ワイン
ワイン 寮の自室のベッドにて、雑誌を読みつつうとうとと眠りかけていた飛雄馬は、けたたましい車のクラクションの音で目を覚ます。
何事かと飛び起き、部屋の外へと繋がる窓を開けてみれば、こちらを見上げながら外車のクラクションを鳴らす花形と視線が合い、飛雄馬は慌てて寮の玄関先へと向かった。その際、どうした?と訝しむ寮長にわけは後で話すと断り、寮の裏側──飛雄馬が先程、下を覗き込んだ場所──に回り、車から降りてはにやにやとこちらを見つめ、微笑む義兄を睨みつけた。
「おお、こわ。そんな目で見つめないでくれたまえ」
「どういうつもりだ花形さん。こんな真似をして」
「どうすれば飛雄馬くんがぼくの邸宅を訪ねてくれるか考えに考え抜いた結果なのだが、お気に召さなかったかい」
くすくす、と花形はまったく悪びれる様子なくそう言うと、乗りたまえ、と後部座席のドアを開けた。
「皆の迷惑を考えてくれ。恥ずかしいとは思わないのか、こんなことをして」
「寮から人が減る時間帯を選んだつもりだがね。その証拠に、きみ以外に顔を出す者はいなかった、そうだろう?」
「それは、そうかもしれんが…………」
花形に言いくるめられ、飛雄馬は口を噤む。
さっきまではあんなに腹が立っていたというのに、すっかり元凶の彼に毒気を抜かれてしまった気分だ。
「何か先約でも?」
「今日のところは帰ってくれないか。こんな呼び出し方をされては釈然としない」
「…………」
先程とは別人のような花形の真剣な眼差しに射抜かれ、飛雄馬はたじろいだものの、失礼する、と言うなり、その場で踵を返した。
「また明子を裏切るのかい」
「…………!」
裏切る、だって?人聞きの悪い──ねえちゃんはなぜ、花形さんを遣い、おれを屋敷に招き入れようとするのか。おれだって好き好んで断っているわけじゃない。今は試合に集中したいし、敵である花形さんと交流を持ち、情が生まれてしまってもよくない、とそう思ってのこと。どうして、それをねえちゃんや花形さんはわかってくれないのか。
「明子にはよく言って聞かせておくよ。飛雄馬くんもそう、屋敷に呼びつけられては迷惑だよ、とね」
「迷惑、では……」
花形に背を向けたまま、飛雄馬は拳を握る。
「それなら来たまえ、無理にとは言わんがね……」
「…………」
その言葉に、飛雄馬は無言のままくるりと体の向きを変え、花形が開け放った後部座席のドアから車内へと乗り込んだ。花形もまた、それきり何も言わず、車だけが軽やかに滑り出し、次第に巨人軍の寮から遠ざかっていく。
「そんなに、ぼくの屋敷を訪れるのは気を遣うかね」
「…………」
「そう怒らないでほしいものだが」
車に揺られること数十分、花形邸の高い塀が見えてきて、車は屋敷の出入口から敷地の中へと入っていく。
広大な敷地には色とりどりの西洋花が植えられており、季節に応じて様々な顔を見せてくれるのだろう。
しかし、西洋彫刻の品々は、いつ見ても不気味だと感じる──噴水なども果たして何の意味を為すのだろう──と考えたりもするが、敢えて言うべきことではないなと飛雄馬は口を噤み、黙って後部座席にて車に揺られている。
花形は屋敷の玄関先にて飛雄馬に降りるように告げ、自分は車庫に車を停めてくるからと言い残し、去っていった。チャイムを鳴らし、姉を呼ぼうかとも考えたが、飛雄馬は花形が戻ってくるのを待ち、しばらくその場に立ちすくんでいた。
すると、そのうちに花形が現れ、中に入っていてくれてもよかったのになどと言ってきたが、言葉を濁し、彼が扉の鍵を開けてくれるのを待った。
そうして、屋敷の扉は開いたものの、出迎えてくれる人間はおらず、飛雄馬は違和感を覚える。
確か、以前、ここを訪ねたときはねえちゃんなり、お手伝いさんなりが玄関先に待っていたはずだ──と。
「……明子たちは買い物に出ていてね。間もなく帰ってくると思うが」
「…………」
それなら、いいが、と飛雄馬は花形に屋敷の中が無人であることの理由を聞いたとはいえ、拭えぬ違和感を抱えながら、差し出されたスリッパを履き、促されるままにリビングへと向かう。
そわそわとした形容しがたい焦燥感に駆られつつ、飛雄馬は通されたリビングのソファーへと腰を下ろした。
「何か飲むかね」
「いや、結構……」
「ゆっくりしていきたまえ。フフ……」
花形はそう言うと、何やら棚のようなものの戸を開け、中から瓶をひとつ、取り出してみせた。
どうやら洋酒の瓶らしきそれを花形はワインだと言い、きみと一緒に飲もうと思っていてねとも続けた。
「気持ちは嬉しいが酒は飲まないことにしている」
「このワインにはアルコールが入っていない。安心したまえ」
