夜深
夜深 おーい!タクシー!
冷たい雨が日中から降り続いており、週末だと言うのに出歩く人の姿もほとんどない、とっくに終電も行ってしまった駅前。
深夜という時間帯と、急行も止まらぬ小さな駅には似つかわしくない、突如として静寂を切り裂いた大声に飛雄馬はふと、歩みを止めた。
その横を、スーツ姿の大男がぐっしょりと雨に濡れながら駆けていく様子を飛雄馬は少し、サングラスをずらしてから見遣る。
「…………」
身なりから察するに、どこぞの大企業にお勤めらしいが、こうもずぶ濡れではタクシーが乗車拒否をするのも無理はない。現に、大男の前でタクシーは客などひとりも乗せていないのに水しぶきを上げながら走り去って行った。
「うう、また置いて行かれたわい」
しょんぼりと大男は項垂れ、これまた大きな溜息を吐くと、どうしたもんかのう、とぼやいてから、辺りを見回すように首を左右に振る。
飛雄馬はずらしたサングラスを定位置に戻すと、かぶる野球帽のひさしを下げてから、お困りのようだな、と一言、彼に呼びかけた。
「な、なんじゃい。別に困っとらんわい」
大男は飛雄馬に声を掛けられたことに驚いたか目をまん丸く見開いてから一瞥をくれはしたものの、ばつが悪くなったかすぐにぷいと顔を逸らした。
「そのままだと風邪をひくぞ。ちょうど宿に戻るところだ。あんたさえよければうちへ来ないか」
「…………」
飛雄馬の見てくれを目の当たりにし、大男は眉をひそめたが、ぶるぶると巨体を震わせると大きなくしゃみを二回、ぶわっくしょいとやってから鼻を啜る。
ああ、やはり、そうだ──。
体を縮こまらせ、お言葉に甘えさせてもらおうかのう、と鼻を垂らすこの男は──飛雄馬は喉元まで出掛かった二文字を飲み込み、着いてこい、と踵を返す。
伴、伴宙太──。
何をしにこんなところへ。仕事か?それにしても傘も持たずに、いくら体力が取り柄の伴だってこんな寒い日に雨に打たれたら……尋ねたいこと、言いたいことは山のように頭の中に浮かぶが、ここで正体を明かすわけにはいかない。
飛雄馬はしばらく線路沿いを歩いた先にある、ここ数日の拠点としている安宿の引き戸を開けた。
雨のせいか、一段と室内はかび臭く、どんよりと思い空気が漂う。玄関から廊下を頼りなく照らす豆電球の明かりは今にも消え入りそうですらある。
受付の、耳が遠い老婆はすでに眠っているらしい。
起きていれば、他人を連れ込むことを咎められたであろう。運がいいのか、悪いのか──飛雄馬は苦笑し、玄関先で靴を脱ぐ。
「ず、ずいぶんと洒落たところじゃのう……」
先に靴を脱ぎ、廊下に立った飛雄馬の後ろで大男──伴が露骨に声色へ不安の色を滲ませた。
「なに、寝起きするには困らんさ。こんなところでも雨に打たれるよりいいだろう」
「そ、そりゃあ、そうじゃが……」
伴が濡れた靴と靴下を脱ぐのを待ってから、飛雄馬は出入口から数えて2番目のドアを開ける。
両隣に客はおらず、4番目の部屋を利用していた客も飛雄馬が留守にしていた昼間に発ったか、人の気配はない。
いくら小さな駅とはいえ、駅前にはもう少し金を出せばこの宿よりも明るく清潔な部屋に泊まれるホテルはいくつもあるのだ。
こんなところに好き好んで泊まるのは日雇い労働者と相場が決まっている。
入れよ、と飛雄馬は伴に入室を促し、部屋の明かりをつけた。
「は、はっくしょい!」
「さっさと服を脱ぐんだな。そんな格好でいると体が冷えるぞ」
「しかし、着替えを持っとらんぞい」
「裸でいいだろう。恥ずかしいか」
