安宿
安宿 入室してすぐ、飛雄馬は部屋の灯りを付けると、見慣れた光景に溜息を吐く。
そうして、自分の意志で訪ねておきながら自己嫌悪の溜息なぞを吐く己をせせら笑って、飛雄馬は手首に巻いた腕時計を見遣った。約束の時間はとうに過ぎている。もしかすると、彼の身に何かあったのだろうか、とそんなことを考える、己のお人好しぶりに部屋を訪ねてから二度目になる苦笑を溢すと、飛雄馬は部屋の中ほどまで歩を進め、室内にあらかじめ備品として置かれている椅子に腰を下ろす。
部屋の中は綺麗に整頓され、掃除も行き届いているが、微かに漂う煙草の匂いは前使用者の嗜んだものか。
受付の白髪混じりの気怠げな女性は、宿泊客にはまったく興味がないようで、ただただ淡々と与えられた業務をこなし、賃金を得るためだけにあの場に佇んでいるようで、顔が割れることを好まない自分からしてみれば却って好都合であった。
以前、彼の会社の傘下企業だというホテルに呼び出された際には場違いもいいところで、新聞記事に何やら書かれやしないかと冷や冷やしたものだ。
とはいえ、そういったホテルはやはり教育が行き届いているのか、はたまた新聞・雑誌の記者はシャットアウトしてあるのか心配は杞憂に終わったが、やはり気分のいいものではない。
ただでさえ、彼に呼び出され、わざわざ出向くというのは気が乗らないというのに。
それにしても手持ち無沙汰でならない。
野球ばかりの生活で、暇の潰し方など何ひとつ思い付かない。テレビでも付けようか。彼が訪れるまで仮眠を取ろうか。しかし、彼さえ時間通りに来てくれていたらこうして悩むこともなかったというのに、と飛雄馬はそこまで考えてから椅子から立ち上がる。
ここに来る途中、まさか事故に遭ったのではないか。 外せぬ用事でもできたか、残業でもしているのか。
それとも、気が変わったか。
あと五分待ち、何もなかった場合はここを出て近くの公衆電話から連絡を入れることとしよう。
しかし、どこへ?自宅?それとも職場?
巨人の星飛雄馬が、彼の──花形の居場所を尋ねるのはおかしいのではないか。
それならば、どうするべきか。
いや、義弟の立場としてなら──。
腕時計を睨み据え、飛雄馬は秒針が文字盤の上を滑る様を黙って見つめる。あと三分。
すると突然に部屋の扉がノックされ、飛雄馬は飛び上がらんばかりに驚き、おそるおそる音のした方向へと歩み寄ると、どなたですか、と向こうの相手に問い掛けた。
「開けてくれたまえ」
「…………!」
扉越しに聞こえた声に、飛雄馬はぎくりと身を強張らせたものの一瞬、間を置いてから、どうぞ、と彼を招き入れる。遅れて申し訳ないね、の言葉に、大して待ってはいない、気にしないでくれ、などと視線を泳がせつつ口篭って、飛雄馬はふいに距離を縮めてきた彼──花形の顔を見上げた。
「急に父から連絡があったものでね、フフ、まあ、きみなら待っていてくれると思っていたよ」
「……それで、おれをわざわざこんなところに呼びつけたのはどういうつもりなんだ」
「どういうつもり、とは?」
睨み据えた花形の指が顎先にかかって、飛雄馬は一瞬、怯みはしたが、その手を払い除けると、質問に答えてくれ!と声を荒らげる。
「おお、こわ……そんなに怒らないでくれたまえ、飛雄馬くん。なに、きみだって承知の上でぼくの要求を飲んだのだろう。なぜここ呼びつけたか、訊くまでもあるまい」
「それだけのために、か?」
「…………」
訝しげに尋ねた飛雄馬だったが、再び、顎先に指を添えられ、その顔を覗き込まれる。
性懲りもなく、と飛雄馬もまたしても同じことを繰り返してきた花形を拒絶するべく腕を払った。が、花形は振りかぶられた飛雄馬の腕を掴むなり、隙を作った唇へと強引に口付けた。
「っ……!」
掴まれた腕を背中へと回されて、飛雄馬は痛みに顔をしかめる。すると、唇はそっと離れていって、飛雄馬は花形へと微かに濡れた瞳を向けた。
「もっと欲しい?」
その揶揄するような口ぶりに、飛雄馬はハッとなり、慌てて表情を作ると、花形を再び睨み据える。
「楽しいか?人をからかって、球団から、監督さんから何か言われでもしたのか。義理の兄という立場を使って、おれに揺さぶりをかけるようにとでも」
「さあ、どうだろうね。飛雄馬くんはぼくがそんな器用な男と思うかい」
「っ……っ、手を、離せっ……!」
痛みに耐えかね喘いだ飛雄馬の腕を花形はすんなりと離すと、少しその場から離れた。
「ぼくは別にきみを動揺させようなどと考えて呼び出したわけではないし、ましてや球団から頼まれたなどということもない。飛雄馬くんをここに呼んだのはぼくの一存だ」
