割引券
割引券 「ねえちゃん、あのさ、映画を観に行ってもいいかい」
映画?と飛雄馬に話を振られた明子はズボンの玉結びをした箇所を歯で噛み切りつつ、訊き返した。
土曜の午後。
今日は朝から初夏らしい陽気で過ごしやすく、外を行き交う人々の中にも半袖姿がちらほらと見受けられ、朝から買い物に出ていた明子ももうそんな季節なのね、と顔を綻ばせたものだった。
「うん。学校の正門前で映画の割引券配っててさ。ちょっと行ってみたくなって」
「映画?でも、野球に映画はよくないんじゃないの?お父さんがそんな話をしてなかった?」
「う、うん……でもさ、いいだろう。一回くらい……ねえちゃんさえ黙っててくれたらわかりっこないじゃないか」
「それは、そうだけど……」
珍しい、飛雄馬が自主的に何かをしたいと話してくれたこと、今まであったかしら、と明子は午前中授業を終え、帰宅早々昼食も摂らずにそんな話を振ってきた弟のきらきらと輝く瞳を見つめる。
夏でも長袖を着ることを強制され、気味の悪い音を立てるギプス装着を課せられた不憫な弟。
野球以外何の娯楽も与えられず、年相応に友達と遊ぶことさえ許されない可哀想な弟、飛雄馬。
「とうちゃんも今日は日雇いに出てるんだろう?帰ってくるまでには戻るようにするからさ」
「そうね、わかったわ。行ってらっしゃい。たまには息抜きも必要だとねえさんも思うもの」
野球ばかりじゃ身が持たないわ──と明子は続け、補正をした父・一徹のズボンを彼のタンスへと仕舞いこんだ。
「ほんとう?」
「ええ。お父さんには黙っておいてあげる。だから早いところお昼食べちゃいなさい」
父は、自分のやっていることの罪の重さを自覚しているのだろうか。幼い弟に、自分の成し得なかった夢を託すなんてどうかしている。
巨人の星を目指せ、なんて尤もらしいことを言っているが、自分の果たせなかった夢を叶えてくれ、とそう言っているに過ぎない。
子供は親の所有物ではないし、言いなりになる必要なんて微塵もないのだ。それなのにこの心優しい弟は、自分が巨人の星になった暁には父と私にいい生活をさせてやると泣かせることを言ってくれる。
父はそうか、と酒を飲み、赤くなった顔で笑い頷くが、私はそれを聞くたびに胸が痛んでしょうがないのだ。用意した昼食をぱくぱくと平らげていく飛雄馬の顔が見ていられなくて、明子は席を立つ。
ああして人並みに食器を携え箸を持ち、食事が摂れるようになるまで彼はどれだけの時間を要しただろう。
ギプス装着の強制だけでなく、右手の使用を禁じられた弟はろくに食事にありつけず腹を空かせ、いつも布団の中で声を殺し泣いていた。
この行為に、何の意味があると言うのか。
もっと効率のいい方法があるのでは、と進言したこともあったが、父は女に何がわかると吐き捨て、聞いてさえくれなかった。
「おかわり!」
「そんなに食べると夕飯が食べられなくなるわよ」
「まだお昼すぎじゃないか」
口周りにご飯粒をたくさん付けた飛雄馬から茶碗を受け取り、明子はそこに大盛りの白米をよそってやる。
「ところで飛雄馬、映画は何の──」
そう、言いかけたところで突然、玄関の引き戸が音を立てて開き、明子と飛雄馬は、あっ!と息を呑んだ。
「映画がどうしたんじゃ」
「お、お父さん。仕事は?」
開いた引き戸から顔を出した人物──父・一徹に明子は話しかけ、精一杯の微笑みを向けた。
「ふん、昼からは人手が足りとるから帰れと言われてしまってのう。不本意ながらも帰ってきたわい」
どっかと玄関先の框に腰掛け、ゲートルを脱ぐ一徹を飛雄馬が今にも泣きそうな顔をして見つめているのが目に入って、明子はつられて自分も泣きそうになるのをすんでのところで堪えた。
「…………」
「ねえちゃん、ごめんよ。ありがとう。おれは気にしてないからさ。大丈夫」
表情を曇らせた明子を気遣ってか飛雄馬がそんな台詞を口にし、受け取った茶碗に盛られた米を口に掻き込んだ。
「さっきふたりで映画がどうとかいう話をしてはおらんかったか。なんのつもりだ」
「いえ、私がちょっと……観たい映画があったからひとりで留守番できるかどうか飛雄馬に訊いていただけよ。それだけ」
ピンと張り詰めた空気を少しでも緩めようと明子は些細な嘘をつく。
「…………」
一瞬の沈黙のあと、一徹はそうか、とだけ言うと、明子が朝、持たせてくれた弁当の包みを開け、それを食べ始める。
よかった、やり過ごせた、と明子と飛雄馬はそれぞれ目配せし合い、小さく息を吐いた。
父が帰宅すると、屋敷の中の雰囲気ががらりと変わる。誰も父には逆らえず、意見も言えず、ただ従うのみ。私たちは何も考えてはいけないのだ。
意思を持ち、父に楯突くことなど出来はしないんだ。
明子は、ごちそうさま、と蚊の鳴くような声で囁くと、宿題をするべくカバンを開けた飛雄馬の姿を前に何も言えなかった。
あんなに楽しそうに、嬉しそうに笑う弟を見るのは、本当に久しぶりだったというのに。
それから、三人の間に会話はなく、それぞれが顔を向き合わせることもなく時間だけが過ぎていく。
こんなことなら、昼食の用意などせず、行ってきなさいと即座に送り出してやればよかった。
明子は弟と父の使った食器を洗いながら、宿題の途中にも関わらず表に駆り出された飛雄馬のことを思う。
投げた球がミットに収まる強い衝撃音に耳を塞ぎ、明子は辛いのは自分ではないのだから泣いてはいけない、と思いつつも溢れる涙を堪えきれず、ひとり咽び泣いた。