「きっ、きさま、わしを丸裸にしてどうするつもりじゃあ!わしが裸になった途端に仲間が部屋に押し入って来るんじゃなかろうな」
狭い部屋の中でこちらを見下ろし、怒鳴る伴を見上げて飛雄馬はふ、と口元を緩めると、おれも脱ぐから安心しろよ、と羽織るコートから腕を抜いた。
そうして、濡れて肌に貼り付くシャツとスラックスを脱ぐ。
「なっ、わっ、えっ!?」
「男のストリップを楽しむ趣味があるのか、あんたは」
「ばっ、馬鹿にするでないわい!」
下着一枚となった飛雄馬は、ふふ、と笑い声を上げてから、部屋備え付けのぬるい風を吐き出す暖房の上にハンガーに掛けた衣類を吊るす。
言われるがままにあたふたと取り乱しつつ服を脱いだ伴のスーツやシャツも同じように吊るしてやってから、畳んだ布団の枕元に置いていたコップのひとつを彼に手渡し、飲めるだろう?と尋ねた。
「飲めん、こともないが……」
「…………」
半分ほど中身の残る瓶を傾け、飛雄馬は伴の手にしたコップに焼酎を注ぐ。
やはり寒いのか、伴の肌の表面には鳥肌が立っているのがサングラス越しでもわかる。
「い、いただくぞい」
伴は一息に焼酎を煽ると、飛雄馬の前にずいと空になったコップを差し出した。
「早いな」
注いだ二杯目も、まるで水でも飲むかのように腹の中に収めると、伴は飛雄馬にも飲むように勧める。
既に伴の瞳は据わりつつあった。
いや、おれはいいと固辞したものの、わしの酒が飲めんのかあとやや呂律の回らなくなった舌で捲し立てた伴に気圧される形で、飛雄馬もまた、焼酎を飲み下す。
冷えた体が一瞬にして火照り、視界が歪んだ。
「ういっく、安い酒にしては、いけるのう」
三杯目を口にしつつ、伴がぼやく。
「飲みすぎるなよ」
そう、伴を咎めた飛雄馬だったが、夕食を摂ってから少し間があったゆえか酒の周りが早い。
勢いに任せ、一息にコップを開けたことを後悔しつつ揺れる視界から意識を切り離そうと、目を閉じ、かぶっていた野球帽を取った。
「きさまが勧めた酒じゃろうが…………」
伴の言葉が途切れ、飛雄馬は何事か、と薄く目を開ける。瓶が空になりでもしたか、と思ったが、否、伴は腕を伸ばし、飛雄馬が掛けるサングラスを外そうとしていたのだった。
「っ、っ…………」
「こんな夜中になぜサングラスなぞ掛けちょるんじゃあ……顔を見せい、顔を」
顔を逸らし、ギリギリのところで躱した飛雄馬だったが、拒絶されたことに苛立ったか伴の声が上擦る。
なんとか宥め透かし、誤魔化してあと一杯、いや、二杯飲ませれば酔い潰れてくれるだろうか。
いかん、頭がろくに回らない。伴がふらふらと伸ばしてくる腕を避けるのが精一杯だ。
「ば、っ…………」
「…………」
そんなことを働かぬ頭で考えていた飛雄馬の隙を突いたか伴の指がサングラスのブリッジを捉える。
そのまま、音もなくサングラスは飛雄馬の顔から離れ、部屋の畳敷きの床へと落ちた。
真っ赤な顔で、とろんと呆けた瞳をこちらに向ける伴の顔を、飛雄馬は初めてレンズ越しではなく、自分の瞳で見つめる。思わず、名前を呼んでしまいそうになって、堪えたところに伴の顔が寄せられ、慌てて彼の顔を両手で押し返した。
「いきなり、何をするんだ、あんたは、っ……」
「きさまのかお……っ、よく似とるんじゃあ……」
自分の顔を覆っていた手を無理やり引き剥がした伴は、飛雄馬の顔を覗き込む。
「…………!」
「ほし……きさま、生きちょっ……っ、」
終いの言葉までは紡がせないとばかりに、飛雄馬は今にも泣き出しそうな伴の両頬へ手を添えると、彼の唇を己のそれで塞いだ。頬に触れる指先に、熱い滴が垂れ、飛雄馬もまた、自身の瞳が潤むのを感じながらも僅かに開いた唇の隙間に舌を捩じ込む。
