鬱憤
鬱憤 星は今頃、何をしちょるんかのう……。
伴は愛知にある、中日ドラゴンズの宿舎、彼に充てがわれた一室のベッドの上で別れた彼に思いを馳せる。
つい先日まで点を取り合い、火花を散らしていた他球団への移籍と言うのはどうにも居心地が悪い。
しかも、どうしても巨人の星の女房役と言う肩書が付いて回る。
それはいいとしても、星は今頃……。
伴は再び寝返りを打つと、カーテンの閉まった窓の向こうに視線を遣る。
あの時、追いかけて行って抱きしめていれば、絶対おれは星のそばを離れはせんと言っていれば、結果は違っていたのか、果たして。
それでもきっと星は、おれを冷たく突き放しただろう。あの日の明子さんのように。
「…………」
はあ、と伴は大きく溜息を吐き、また寝返りを打つ。
と、同室の選手が何度も寝返りを打つ伴に対し小さく、うるせえ、とぼやいた。
同室の男が苛立つのも無理はない。
ただでさえ、昨日までひとりで悠々自適に過ごしていた部屋に人が増え、神経質になっていると言うのに、それもやって来たのはジャイアンツからトレードを受けた男である。
彼も伴と同様、落ち着かず、はたまた自身が先輩という自負もあるためにぼやいたのも無理はないとはいえ、星と別れ、感傷的になっていた伴はその一言に激昂した。
「きさまっ!もう一度言うてみい!」
掛け布団を跳ね除け、伴はベッドから飛び降りると隣のベッドに寝ていた男に掴みかかる。
「なんだとっ!てめえ、新入りのくせにでかい面しやがって!」
古参の彼も怯まず、応戦する。
伴は得意の柔道技を相手にかけ、床にどっと捻り倒した。
その怒声と物音に他の寮生たちが目を覚まし、何事だと明かりをつけ部屋の外へと出てくる。 
「なんだなんだ?」
「ジャイアンツからトレードされた伴がケンカしてるんだと」
「へえ。星と別れたのがよほど堪えたようだな」
部屋の開け放された扉からこちらを覗く他の選手らのヒソヒソと耳打ちし合う声が伴の耳には入る。
「誰じゃあ!今星がどうとか言うたのは!言いたいことがあるなら聞こえるようにはっきり言うてみい!」
伴が振り返り、そう、叫ぶと辺りは水を打ったように静かになった。
意気地なしどもめ──伴が吐き捨てるよう、そう口走ったとき、騒ぎを聞きつけたか今は伴たちと同じく宿舎で寝泊まりをしている星一徹3塁コーチが顔を出した。
野次馬根性で伴たちの乱闘を見に来ていた他の寮生たちも星一徹の登場に恐れ慄き、すごすごと部屋に戻っていく。
「何の騒ぎだ」
「ほ、星コーチ。伴のやつが」
「お前には聞いておらん。わしは伴に訊いておる」
柔道で派手に投げられ、前後不覚の状態になっている同室の男が先に口を開いたが、一徹はそれを制し、伴の方に訳を尋ねた。
「こいつが、人が眠れんで寝返りを打っているのをうるせえと言ってきたからですわい」
「…………それだけか?」
「それだけ、とは?」
「大方、巨人の星とのことでもからかわれたんじゃろう」
フフ、と一徹が含蓄有りげに微笑み、伴は歯噛みしたが、違いますわい、と彼の発言を一蹴する。
「まあ、よい。訳は明日、尋ねるとしてとりあえず今晩はわしの部屋に来るといい」
「な、おれが、ですか」
まさかの言葉に伴は目を丸くし、身を翻した一徹の背中をぽかんと見つめる。
「荷物を整理したら黙ってついて来い」
「は、はあ……」
おかしなことになったな、と伴は思いつつも、納得のいっていないらしい同室の男を残して貴重品やらを手にし、一徹の後を追う。
一徹が案内した先は、さすがコーチと言うべきか一介の選手らとは部屋の造りからして違う広い個人用の居室で、伴は再びぽかんと呆けた。
「今日はここで寝るがいい。わしはソファーで寝るからこちらのことは気にせずともよい」
「は!?し、しかし、」
「星飛雄馬のことをからかわれたのがそんなに頭に来たか」
一徹は煙草を口に咥え、その先にマッチで火を灯しつつ部屋に置かれたソファーに腰を下ろす。
「…………親父さんなら、いや、星コーチならすべてご存知なのではないかのう。わざわざ言葉にするまでもなく」
「恋とは熱病のようなものであると言うたのは誰だったかのう。ふふふ……」
「熱病……?!」
かあっ、と一徹の言葉に頭に血が上ったが、俯き、拳を握ると伴は唇を引き結ぶ。
「何にせよ、今の伴は巨人の伴宙太ではない。中日ドラゴンズの伴じゃ。星飛雄馬に抱く情念の一切を打ち捨てよ」
「そんな、簡単にできたら苦労なんぞしませんわい」
「きさまも男なら女々しく男の尻など追っかけとらんで自分のために生きよ」
「おれと、星の仲を引き裂いておいてよくもそんなことが言えますのう……ふふ、なに、オヤジさんに言われんでもおれがこう女々しいままだと星にも迷惑がかかる。言われんでも、しっかりやりますわい」
伴は煙草をふかす一徹にベッドで寝るように勧め、俯いたまま顔をゴシゴシと拭った。
「……………」
「迷惑、かけてすんません。明日、起きたら先輩方にもちゃんと謝ります」
煙草をガラステーブル、その上に置かれた灰皿で揉み消すと一徹は伴にソファーを譲り、ベッドに入る。
「眠れんだろうが、休まんと明日に差し支えるぞ」
伴は答えないまま、部屋の明かりを消すとソファーに横になった。
互いに会話はなく、室内に響き渡るは時計の秒針の音のみである。
閉じたまぶたの裏に浮かぶのは、やはり親友の顔で、伴は大きく寝返りを打つと星、と小さく彼の名を呼んだ。