運命
運命 校門から出てすぐのところで名を呼ばれ、伴は背後を振り返る。
「天野先生」
「急に呼びとめてすまないね。このあと時間あるかい」
伴に声を掛けたのは、かつてまだ彼の無二の親友である星飛雄馬が青雲高校に在籍していた時分、野球部が存在していた頃、部の部長をしていた天野先生、その人であった。
PTA会長をしていた伴の父に頭が上がらず、面倒事には極力関わりたくない、人間的には悪い人ではないが気弱なところがあった彼もまた、星飛雄馬──その父であり、伴大造が頼み込んで野球部の監督を引き受けた星一徹と関わり、その言動に良い意味で影響を受け、甲子園に出場することが決まり羽目を外した部員たちを叱咤するまでとなった。
しかして、現在、この青雲高校に彼の姿はない。弱小野球部であった青雲高校野球部が甲子園出場、はたまた決勝戦まで進むことが出来たと言うのに、決勝戦の対戦高校に伴大造の商売敵である花形モータースの社長の息子が在籍しており、彼らに無様に負けたことが気に食わん、とそれだけの理由で伴大造は自分の権力を振りかざし、部を解散させた。
天野は敗退した星飛雄馬や野球部を責める伴大造らに自分が野球部すべての責任を負う、と告げそのまま辞表を提出し、青雲を去った。
その天野先生が、急にどうしたんだ、と言うのが彼の姿を目の当たりにした伴の感想であった。
「はあ……少しなら」
「そうか。近くの喫茶店でもどうだ」
伴の返事も聞かず、天野は一人歩き出す。
彼の姿は上下揃いのスーツで、身なりはしっかりとしているようで教師の職は辞したとは言え、どこかできちんと働いているらしいことは後ろを行く伴にも見てとれた。
「星とは、連絡を取っているのか」
ふいに出された星の名に、伴はドキンとした。はあ、まあ、と言葉を濁した伴に、天野は、そうか。と顔を綻ばせる。
「星のあの真面目なところは良いところだが、なにぶん、頑張りすぎるところがあるからな」
「………」
天野先生は星があの決勝戦で、負傷した左手を庇い、小宮のため、はたまた野球部皆のために最後まで投げ抜いたことを知っているのだろうか、と伴は左手の親指をぎゅっと拳の中に握り込みながら考える。
「ところで、先生は今、何を?」
「ん?私か、私はね。塾の講師をやっているよ。青雲を辞めてすぐ面接に行った塾の開設者の方が大の高校野球ファンでね。まったくの無名だった青雲を甲子園のみならず決勝戦まで導いた監督ということで妙に気に入って貰えてね」
学校から離れ、しばらく歩いたところにある喫茶店のドアを開けつつ、天野は一度口を噤んだ。若い女の店員に案内されるがまま、二人は席に着き、天野はコーヒーを、と彼女に告げ、伴もまた、おれもそれで、と続けた。
「コーヒーだけでいいのかい?なんでも好きなものを頼むといい」
「………先生は、星の行方が気になるんですか?」
店員が持ってきた熱いおしぼりで手を拭いていた天野の動きが一瞬止まる。
「…………さっき、私は自分が塾講師をしているときみに言ったね」
「はあ」
同じく、店員が持ち寄ったグラスに注がれた冷水を口に含みつつ伴が頷く。
「以前、きみの父、伴大造会長の顔色を伺ってばかりだった私の性格を、人生観そのものを星くんのお父さんと出会ったことでガラリと変えることができた。男の生き様と言うのか、人間の在り方と言うのか……そればかりではなく、さっき話したとおり、学校を辞めてからでも星は私を助けてくれた。星がいなければ私は今でもうじうじと人の顔色ばかりを見て生きていただろう」
「…………それは、おれも同じですわい」
「そうだろう。きみが、伴が星と関わってみるみるうちに見違えるような好人物に変わっていくのが見ていて手に取るように分かった。目標に向かってひたむきに燃え、汗を流している青年の、なんと美しく尊いものか」
俯き、肩を震わせ、天野は言う。
すると、コーヒーカップをふたつ、先程とは違う女性店員が持ち寄り、二人の前にそれぞれ置いた。
「彼は、星は、自分よりも他人を優先させるところがある。あのへそ打法を経て、自分自身を省みることもできるようになった。それだけに、私は」
伴は顔を上げ、天井に取り付けられた蛍光灯を仰ぐ。涙が溢れそうであった。
あの闇討ち事件の真犯人──牧場春彦の罪を一人被りおれにさえ告げずに去った星。 彼は今までにどれだけの人間を正しい方向に導き、救ったのだろう。
「きみから、星に礼を言ってくれないか。ありがとう、と。そして、自分のこともたまには立ち止まって考えてみてほしい、と」
「………伝えて、おきますわい」
鼻から大きく息を吸って、伴は息を止め涙が溢れるのを堪えた。
ありがとう、よろしく頼んだとコーヒーを啜る天野の目にも涙が光っており、伴は膝の上で強く拳を握る。
今更おれは、どんな顔をして星に会えばいいのか。闇討ちの罪を被った彼に絶交を言い渡したおれが、どの面下げて星に会えると言うのか。生き方を、人生観を星に変えてもらったのは自分だってそうだ。
それだと言うのにおれは真犯人を星だと一方的に決め付け、絶交を言い渡した。
あんなに美しく気高い心を持った神様みたいな人間に、一瞬たりともおれのような人間が関わりを持てたこと自体が幸運だとでも言うのだろうか。
「………代金はここに置いておくから。足りなかったら好きなものを頼むといい」
コーヒーを一足先に飲み干した天野が伝票の下に五千円を忍ばせ、席を立つ。
「せ、先生、自分の分は自分で払いますわい」
「………星に会ったときに、それで食事でもしてほしい」
「天野先生………」
体に気をつけるように、と天野は伴の肩を叩き、店を出て行く。伴はとうにぬるくなったコーヒーを啜りつつ、そこに来て感極まったかぼろぼろと大粒の涙を頬に伝わらせた。
この日はちょうど花形満が巨人の川上哲治監督作品宛に小包を送り、中身を検めた彼が何やら思案し、はたまた長屋の星飛雄馬宅に新聞の退学記事を見たプロ球団のスカウトが押し掛けた日でもあった。
伴のみならず、星飛雄馬でさえもこの日、運命の歯車がゆっくりと動き始めたことなど露ほども知らぬまま、ただそれぞれに喫茶店を出たところで、はたまた長屋の窓から空に散る星々をじっと眺めているのみだ。