違う、おれは、星じゃない。その名前で、おれを呼ばないでくれ。
「っ……ん、……」
「ほ、しっ……」
体重を乗せ、飛雄馬は伴に体を預ける。
身構える間もないまま、飛雄馬の体を支えることとなった伴は体勢を崩し、どどっと畳の上へと背中から倒れ込み、頭を壁へぶつけた。
けれども、重ねたままの唇は離れることなく、絡んだ吐息は喘ぎとなって部屋に響いた。
触れた互いの肌が熱い。飛雄馬の体の下にある伴の下着の中ははち切れんばかりに充血してしまっている。
伴の指が飛雄馬の耳の横から髪を梳き、頭を撫でた。
「う、ぁ……っ」
びくん、と体を震わせた弾みで飛雄馬の唇は伴から離れ、そのまま彼の肩越しに天井を仰ぐこととなった。
畳に背を預けていた伴が体勢を変え、飛雄馬の体を押し倒す形を取ったのである。
「…………」
「…………」
体は、未だ火照ったままだ。畳の上には、空になった焼酎の瓶が横倒しになっている。
「いいのか、きさまは、それで……」
「そこをそんなにしといてまだそんな台詞が言えるんだな。ふふ、あんた、名は?」
「ばっ、伴……宙太……」
「……伴、か。いい名前だ」
「…………」
伴の吐息が首筋に触れ、舌が肌の表面を滑る。
星、星と縋るように名前を呼ぶ伴の手は、飛雄馬の反った背中を撫で、下着を剥ぎ取った。かと思うと、すぐにやや立ち上がりつつあった飛雄馬の男根に触れ、その大きな手で包み込むようにして握った。
「っ、……く」
腰を引き、逃げようともがいた飛雄馬の男根を伴はゆっくりと上下に擦る。刺激を与えられ、溢れた先走りが伴の指を濡らし、擦られるたびに音を立てた。
「我慢せんでいいぞい……わしがちゃんと受け留めてやるわい」
伴の指の節々が、男根の裏筋を撫でるたびに飛雄馬の体は跳ねる。下腹部に熱が篭っていくのがわかって、飛雄馬は、手を離せと震える声で喘いだ。
「──、…………!」
「堪えんでもええわい。どうせ誰も聞いちょらん」
口を両手で覆い、射精と声を上げるのを堪える飛雄馬だったが、伴が動かす手の速度を速め、耳元でそう囁いたために、彼の手の中で与えられるままに絶頂を迎えた。
「あ、あ……っ、」
飛雄馬の男根は射精に合わせ脈動すると、どくどくと白濁液を溢す。まともに受け留めた伴の指と掌は白く濡れ、飛雄馬は腹で呼吸をしながら、彼の名を呼んだ。
「…………」
伴が身を屈めてから、そっと寄せてきた唇に口付け、辿々しく口の中に滑り込んできた舌に小さく微笑む。
「ふふ……」
「な、なんで笑うんじゃあ……」
「いや、なんでもない……」
「変なやつじゃのう」
「…………」
伴の首を傾げる仕草がおかしくて、飛雄馬はまた、ほんの少し声を上げて笑ってから、大丈夫か?と問う。
「何がじゃい」
「さっきから、見ていて辛そうだなと思ってな」
飛雄馬がじっと見つめた視線を辿り、伴は先程から膨らみっぱなしになっている下着に目を向けてから、あ、いやこれはだな……と下手な言い訳を始める。
そうして、ひとつ、咳払いをしてから畳の上に投げ出していた飛雄馬の足を広げ、左右に押し開いた。
伴を揶揄った飛雄馬の男根も、期待に首をもたげつつあり、微かに震えては先走りの露を垂らしている。
「続きを、するぞい」
「…………」
自然と呼吸が速くなり、飛雄馬の体がじわじわと熱を持っていく。腹の中が切なく疼いて、その先を切望する。
ついさっき、吐精を受け留めた指を伴は飛雄馬の尻の中心にゆっくりと塗りつけ、入口を均していく。
