていると風の噂に聞いたことがある。
もうとっくにおれのことなど忘れているだろう。
むしろ、忘れていてほしいとさえ思う。
時折、彼らが今、何をしているのか気になることはあるにせよ、突然姿を消したおれがそんなことを気にすること自体間違いで…………。
「きみはその星くんによく似てる。顔はそのサングラスのせいであまりわからないけど、雰囲気が、さ。そんな飄々としてるけど、本当のきみはそうじゃないはず……」
「ふふ、さすが漫画家先生だ。人の観察が趣味と言ったところか。どうだろうな、おれ自身、気付いていないそんな面があるのかもしれんな」
「…………」
もしかしたら、気付いているのかもしれんな、と飛雄馬は自分を真っ直ぐに捉えてくる牧場の瞳を見つめ返し、口元に笑みを湛える。
伊達に第一線で活躍はしていない。
どこかおどおどとしていながらも、真実を見抜く能力には長けているらしい。
「…………」
「ぼくは、星くんに、星飛雄馬くんに惚れてたんですよ。いや、今でもそう……かな。どこで何をしていても、改めて彼がぼくの前に現れたとき、会っても恥ずかしくない生き方をしているだろうかとそんなことばかり考えるんです。そうして、ぼくのことなど忘れてしまってもいい、ただ、元気でいてほしいとそれだけを願っている。ふふ、笑えるでしょう」
「いや、そんなことはないさ。星も嬉しいだろうな、そんなにあんたに思われてると知ったら」
「……まさか。ぼくは彼に嫌われているからね。その、色々と、あって」
「なぜ、そう思う?星がそう言ったか?」
「そうじゃ、ないけど……色々と、さ」
「その色々と、が何を意味するのか知らんが、おれはそうは思わん。今となっては……いや、あんたはもっと自分に自信を持つべきだ」
「…………」
「邪魔したな」
「あっ、その、待って!」
飛雄馬は自分の発言が気恥ずかしくなり、席を立ち、玄関に向かい踵を返した。
道中、引き止められ、何事かと振り返る。
「まだ何かあるのか」
「その、ありがとう!実を言うと、原稿に行き詰まってて……それで、気分転換になればって思って、街に出たらきみに会って……その、いい話が描けそうだよ!」
「……ふふ」
一体、何を言い出すかと思えば、と飛雄馬は苦笑し、それはよかったと玄関先で靴を履く。
「よ、よかったら来週のマガジン、読んでくれないかな。お願い」
「……約束しよう」
ドアノブに手をかけ、飛雄馬はそれを回すと扉を開き、外へと身を翻した。
瞬間、冷たい外気が肌を刺す。
間もなく日が暮れる。
早いところ今夜の宿を探さねば、また野宿をすることになる。
「また、会って、くれるかな」
「…………」
扉の閉まる寸前、牧場はそんな台詞を吐いたが、飛雄馬は聞こえぬふりをして廊下を引き返す。
また、会いたい、か。
あいにくとおれはごめんだな……飛雄馬はマンションの廊下をひとり歩きながら、来週のマガジン、か、と牧場の言葉を反芻する。
日々の勢いに忙殺され、忘れないといいが、とそんなことを考えながらマンションを出ると、飛雄馬はそのまま人々の雑踏の中に紛れた。