「それなら、なぜこんなことを、ねえちゃんの目を盗んでまで……」
「わからない?」
「わっ、わかるもんか、こんな、こんなこと……おれは、花形さんと、そうでなくてもねえちゃんの……」
花形の目に真っ直ぐ見つめられ、飛雄馬はここに来て動揺してしまい、帰らせてもらう、と力強く歩を踏み出す。けれども、それを阻止するがごとく差し出された花形の腕に体を絡め取られ、そのまま彼の胸へと飛び込むこととなった。
ちょうど己の顔の位置、花形の首筋辺りから漂う甘い香水の香りが、ぞくり、と飛雄馬の肌の表面を粟立たせ、体の奥へと火を灯す。
いけない、飲まれてしまっては、と飛雄馬は彼から離れるべく身をよじるが、腕の力は予想以上に強く、身動きが取れない。
そのうちに、背中を抱いていた手が、そろりと背中を滑って、腰に触れると尻を撫でてきて、飛雄馬は、うっ、と鼻にかかった声を上げた。
「シャワーを浴びたのはここに来る前?それともぼくを待つ間に?」
「そんなことっ、どうだっていいだろう!それに、練習で汗をかいていたから浴びただけで……」
「フフッ……」
嘲笑うかのごとく花形の唇から漏れた吐息に、飛雄馬はカッ、と頬を染める。嘘は言っていない、実際に外出する際には、必ず汗を流してから寮を出ると決めている。花形さんだって同じはず。
それなのになぜ、おれは彼の言葉に赤面してしまったのか。嫌だ、既に期待してしまっているのだ。
もうおれは、彼の掌で踊っているに過ぎない。
今更何を言っても茶番でしかない。
黙ってされるがままになっておけば、傷は浅くて済むだろうか。抵抗し続けていればいつの日か諦めてくれるだろうか。おれには、花形さんがよくわからない。
ねえちゃんという人がありながら、なぜ。
ふ、と距離を詰めてきた唇に飛雄馬は口元を寄せる。
「ん……、ぅ」
唇が触れた刹那に、口の中に舌が滑り込んできて、飛雄馬は全身を驚きと快感とに戦慄かせた。
体が文字通り痺れたようになって、その場に崩れ落ちそうになるのを花形に支えられ、そのまま近くにあったベッドの上にふたり、なだれ込むようにして横になる。花形に組み敷かれるが早いか、飛雄馬は再び貪るような口付けを与えられ、衣服の中で胸の突起を尖らせ、下腹部を疼かせた。
おれが花形さんを拒絶すれば、ねえちゃんがどんな目に遭うだろう、おれととうちゃんのために若き日を、青春をそのためだけに費やしたような人を、自分の出方ひとつで救えるというのなら、これくらいは造作もないこと。何も考えなければいい、何も思わなければいい。そうすれば、いつの間にか済んでいる。
「あ、ぁっ……っ、」
舌が、首筋を滑ったかと思えば、唇で薄い皮膚を吸い上げられる感触があって、飛雄馬は声を上げると、そのまま奥歯を噛む。
そうすると、花形の手が臍の下、スラックスの上から膨らみを撫でて、飛雄馬は小さく呻くと、眉間に皺を寄せる。
「すごいね、今にもはちきれそうじゃないか」
耳元で囁かれ、飛雄馬は下着の中が僅かに湿るのを感じる。と、花形は何の断りもなく飛雄馬の穿くスラックスのベルトを緩めると、前を開くや否や下着の中から男根を取り出した。
思わず、飛雄馬は自分のそれから視線を外し、羞恥のあまり唇を噛み締める。フフッ、と再び、花形の笑みが囁かれたようで、飛雄馬は目元に涙を浮かべると固く目を閉じた。
しかし、次の瞬間、その男根の表面を撫でるものがあって、飛雄馬は喉奥から引き攣ったような声を漏らし、己の下腹部へと目線を遣る。
すると、いわゆる男根の裏筋の位置を指で弄る花形の姿が目に入って、飛雄馬は彼の顔を睨んだ。
とは言え、涙を浮かべ、花形を睨むその表情は彼を煽る結果にしかならなかったが。
足を開いて、と優しく囁かれて、飛雄馬は一度嫌だと首を振ったが、どうして?と理由を尋ねられ、押し黙った。
「花形さんはねえちゃんとっ、こういう、こと……っ」
「明子の名前は今は聞きたくないな、飛雄馬くん。それにそんなことを尋ねて何になる?」
「あなたがおれのことを、どう思っているかは知らんが、こんなことに当てるよりねえちゃんとの時間を大事にするべきじゃないのか」
「…………」
スラックスと下着とを剥ぎ取った足を左右に大きく開かれ、飛雄馬は怯むが、花形を真っ直ぐに見つめ、唇を噛む。
「何の腹いせか知らんが、こんなこと……もう、終わりっ……っ、あ!」
開いた足の中心にぬるりと触れるものがあって、飛雄馬は足の爪先に力を込める。