窄まりの皺一本一本を指先でなぞってから、伴は遂に飛雄馬のへの挿入を果たすと、そろそろと指を先へと進めた。
「痛くはないか」
「っ、ン……、ん……」
伴の指が奥へ奥へと進むたびに体が反応し、声が漏れる。そうして、ようやく動きが止まり、一息吐いたところで今度は指が浅い位置まで戻って、抜けるすんでのところで止まった。
「ちょっと速く、いくぞい」
遠慮がちに動いた伴の指の動きが速度を上げ、飛雄馬の入口を解そうと抜き差しを繰り返す。時折、中で指を回し、奥を撫でてから浅い箇所に触れた。
「あ、あ、あっ…………」
背中を反らして、途切れる途切れに声を上げる飛雄馬の頭が畳の上を滑る。伴の指先が腹側に位置しているとある場所付近を掠め、飛雄馬は口から一際、高い声を上げた。
「指、増やすぞい」
「い、っ……いや、もう、きて……っ、くれ」
「しかし、まだ二本しか」
指の二本目を尻の窄まりに這わせ、挿入しようとしていた伴は、飛雄馬の声に驚き、動きを止めた。
「いいから、伴っ……」
「…………」
飛雄馬の中から指を抜き、伴は穿いている下着を下ろすと、中から怒張した男根を取り出す。
下着越しに見るのとは違う、その嫌悪さえする形状に飛雄馬はふいと顔を逸らした。
組み敷く相手が畏怖の念を抱いていることなど伴は知りもせず、腰の位置を調整するべく、飛雄馬の両足を左右の脇に抱える。
「本当に、いいんじゃな」
顔を逸らしていた飛雄馬は、伴の問いに頷くと、大きく息を吐いてから頷く。
そうして、当てがわれた熱に体を強張らせ、ゆっくりと体の中に踏み込んできた圧に耐えるべく、奥歯を噛み締めた。ゆっくり、ゆっくりと時間を掛け、伴が入ってくる。痛みは感じない。ただ、唇を強く引き結んでいなければ、その圧迫感と重量に思わず声が漏れそうになる。
股関節に掛かる伴の体重に、飛雄馬は喉を鳴らし、両腕で顔を覆った。
伴の腹が尻に触れ、ようやくすべてを腹の中に収めることができたことを知らされ、飛雄馬は噛み締めていた奥歯の力を緩めた。
「名は、何と言うんじゃ」
「…………」
伴が引いた腰で飛雄馬の尻を叩く。中が引きずられ、反った男根が内壁を擦った。逃げる腰を伴のそれで押さえされ、飛雄馬は身動きが取れなくなる。
「何故答えん」
「う、っ……っ、」
伴が飛雄馬の中を抉るように押し付けた腰で中をゆっくり掻き回した。ようやく、腹の中にある伴の存在に慣れつつあった飛雄馬は、先程とは違う動きに背を反らし、体の下から抜け出そうと畳の目を爪で掻いた。
そうまでして耐えた飛雄馬の腹の奥を、伴は体重を乗せ、押し当てた腰で暴いていく。
「名乗るまでやめてやらんぞい」
飛雄馬の閉じたまぶたの目尻から溢れた涙がこめかみを伝った。腹の中が無遠慮に、伴の体重を持って乱される。顔を覆う両腕を絡め取られ、寄せられた唇に飛雄馬は固く閉じていた口を開き、応えた。
「ふ、ぁ……あっ!」
伴の腰が力強く尻を叩いて、飛雄馬は声を上げ、喘いだ。体が腰の動きに合わせて揺れ、飛雄馬は伴の眼下に喉を晒す。と、伴が両脇に抱いていた飛雄馬の足を腹側へと押し付け、身を乗り出すようにして膝立ちの体勢を取った。
より深い場所に伴の侵入を許す形になって、今の動作を受け、飛雄馬はゆるい絶頂を迎える。
「ひとりで果てるとはずるいぞい」
「勝手な、っ……ことを、言う……っ、っ」
「何が勝手じゃい、わしをきつく締め付けてきてその言い分は通らんわい」
「っく───あ、うぅっ……」
