通算
通算 「星ぃ〜!ちょっといいかあ」
伴が捕球の体勢から立ち上がり、キャッチャーマスクを外すと飛雄馬を呼んだ。
「ここじゃだめなのか」
今にもモーションを起こし、球を放ろうとした飛雄馬は出鼻を挫かれ、半ば立腹しながらも伴にそう尋ねる。
伴の声は二十メートル近く離れたここからでも十分聞こえる。わざわざ近くに寄ってまで話すことなどあるんだろうか、と飛雄馬は足元の土をスパイクで蹴散らしつつこちらに駆け寄ってくる伴の到着を待つ。
他の選手らは練習が終わるなり早々に帰寮しており、多摩川グラウンドに残っているのは飛雄馬と伴のふたりだけだ。
球が見えなくなるまで投球練習をしてから帰るのがふたりの日課であり、今日もその予定だった。
しかして何を思ってか伴が練習を初めて間もなく、突然そんなことを言ってきたのである。
「おう、星よう、話というのがな」
「なんだ。手短に話してくれ。時間が惜しい」
飛雄馬は近くまで歩み寄ってきた伴の顔を上目遣い気味に見上げ、彼の返答を待つ。
すると、あろうことか伴は目を閉じ唇を尖らせた格好を取り、いわゆる口付けと呼ばれる行為をしようと迫ってきて、飛雄馬は、伴!と大きな声を出した。
「なんじゃあ。大きな声を出しおって」
まさか怒鳴られるとは思わなかったか伴はあからさまに不機嫌な表情を浮かべた。
「時と場合と場所を考えろ。しかもこれから練習をしようというときに」
「だって今日は一回もしとらんじゃろ。おれは星とちゅーせんとやる気が出んのじゃい」
「ばか……またそんなことを言って」
「ばかとはなんじゃあ!おれは本気だぞい!」
「…………」
これが馬鹿じゃないならなんなんだ、と飛雄馬は呆れ、一度かぶっていた帽子を取ると額の汗を拭い、再びそれをかぶり直した。
「星ぃ、だめか?」
「だめだ!してほしかったらさっさと終わらせて寮に帰ってからだ」
「星は大事な親友の頼みがきけんのか?薄情なやつじゃのう」
「…………」
何が親友の頼みだこんな時に親友を持ち出すなんて卑怯だろう、の言葉を飛雄馬はぐっと飲み込み、今し方かぶり直した帽子を取ると爪先立ちになり、いわゆる背伸びをする。
「ほ、しっ……?!」
そうして、伴の頭に帽子を乗せ、目元を隠すようにひさしを下げてから飛雄馬は背伸びしたまま彼の唇にそっと口付けた。
「ほら、早く戻れ!」
その場にぼうっと呆けたままの伴を突き飛ばし、飛雄馬はその拍子に地面に落ちた帽子を拾い上げ、それを頭にかぶる。
「お、おう……、うぶっ!」
言われ、キャッチャーマスクを元の位置に戻しつつ持ち場に戻ろうとする伴の尻に飛雄馬は球をぶつけ、早くしろ!と怒鳴った。
尻を狙うことはないだろう、尻を!とこれまた怒鳴りつけてきた伴に、飛雄馬はいつものお返しだ、と返し、それにぎょっとなったらしき彼が戻してきたへなへなと頼りない軌道を描く硬球を受け取ると、ふふ、と小さく微笑む。
「今ので二百ってところか」
「そんなに投げたか?おお、いた。尻がみっつになったらどうしてくれるんじゃ」
「ばか、伴の好きなちゅーとやらを今まで通算した数だ」
「えっ!」
驚き、体勢を崩した顔面に飛雄馬の放った豪速球がまともにぶつかり、伴は今度こそその大きな図体を背中から地面に預ける結果となった。
「ば、伴!」
「大丈夫じゃい……ふふ、ちょっと驚いただけじゃい。ほら、投げてこぉい!」
まさかの事態に驚き、伴に駆け寄ろうとした飛雄馬だったが、それを制し、球を返すなりいつもの捕球の体勢を取った彼に気圧され、足を止める。
「……いくぞ、伴!」
「いつでもこぉい!」
地面に転がった球を拾い、飛雄馬は投球モーションを起こすと構える伴に向かってそれを力いっぱい放った。すると、キャッチャーミットのド真ん中で球を捕らえた心地いい乾いた音が辺りに響いて、ふたりは沈みゆく夕日に照らされ、赤く染まった顔を見合わせてニッコリと微笑んだ。