その触れたもの、は普段より強引に、そして入口を慣らすと言うよりも、とある場所を探るように中を掻き回す。腹の中を掻き乱すもの、の正体が花形の指であると飛雄馬が気付く頃には、とある場所──前立腺の位置を探り当てられ、そこを執拗に責められている最中であった。
花形の二本に増えた指がその場所の上を滑るたび、飛雄馬の両足が震え、曲げた足の爪先が虚空を掻く。
ああ、もう少し、と言うところで指は違う位置を撫で、飛雄馬はもどかしさから花形に触って、とか細い声を投げかける。
「どこに?」
この期に及んで意地悪く尋ねられ、飛雄馬は、下、と言葉を濁す。
「下じゃわからないな飛雄馬くん。もっとはっきり言ってくれたまえ」
「っ……入れ……入れて、花形さんっ、おねがい」
飛雄馬が気力を振り絞り、そう言うと、花形は腹の中から指を抜き、スラックスの前をはだけてから取り出した男根を尻へとあてがった。
そうして、腰を押し進めて、飛雄馬の中へと挿入を果たす。
「あぁっ――っ、…………!!」
腹の中へと押し入られ、飛雄馬は大きな声を上げ、白い喉元を花形へと晒した。
そこにそっと口付けを受けたかと思えば、胸の突起を指で押しつぶされて飛雄馬は己が体内にいる花形を締め上げる。そのうちに、花形が引いた腰を打ち付け始め、飛雄馬は突かれるたびに高い声を漏らす。
もう二度とここへは来るものか、花形の誘いになど乗るものかと毎回思うのに、それでもこうして出向いてしまうのは果たして本当にねえちゃんのためだけだろうか。
「っ、……ふ、ぅ……」
唇を啄まれ、彼を受け入れるように開いた口に再び舌が差し入れられて、飛雄馬は唾液の甘さに体を震わせる。掌をそっと握られ、そこに指を絡められて飛雄馬はその手を握り返した。
ベッドが軋む音を聞きながら、飛雄馬は絶頂を迎えると、花形の手を強く握る。しかして、花形の腰の動きが止まることはない。
それから飛雄馬は深い口付けを受けつつ、腹の中へと放出された熱を感じながら口内に溜まった唾液を飲み下す。わざとらしく音を立てながら舌を絡め、唇を食んで、それからようやく花形は離れていき、中から掻き出された彼の体液が尻を伝う不快感に飛雄馬は眉をひそめた。
体に纏わりつく花形の匂いが、呼吸のたびに鼻をくすぐる。ベッドに体を投げ出したまま飛雄馬は花形から投げられた問い掛けを聞き流し、目元を腕で覆うとまぶたを閉じる。
次はいつ会えるか、なんて今は考えたくはない。
それに約束など取り付けずとも、試合ともなれば嫌でも顔を突き合わすことになるだろう。
いっそねえちゃんに、このことを打ち明けてしまおうか。しかし、ただでさえ花形さんの球界復帰で胸を痛めているねえちゃんを、余計に苦しませることにならないだろうか。
花形が最中に囁く言葉は、果たして本心だろうか。
ねえちゃんにも、まったく同じ台詞を彼は吐くのだろうか。
何か飲むかい、の言葉も無視し、飛雄馬は体を起こすと、花形から手渡されたティッシュの箱をひったくるようにして受け取ると、取り出した数枚で自分の尻を拭う。花形が部屋の空調を入れたか、飛雄馬の火照った体も徐々に落ち着いてきている。
「また連絡を入れるよ、飛雄馬くん」
「もうこんなことのために呼び出さないでくれ」
「フフ……」
微笑を浮かべ、それ以降はこちらに触れることもなく去っていく花形の気配を背中に感じながら、飛雄馬は部屋の扉が閉まる音を聞く。
部屋の支払いはいつも済ませてあり、あとは自分が部屋を後にすれば今回の件はここで終幕となる。
何食わぬ顔をしてここを出て、普段通りの日常を送ればいい。花形さんに会ったことなど、おれさえ口を割らなければ誰に知られることもない。
考えてみれば、最近ねえちゃんから花形さんの話を聞くことはない。伴からもそんな話題は上がってこない。それから察するに、恐らく、ねえちゃんは今、花形さんに何も不満はないのだろう。
飛雄馬はベッドから立ち上がると、床の上に打ち捨てられたままの自分の下着とをスラックスとを拾い上げ、それらを身に纏う。
ねえちゃんはあの広い屋敷で今、泣いているんじゃないだろうか。しかし、おれが訪ねて行ったところで何になる。花形さんを、皆が言う野球地獄とやらに再び引きずり込んだおれがねえちゃんに会ってどうなると言うのだ。
飛雄馬は身支度を整え、乱れたベッドの上をも綺麗に正してから部屋を出て行く。
すると、ふいに花形が身に着けていた香りが鼻をかすめて、飛雄馬は頬を染めると足を止める。
けれども、すぐに歩みを再開させ、廊下を引き返すと、ここに来たときと同じようにエレベーターホールの前で、ひとり、箱が到着するのを待った。