打ち付ける腰の速度が上がり、飛雄馬は絶え間なく供給される快楽の波に声を漏らした。
「わしは星には優しくしてやるが、見ず知らずの男には遠慮はせんぞ」
「ふ、……っ、その、見ず知らずの、っ……男と寝たのを知ったら、星とやらが悲しっ──〜〜〜!!」
先程までのこちらの様子を伺うような動きを繰り返していた伴のそれが、鋭いものへと変わり、飛雄馬は前触れなく訪れた二度目の絶頂に喉奥から掠れた声を漏らすこととなった。
「二度とその名を口にするんじゃないぞい」
「…………」
怒りを孕んだ伴の声を聞きながら、飛雄馬は涙に濡れた瞳を彼へと向ける。伴の腰が動くたびに、衝撃は繋がる箇所から脳天を突き抜ける。
「なあ、名は何と言うんじゃ……」
「誰がっ、教えて……や、……っ、い……!」
激しい抽挿を繰り返していた伴の腰がふいにぴたりと止まった。間もなく、三度目の絶頂を迎えつつあった飛雄馬は、歯痒さに呻いた。
「またひとりで果てようとしたじゃろう。顔に似合わず助平なやつじゃい」
「は、ァっ……いやだ、いや……っ、」
寸前のところで快感の糸を断ち切られ、飛雄馬は縋るような目を伴へと向ける。
「質問に答えろ」
「っ、っ…………」
微かに声を漏らした飛雄馬の中を、そろりと伴の男根が撫でた。
ああ、あと少し、あとほんの少しだけでいいというのに…………。
「何故言いたくない。何か理由があるのか」
「それ、はっ…………」
ゆるゆると伴が腰の動きを再開させる。
その待ち焦がれた刺激は飛雄馬の脳を焼き、理性をも吹き飛ばす。薄汚れた狭い部屋の中で、飛雄馬は狂ったように声を上げ、伴の体に縋った。
何度も唇を重ね、舌を絡ませ合って、飛雄馬は何度も伴を呼ぶ。
そうして、汗の染みた畳にようやく体をぐったりと投げ出すことができたのは、街に間もなく朝が訪れようとする頃合であった。
「…………」
間抜けな格好でティッシュを探す伴をぼんやりと眺めてから、飛雄馬は腹の上にぶちまけられた体液に視線を落とす。
「すまん、すまん」
ばつが悪そうに伴は頭を掻きながらティッシュの箱から数枚を取り出し、飛雄馬の腹に撒いた自身の体液を拭った。
「ふふ……」
「わ、笑わんでくれくれえ……急に恥ずかしくなってきたわい」
「雨が、上がったようだな」
「む……」
伴が顔を上げ、申し訳程度に付属している部屋の窓辺へと視線を向けた。
「伴」
「な、なんじゃあ」
「トビタだ」
「トビタ?」
「おれの、名前」
飛雄馬はそこまで言うと、日が差し、やや明るくなった部屋の中から下着を手繰り寄せると、それに足を通す。
「あ、う……その」
「早く服を着たらどうだ。もう乾いていると思うが」
「う、うむ……」
伴もまた、のろのろと脱いだ下着を身に着け、暖房の上に吊るしていたスラックスとシャツとを纏っていく。
「そういう伴こそ、何故こんな場所に」
「人を、探しちょったんじゃ……この辺で見たという話が興信所から伝えられてな」
「人?」
「星、星飛雄馬を知らんか?数年前、巨人におった」
飛雄馬も乾いたスラックスに足を通しつつ、伴の話に耳を傾ける。
「……知っている。あんた、そういえば伴宙太と言ったな。巨人から中日に移籍して、星とやらと戦ったのと同じ名だ」
「おう……わしがその伴宙太じゃい」
「何故、その伴宙太が星を探している?あのあと彼は確か──」
「行方不明になったままじゃあ。あれっきり、どこに行ったのかもわからん」
「へえ……」
シャツを頭からかぶり、飛雄馬はネクタイを締めている伴を見遣る。
おれを探して、あの雨の中を?興信所から聞いたという情報だけで?
