予感
予感 悪魔か、はたまた神の所業か──。
そんなオカルトじみた臭い見出しが週刊誌を賑わせたのが今から何年前のことであっただろうか。
巨人軍永久欠番の背番号16を背負った、未だあどけなさを残す少年が大リーグボールなどという魔球を操り、打者をきりきり舞いさせ、バットをへし折り、人間扇風機よろしく三振に追いやり尻餅を着かせたのは。
巨人軍との試合の前夜にはうなされ、冷や汗が止まらなくなってしまったという選手もいたと聞く。
それほどまでに星飛雄馬という男が操る魔球は恐ろしかった。
全球団、全選手が血眼になって魔球攻略に明け暮れた。週刊誌や少年漫画雑誌には編集者たちが独自に研究し、考察した攻略法や写真が掲載され、それらを読んだプロ野球ファンや少年少女たちも大リーグボールの謎についてああでもない、こうでもないと舌戦を繰り広げた。
第一の魔球を満身創痍と引き換えに見事打ち取ったのは、苦いブラックコーヒーを口に含んだ今や花形コンツェルンの専務となった花形満という男その人である。
彼の目の前には濃いサングラスを掛け、髪を肩まで伸ばした体の線のはっきりとわかる黒いシャツと白いスラックスに身を包んだこれまた男性が一人、座っていた。
時間帯のせいか、人もまばらな喫茶店の隅の席。
「それで、話と言うのは?」
愛想なく、サングラスの男が切り出す。
草野球の代打を関東各地で行っているめっぽう強い男がいる、と聞き付けた花形は彼を探し出し、こうして声をかけ、喫茶店に連れ込むことに成功したというわけだった。
「いや、我が花形グループでも野球チームを作ろうか、という話が出ていてね。作るからには強い方がいい。そこで情報を集めていたところ、きみのことを小耳に挟んでね」
「へえ」
男も運ばれてきたままのコーヒーを啜った。
「入ってくれる気は、あるかい」
「条件次第だ。花形財閥の次期総帥とも噂されるあんたが直々にお願いしているということは、期待してもいいんだろう」
カップの中身で喉を潤し、「それは口にするまでもない」と花形は笑った。
「…………」
男は自分の左腕をさすると、少し俯いてみせる。その様を花形はじっと見つめていたが、ふいに、「星くんだろう」と小さな声で囁いた。
まさにこの一瞬、カップに口を付けようとしていた男は薄く開いた唇を閉じ、手にしていたそれをテーブル上のソーサーへと戻した。
「誰かと、勘違いしているようだな」
男がサングラス越しに花形を見据え、低い声を漏らす。
「違うというのなら、サングラスを外して素顔を見せてくれたまえ」
「あんたに見せる義理はない」
「皆、心配しているんだぞ。明子も、きみの親友である伴も。きみのことはまだ誰の耳にも入ってはいない。花形が使う興信所が秘密裏に掴んだ情報を頼りにきみを探り当てたまでだ」
「……………」
しばしの沈黙のあと、男はサングラスのリム部分に手をやり、すっとその下にある素顔を晒してみせた。
顔立ちは記憶の中の彼より大分大人びており、やや落ち着いた雰囲気を纏ってはいるがあの日、完全試合を成し遂げたのちに忽然と姿を消した星飛雄馬がそこにいた。
あまりの出来事に二の句が継げない花形の顔を見据え、男は──星飛雄馬は微笑むがごとく目を細めた。
「そんなに、驚かずとも」
「…………」
柄にもなく焦り、戸惑った花形は飛雄馬から目を逸らす。
魅入られた、とでも言うのか。
馬鹿馬鹿しい、低俗な三文雑誌じゃあるまいに──彼が、星飛雄馬が行方不明になってから花形満はプロ野球選手として全盛期であったにも関わらず、引退という道を選んだ。
彼にとって野球、青春とは星飛雄馬と共にあったし、彼を倒すためだけにその腕を磨いてきた。
彼が更なる高みにいけば花形自身もそれを追ったし、花形がその上をいけば星飛雄馬も不死鳥のごとく蘇り立ち向かってきた。
あの眼窩の奥に炎を宿した勝負に燃える瞳を前にして、野球に命を懸けた生き様を目の当たりにして、そのひりつくような熱量を肌に感じて彼に魅入られない男が果たして存在するのだろうか。
あの日、あの橋の上から星飛雄馬という男を目に留めなければ、花形コンツェルンの専務としての花形満も存在しない。
彼との出会いが、花形の生き方、人生そのものを変えたのだ。
「………花形さん、ねえちゃんや伴によろしく。ふふ、最初に会えたのがあなたでよかった。伴やねえちゃんなら取り乱して大変なことになっただろう」
サングラスを掛け直し、飛雄馬は席を立つ。
「どこへ行くんだ、きみは、これから」
「………言う義理はない。花形さんは、ねえちゃんを大事にしてくれ。おれと、親父のために苦しみ、涙してきた人がやっと幸せになれたんだ。こんな、自分のために好きに生きる根無し草のようなおれの心配を花形さんがする必要はない」
「…………星くん」
「コーヒー、ごちそうさま」
言うなり、飛雄馬はついと花形から視線を外すと、席から離れ店外へと一人出て行く。花形はそれを追いもせず、カップの中に残ったコーヒーに映る自分の顔を見つめている。
果たして、花形自身を魅入ったのは悪魔か、それとも神であったか。
花形が野球のバットの代わりにゴルフのドライバーを握るようになってそれこそ何年になるだろうか。プロの投手の腕から放たれる生きた白球を彼が最後に目にしたのはいつだったか。
ちらとカップから視線を外した花形は隣の席に座る男性客の手にしていたスポーツ新聞の一面に目を留めた。
長島巨人軍の順位は今年も低迷か、などと書かれた普段ならそう気にもしない記事に花形はもしや、と胸のざわつきを覚える。
引き留める間もなく去っていってしまった彼を再び追い掛け回して、馬鹿な真似をするのはよせと説得すべきか?
まだ何も動き出してはいないのに?
それとも、もうすべてが遅いのか?
また安っぽいオカルトじみたことを考えだした頭を振って、花形は冷えたコーヒーを喉奥に流し込むと席を立つ。
支払いを済ませ、店の外に出ると日が陰ったか肌寒く、まだまだ本格的な春の訪れは先であろうことを思わせた。
一体、きみは何を考え、実行しようとしているのか。
花形は店のそばに停めさせた自家用車の後部座席に乗り込むと、会社まで、と新聞を読んでいた運転手に告げる。
車はゆるやかに走り出し、花形も座席に背を預け、流れゆく車窓からの町並みをじっと眺めた。