火傷
火傷 来客を知らせるチャイムが鳴って、飛雄馬は一瞬、居留守を使おうかとも思ったが、再びピンポンとやられたために返事をしながら玄関の方へと向かった。
すると、戸を開けた向こうに立っていたのは阪神の花形満その人であり、飛雄馬はぎょっとしたものの、何か用ですか?と尋ねた。
「いや、なに、近くを通りがかったものでね」
言いつつ、花形は部屋の中を見渡して、明子さんはいないようだね、とも続ける。
それを受け、またそれか、と飛雄馬は些か腹立たしさを覚えつつも、ええ、と返した。
花形さんが律儀に手紙を送ったり、遠征先で土産を買いせっせと送付しているのは知っているが、ねえちゃんに用があるのなら電話の一本なり入れて約束をしておいてくれたらいいのに、と。
「帰宅されるまで、時間を潰させて貰ってもいいかい」
え?と飛雄馬は花形の口から飛び出したまさかの言葉に驚き、目を大きく見開いた。
しかして、自分が嫌悪感を露わに、はたまた邪険にすることで姉との仲が険悪になってしまうのも忍びない、と飛雄馬はそこまで考え、いいですよ、と答える。
上がらせてもらうよ、と花形は言うなり靴を脱ぎ、飛雄馬に案内されるがままにソファーへと腰掛けた。
飛雄馬はコーヒーでも入れるか、とばかりに台所に立ち、ヤカンに水を汲みコンロに掛けた。
「………ねえちゃんは」
「え?」
ソファーに座り、ぼんやりと窓の向こうを眺めていた花形は飛雄馬の声に振り返る。
「ねえちゃんは、優しくて、料理も上手いし、かあちゃんに似て美人で、おれやとうちゃんをいつも支えてくれて、だから、どうかねえちゃんを」
「…………」
拳を握り、飛雄馬は俯いたまま言葉を紡いでいく。花形は飛雄馬の姿をじっと見上げたまま、黙っている。
ヤカンの中の水が温まりつつあり、注ぎ口からは白い水蒸気が上がった。
「ねえちゃんを、幸せにしてあげてほしい」
振り絞るようにして言うと、飛雄馬は手で目元に浮かんだ涙を拭ってから棚を開け、インスタントコーヒーの入れ物を取り出す。スプーンで中身を掬って用意したカップふたつにそれぞれ適量投入してから、コンロの火を止める。
「いやだと言ったら?」
「え、っ!?」
ヤカンの持ち手を握り、湯を注ぐために持ち上げた飛雄馬は花形の言葉に動揺し、それから手を離してしまう。
ガチャン!とコンロの五徳とヤカンの尻がぶつかり音を立て、煮えたぎった湯がその衝撃で注ぎ口から少量飛び出し、あろうことか飛雄馬の左手へと掛かった。
「!」
「星くん!何をきみは……冷やすんだ!今すぐ」
その一部始終を見ていた花形はそれこそ矢のように駆け出し、飛雄馬の左腕を掴むと水道のハンドルを捻って放出される大量の水の下に彼の手を差し出して、湯の掛かった場所を流水で冷やした。
「…………」
「変なことを、ぼくが言ったせいだろう。投手のきみが利き手をケガしたとなったら一大事だ。ぼくの車で病院に行こう」
冷たい水が飛雄馬の手や指を濡らし、流れ落ちる。
「なぜ、あんなことを言ったんです」
「あんな、こと?」
「自分が口にしたことも忘れたんですか?」
離してください、と飛雄馬は身をよじり、花形から離れると小さな水膨れの出来てしまった赤い指を撫でた。
水で冷やしている間は幾分か良かったが、今になってジンジンと痛み出し、飛雄馬は顔をしかめる。明日の試合は先発を言い渡されているというのに、なんて醜態。
「星くん!意地を張るのはよしたまえ」
「意地?ふふ、姉の、身内の幸せを願うことの何が悪いんですか。あなたにとって姉は今まで手を出してきた女性の中の一人かも知れない。けれど、ねえちゃんは」
「………取り消そう。星くん。すまなかった。妙なことを言って」
「そんな人だとは思わなかった」
「…………」
顔を逸らし、飛雄馬は段々と痛みを増す傷あとに眉をひそめ、奥歯を噛む。
「帰ってください。病院くらい、一人で行けますから」
「星くん」
「あなたと、これ以上一緒にいても話すことなんて、ない」
ここまで言えば花形は、分かった、と引き下がるであろうと踏んでいた飛雄馬だったが、花形は何を思ったか距離を詰めて来るなり、飛雄馬の腰を抱き寄せ、そのまま驚いたように開いた彼の唇へと口付けた。
「な、っ………」
それは触れるだけのもので、すぐさま花形は離れていく。触れられた唇が変に熱くて、ジンジンと疼くのは指の火傷あとか、はたまた唇か、それとも心臓か、飛雄馬は瞬きするのも忘れ目の前に立つ花形を仰ぎ見た。
「治療費は花形の名で請求書を貰ってくれ。必ず立て替えることを約束する」
「そこまで、してもらう義理は」
「………唇の、礼だよ。星くん」
ニッ、と花形は微笑むと必ず病院に行くようにと言い残し、呆然と立ちすくむ飛雄馬を残し部屋を出て行ってしまう。
結局、この日花形が何をしに部屋を訪ねたかは分からず仕舞いであったが、飛雄馬は言われた通りに病院にかかり、火傷の治療をしてもらった。
処方された塗り薬のお陰か翌日の試合の際には痛みも取れ、普段と変わらぬピッチングを行うことが出来たものの、何やら胸の奥にモヤモヤとするものがあって、バッテリーを組む森捕手にもそれを指摘されたが、すみません、と言うだけに留まった。
高校時代からの親友である伴にもどうしたと訊かれ、悩みがあるなら聞くぞと優しく言われたものの、よもや花形に口付けをされたなどとはこの親友にも馬鹿正直に言えるはずもなく、大丈夫だと飛雄馬は応える。
そうして、一人悶々とした思いを抱えつつ気晴らしに食事でも行かんかと言う伴の誘いを断り、帰宅した飛雄馬を迎えたのは大きな花束の包みを解き、花瓶に生けようとしている明子の姿で、飛雄馬はその花束の大きさにこれまた驚いた。
「ねえちゃん、これは?」
「花形さんが直接持ってきてくださったのよ。星くんに申し訳ないことをしてしまったから、って」
「…………花形、さんが」
飛雄馬は、何かあったの?と尋ねる明子の問いに応えようともせず、ベランダに置いた椅子に腰を下ろすと、大きく息を吸ってから口からふうっ、と吐き出す。
それから、まだほんの少し赤みの残る左手の指で飛雄馬は唇を撫でると、椅子の背もたれに体を預け、ゆっくりと目を閉じた。