「まあ、結果として骨折り損のくたびれ儲けに終わったわけじゃが、トビタとうまい酒が飲めたから良しじゃい」
ワハハ、と伴は笑い声を上げると、昨日は悪いことをした。体は大丈夫か、としおらしく飛雄馬の体調を問うた。
「見てのとおりだ、少し腰は痛むがな。おれはここを引き上げるつもりだが、伴も家に帰るんだろう」
腰をさすって、飛雄馬は、先に出るといい、受付にはおれから話しておくと告げ、伴に部屋を出るよう促した。
「……おう」
「さよなら、伴」
畳に落ちていたサングラスを拾い、飛雄馬は伴にそう囁く。もう二度と会うことはないだろう、興信所がおれの居場所を突き止めつつあるのならば、関東から離れねばい。
「トビタ」
「何だ、まだ何か用…………っ、」
名を呼ばれ、サングラスのレンズの汚れをシャツで拭っていた飛雄馬は伴の方を振り返った。
と、ふいに腕を掴まれ、ぎゅうとその胸にきつく掻き抱かれる。思わず、その腕の強さと懐かしい体温に絆され、伴の背に腕を回しそうになって、飛雄馬は伸ばした手をゆっくりと下ろす。
泣いているのか、伴の体は腕の力とは裏腹に小さく震えている。
「トビタ……わしは、」
「伴、違う。おれは星じゃない。勘違いしないでくれ……ふふ、人恋しいのはわかるが、星が悲しむ」
「…………」
伴が腕の力を緩め、飛雄馬の顔を涙で潤む瞳でじっと見つめてから一瞬、口付けでもするかのごとく顔を寄せたが、すぐに踵を返すと部屋を出て行った。
廊下を巨体を揺らしながら駆けていく伴の足音を、部屋でひとり、聞きながら飛雄馬は伴の名を、そっと呟く。
別れを決めたのは、こちらの方だというのに、どうして涙が溢れてしまうのか。こんなに身勝手極まりないおれを、きみはどうして──。
飛雄馬は首を振り、涙を拭うと、サングラスを掛けてからYGマークの刺繍が入る黒の野球帽を頭にかぶる。
数日、寝泊まりした部屋を出て、飛雄馬は受付に昔の知り合いを泊めていたと嘘をつき、彼の宿泊代金も払うと言った。
しかして、受付の老女は代金はもらっていると言い、これをあんたに渡してくれと言っていたよと、伴の名前が書かれた名刺を寄越してきた。
「…………」
伴重工業の企業名と伴の名前、それから電話番号の書かれた小さな紙切れ。
飛雄馬は、どうもとそれを受け取ってから、宿を出る。
昨夜の大雨が嘘のように空は澄み渡り、太陽が煌々と輝いている。朝の通勤、通学時間帯ゆえか、それなりに街を歩く人々の姿も見られ、飛雄馬は、ふ、と口元に笑みを湛えてから歩き出す。
羽織るジャケットの中には伴の名刺と、日雇いで稼いだ給金が入っている。
どこか、着いた先で食事にするか。
飛雄馬は駅の券売機でひとまずの目的地とした場所までの切符を購入すると、改札を通り、行き交う人々の群れの中に紛れた。間もなく、12月を迎える月末の、朝のことであった。