野球
野球 「満!あの空港での一件はどういうつもりだ!」
一足先に神奈川の自宅に戻っていた息子の部屋を訪ね、花形の父は珍しく彼を叱責した。
「どういう、つもりとは?ぼくの考えはあの場で述べたことがすべてです」
「野球は高校までと約束したじゃないか。卒業後は経済学や帝王学を学ぶことはもちろんだがアメリカに留学することだって決まっていたはず、それを何故、今になって」
勉強机に向かい、家庭教師から与えられた課題を解いていた花形だったが、やおら立ち上がると部屋の出入り口に立ち、息を切らしている父の方を向き直った。
「おとうさん、ぼくはあなたの言われるがままに今まで生きてきましたが、いつからか……自分の人生は自分で決めたい、とそう思うようになりました」
「なん、だって……?」
「何もかもが、1度、頂点を極めてしまってからはつまらなく、色褪せて見えるようになったぼくに、再びどくどくと熱い血を通わせてくれたのが野球なんですよ」
フ、と花形は笑みを口元に浮かべ、話はそれだけですか?と冷ややかに尋ねた。
「今まで不良の真似事をしていたこともわたしの車を勝手に乗り回すことも許してきた。しかし、ここに来て野球の道に進むなど、わたしは、断じて──」
「許さない、と?今までどんなスポーツもピアノも、バイオリンも長くは続かなかったぼくが初めて自分からやりたい、と思えた野球への情熱が潰えてしまってからでも進学や留学は遅くはないと思いますがね」
「ぐっ……」
父は言葉に詰まる。
「それどころか、燻ったまま進学したところできっと、何も身につきはしませんよ」
淡々と花形は己の父を畳み掛けるように言葉をひとつひとつ紡いでいく。
「……好きにしなさい。しかし、花形の家に泥を塗るようなことだけは──」
「分かっています、おとうさん。ぼくのわがままです。花形家の名誉を傷つけるようなことは決してしないと約束しますよ」
「……支度なさい。パーティーに遅れてしまう。先日話しただろう、満も参加することになっているからね」
「…………」
突然、訪ねてきたのはあなたでしょう、おとうさん──の言葉を花形は飲み込み、長い廊下を引き返していく父の足音を黙って聞いている。
父は気付いただろうか、ぼくの思惑を。
勢いのままに席を立った勉強机に広げられた教材とノートを閉じ、花形は空港で対面した彼の──星飛雄馬の顔を脳裏に思い描く。
ぼくのこれからの人生は彼と共にあると言っても過言ではない。
いいや、あの日、ぼくの渾身のノックアウト打法を打ち崩したときから、ぼくは彼に勝つためだけに野球をしてきた。
何も野球がやりたいわけじゃない、しかし、星飛雄馬と同じ土俵の上で対峙し、勝たねば意味がない。 父にはもっともらしく話してみたが、重要なのは野球ではない。
彼はぼくや左門、そして伴より先にプロの道へと進んだ。
2軍でしごかれ、更にあの球は目覚ましい成長を遂げるに違いないのだ。
父に呼ばれ、花形は部屋を出るとそのまま屋敷の外にあらかじめ停めてあった外国車の後部座席へと乗り込む。
「…………」
ああ、早く高校を卒業してしまいたい。
そうすれば、こんな息の詰まる生活から開放されるのに────花形は走り出した車の、曇りや染みひとつないほど磨き上げられた窓越しに国道沿いに建ち並ぶ飲食店の明かりの眩しさに、ふと、眉をひそめた。