歌番組
歌番組 「最近、このオーロラ三人娘の橘ルミ、急に色気が出てきたって言うか雰囲気変わったよなあ」
橘ルミ──?
飛雄馬はその聞き覚えのある名前に食事の手を止めた。夕食時、飛雄馬と伴が立ち寄った定食屋には会社帰りのサラリーマンや学生らがごった返している。
伴には飛雄馬の後ろの席に着く、大学生らしき男性ふたりの会話は聞こえてはいないようで、注文したトンカツ定食・ご飯大盛りをろくに噛みもせず口に放り込んでいく。
「橘ルミ?ああ、一時期巨人の星と噂されたアイドルだろ。あの後塞ぎ込んじゃって大変だったみたいだぜ。あわや引退かと思われたが、いざ蘇ってみたらこれだもんよ」
飛雄馬はそこで初めて、自分の後ろに位置する──アイドルの歌番組にチャンネルが合わせられているテレビを振り返った。
そこには大学生ふたりが話題にしていた、はたまた一時は己とそれなりに付き合いのあった彼女の姿が映し出されていて、飛雄馬は何となく画面から目を逸らした。彼女に、あれから先何があったかは知らない。
いや、知らないふりをして来た。
宮崎からねえちゃん宛に送った手紙の返事には、度々彼女がマンションをお忍びで訪ねに来ていたと記されていたが、おれはそれに応えなかった。
完全に宮崎で出会った看護婦の美奈さんに夢中になってしまっていた。
おれの浮わついた心、その浅はかさを見抜き、平手を食らわせてきた美奈さんにおれは参ってしまっていたし──それから、ふと我に返り、やはり野球と女性関係の両立は出来ぬと未練を断ち切ろうとした刹那、彼女の口より聞かされた悪夢のような事実。
今考えてみれば、関係を終わらせるにしても最低な仕打ちをしてしまったと思うし、身辺が落ち着いてから手紙のひとつでも書くべきであっただろうと考える。
おれはまだ幼かったのだ。
まだ恋が何たるかを、恋愛と言うものを知らなかったのだ。まだ幼さの残る顔に大人びた化粧を施し、人工的な甘ったるい香りを纏った彼女を、おれは嫌いではなかった。
けれど、おれはきっと彼女に相応しい男ではなかったのだ。
その、懐かしい名をこんなところで聞くなんて、と飛雄馬は自分がまだ『少年』であった頃の思い出に胸がしくしくと痛むのを感じながら、テレビから流れてきた曲に俯けていた顔を上げる。
今にも泣き出しそうな表情を浮かべた橘ルミがそこには映し出されており、彼女が唇から紡ぎ出すは想い人との別れに涙しつつも、私は自分の道を征くから心配しないで、とそう言った前向きな歌詞であった。
有名な作曲家が提供したという悲しげな旋律は彼女の声によく似合っている。
「…………」
「いいなあ、橘ルミ。昔はツンケンしてて苦手だったけどこの歌聞いて印象変わったよ」
「この歌、橘ルミが作詞してるんだけどよ、巨人の星を想って作った曲らしいぜ。本人は否定してるけどさ」
「……し、星」
飛雄馬はテレビ画面の向こう、目尻に涙を浮かべながら歌う橘ルミを振り返った格好のまま見つめていたが、テーブル席の向かいに座っていた伴に呼ばれ、ハッ、と我に返った。
「あ、ああ、伴、どうした?」
「それはこっちの台詞じゃい。珍しい、星がテレビに夢中になるなんて」
「…………」
どうやら伴は橘ルミの存在には気付いていないようで、不思議そうな面持ちで首を傾げている。
一瞬、このことを伴に話そうか、とそんな考えが頭をよぎったものの飛雄馬は、何でもない、とだけ返すと残っていた定食の残りを口に運ぶ。
橘ルミさん、あなたはおれに大事なことを教えてくれました。
あなたとの別れがあんなことになってしまったのも、おれがまだ未熟で、子供で、恋愛の何たるかを知らなかったせいです。
どうか、おれのことは忘れてください。
そして、あなたを幸せにしてくれる優しい人と──。
いや、そう思うこと自体、思い上がりも甚だしい。
関係者でもない一ファンの言葉には何の信憑性もない。彼女の口からこの歌のモデルはあなたですと聞いたわけでもないのに──。
飛雄馬は味噌汁入りの椀に口をつけ、箸で汁と共に具を口内へと掻き込む。
一方的に別れを切り出しておいて自分勝手すぎるのは百も承知だが、それでも、おれは彼女に、橘ルミさんに幸せになってほしい。
「変な星じゃのう」
「……帰ろう、伴」
再び、首を傾げた伴を尻目に、飛雄馬は空にした椀をテーブルに置くと、そのまま立ち上がった。
伴がその背を追い、慌てて勘定を済ませ、店を出て行く。今の巨人の星じゃねえか?などと言う声も店内から聞こえはしたが、飛雄馬は足を止めることなく伴と共に夜の街、その雑踏に紛れる。
『あの人は、ルミに大事なことを教えてくれました。今ではとても感謝しています』
ニコニコと笑みを浮かべつつ語る彼女に、番組の司会者があの人ってだぁれ?と面白おかしく尋ねる様子が飛雄馬たちが立ち去り、次第に閑散として来た店内のテレビに映し出されていたが、そう間を置かず新商品の洗剤のコマーシャルへと切り替わった。