「はあ……」
面倒なことになったな、と飛雄馬は思いつつも、渡されたグラスを手に、注がれるワインを見つめる。
薄緑色をした液体が満たしたグラスを、花形が乾杯とばかりに目線まで掲げてきて、飛雄馬も見様見真似でグラスを上げた。そうして、雰囲気に流されるように一口、ワインを口に含む。
乾いた喉に、するりとワインが滑り込み、渇きを癒す。洋酒というものをこれまで嗜んだことはほとんどなかったが、これほど飲みやすいのか、というのが率直な感想であった。しかし、いくらアルコールが入っていないとは言われたものの、どうにも体が火照り出し、視界がゆっくりと回っていくような気がして、飛雄馬はそれきり、口を付けるのをやめた。
酔ったかい?と尋ねる花形の声がどこか遠くから聞こえるようでもある。
「…………」
目が回る。おかしい、飲まないうちにこんなに弱くなってしまったのか。花形さんは、アルコールは入っていないと、そう、言わなかったか?おれの、聞き間違いだろうか。
ふらりとリビングを出ていく花形を見送り、飛雄馬はソファーへと横になる。雰囲気に当てられてしまったのかもしれない。緊張も少なからずあるだろう。
こんなことになるのならやはり断っておくべきだった。ソファーで横になったまま飛雄馬は目を閉じ、大きな溜息を吐く。
と、体を横たえたソファーの座面が不自然に沈み込み、顔にふっと影が差した気がして、飛雄馬は目を開けた。すると、花形の顔が文字通り、目と鼻の先にあって、飛雄馬はぎょっとなったが、逃げる間もなく唇へと口付けられ、口移しされた氷の冷たさに身震いする。
「つ……ぅ、う」
冷たい氷と、それによって冷やされたであろう花形の舌が、熱を持った口内と飛雄馬の舌を弄ぶ。
互いの舌の間で氷が融解し、冷たい水が飛雄馬の喉へと流れ込む。
「酔いは覚めたかね」
飛雄馬の着ているシャツの裾から中へと指を差し入れつつ、花形が訊いた。
「さっきの、ワインっ…………」
「ぼくは嘘は言わんよ。確かに開けたワインにアルコールは入っていない。大方、雰囲気に当てられでもしたのだろうさ」
「だからって、こんな、っ……こと」
「少しでも不快感を和らげてやろうと思ってのことだったが、ご不満かい」
「もう……大丈夫だから、っ……どいてくれないか」
「…………」
花形の、肌に直に触れる指先が妙にくすぐったく感じられる。
狭いソファーの上に、不自然な格好で体を預けたまま、飛雄馬は身動きが取れないでいる。
と、ふいに花形の指先に胸の突起を捉えられ、飛雄馬は大きく体を震わせた。鈍い痛みとも判別のつかないじくじくとした疼きがそこから全身へと広がる。
やや膨らみ、芯を持ち始めた突起は花形の手により、限界まで尖りきる。
「っ……く、ぅ……」
「ここ、弱い?」
尋ねてくる花形の顔を見られず、飛雄馬は目を閉じると、首を振る。触れられていないはずの突起も同じように立ち上がり、纏う衣服を押し上げているであろうことは、自分が一番よくわかっている。
膨らんだ胸の突起を花形の指の腹で捏ねられ、きつく押し潰されて、飛雄馬は自分の下腹部もまた、じわじわと反応し始めていることを察した。
「下、脱ごうか」
目を閉じ、耐えていた飛雄馬だが、花形に囁かれ、目を開けると、いやだ、と拒否の言葉を吐く。
「なぜ?ここが気に入らんのなら場所を変えるかい」
「どうして、花形さんとっ、こんな……」
「飛雄馬くんはこの花形に抱かれることが不満だと、そう言いたいのかね」
「そうじゃ、なっ……っ、」
弁明しようと開いた口を、花形の唇によって塞がれ、飛雄馬は彼を引き離そうと躍起になるが、己の上に覆いかぶさる体はびくともせず、そればかりか、スラックスを留めているベルトを緩められてしまう。
口内を犯す舌に翻弄され、体に力が入らぬままにスラックスと下着とを剥ぎ取られて、飛雄馬は花形の体を受け入れる。
頭がぼんやりとしているのはワインのせいか、花形の口付けのせいか。いや、そんなことより、おれはなぜここに来たのだったか。花形の口車に乗せられ、屋敷を訪ねはしたが、結局なんのために…………。
尻に押し当てられた熱によって、飛雄馬は現実へと引き戻される。入口を無理矢理こじ開け、体内に押し入る花形の熱に、飛雄馬は体を仰け反らせ、全身に汗をほとばしらせた。ゆっくりと時間を掛け、飛雄馬の腹の中を花形には突き進んでいき、時折、フフッと小さく笑みを溢す。
「だいぶ、馴染んだようだね」
「っ、ねえちゃんに見られでもしたらっ、どうする……っぁあ!!」
花形が引いた腰を飛雄馬の尻に打ち付け、中をぐりぐりと掻き回した。ようやく、腹の中を満たす圧に慣れつつあった飛雄馬は、ふいに内壁を擦られ、敏感な箇所を突かれたことにより声を上げた。
「明子に見られて困るのはきみの方だと思うがね、飛雄馬くん。フフッ、ぼくに抱かれ、喘ぐ姿を存分に見てもらうといいさ」
「っ、う、ぅう……」
口元を両手で押さえ、飛雄馬は声を殺す。
花形はそれが気に入らぬのか、脇に抱いた飛雄馬の足を押し広げ、腹へと押し付けるようにして身を乗り出すと、中深くを抉りにかかった。
先程とは違う箇所を花形の男根が撫で、突き上げる。
全身が与えられる快感に戦慄いて、飛雄馬の瞳には涙が滲んだ。どこをどう触ればいいのか、この男は知っている。おれに一切の痛みを感じさせることなく、快楽だけを与えてくる。
ソファーが軋み、背中を預けた座面はじっとりと汗で濡れてきている。
「っ……っ、」
「いきそう?」
その問いに、飛雄馬が小さく頷くと花形はぴたりと腰の動きを止め、いくときはっきりとぼくに聞こえるように言いたまえ、とそんな言葉を口にした。
あと少し、あとほんの少しだったと言うのに。
飛雄馬は自分を見下ろし、微笑む花形を一度は見上げたものの、すぐに視線を逸らした。
「…………」
「言えない。フフ、それなら少し、手伝おうか」
言うなり、花形は飛雄馬の臍の上で先走りを垂らしている男根を握り、その亀頭部を擦り始める。
「う、ぁ、あっ……!!」
飛雄馬の男根の裏筋を花形の親指の腹が撫で、射精をじわじわと促す。
「…………」
「いっ……く、花形さっ……」
震える声で飛雄馬は吐息混じりにそう囁いて、花形の口付けに応えると、そのまま絶頂を迎えるとともに、腹の中で放出された熱さに震えた。
そうして、気怠さと体の火照りを感じつつ、事を終え、離れていった花形と帰宅したらしき姉の扉越しの会話を途切れ途切れに耳にする。
「…………」
頭がうまく働かない。気分こそ悪くないが、体は言うことを利いてくれそうにない。
飛雄馬は腹の上に飛び散った己の体液を目の当たりにし、大きく息を吐くと、僅かに起こした体をソファーの上に横たえる。
「動けるかい」
と、部屋の扉が開き、花形が顔を出した。
驚き、横たえたばかりの体を跳ね起こした飛雄馬だが、来訪者が花形であることに気付くと、ねえちゃんは?と訊いた。
「疲れたから部屋でしばらく休むと言っていたよ」
「着いていてあげなくていいのか」
「…………」
「おれはひとりで帰れる。花形さんはねえちゃんに着いていてやってくれ」
「飛雄馬くん、ぼくは」
「言い訳は聞きたくないな、花形さんともあろう人が。堂々としてくれている方がまだおれの気が晴れる」
「…………」
「ねえちゃんによろしく」
飛雄馬は言うと、花形に手渡されたティッシュで腹や尻を拭って、足元に落ちていた下着とスラックスを身に着けると部屋の出入口へと向かう。
「飛雄馬くん」
「まだ何か…………っ、!」
名を呼ばれたことで振り返った飛雄馬の顎先に、花形は指を掛け、ついと顔を上向かせた。
「またきっと、来てくれるね」
「もう二度と、来るものか……」
吐き捨てるように言った飛雄馬の唇を、花形が塞ぎ、触れるだけの口付けを与えると、ふらりと部屋を出て行った。
「…………」
今の口付けが持つ意味は何なのか。
考えたくもない、考えようとも思わない。
飛雄馬は、リビングの外へと出て花形が姉の部屋に行くのを確認し、玄関先までひとり向かう。
花形はずっと嘘をついていたのだろうか。
ねえちゃんをだしにし、おれをここに連れ込んだばかりか、アルコールは入っていないといったワインもまた、嘘だったのだろうか。
未だ、あのワインの味が僅かに口に残っている。
あれは、何という銘柄だっただろうか。
「…………」
飛雄馬は玄関の扉を、極めてゆっくりと開け、そっと閉めると敷地の外までの長い道程を歩き始める。
庭にある噴水は変わらず水を放出しており、辺りには水の飛沫が飛散し、きらきらと輝いている。
こうして見ると、意外と悪くないかもしれんな、と飛雄馬は花形邸の大きな庭を見渡し、そんなことを思いながら、石畳の庭内を足早に歩く。
ねえちゃん、大事ないといいが、今度、電話くらいしてやろう。
飛雄馬はふと、花形が先程言い掛けたものの己が遮った言葉の先を思案し、足を止めたが、きっと深い意味はないはずだと思い直し、再び歩き始める。
帰ったら寮長に何と言おうか、そちらの方が余程大事である。
敷地の外で運良く捕まえられたタクシーに乗り、飛雄馬は行き先を告げると、後部座席の背もたれに身を預けた。そうして、いざ落ち着いてみると腹の中にまだ花形がいるような気がして、自分の腹を撫でつつ、飛雄馬は唇を引き結ぶと、静かに目を閉じた。