追憶
追憶 冷えるな、と飛雄馬は着ているコートの首元をぎゅっと握り締めた。
電車やバスを乗り継ぎ、当てもなく立ち寄った閑散とした街中。寒さゆえか、道行く人はほとんど見当たらない。
木枯らしが冷たく吹き荒び、世間はもう間もなく正月を迎えようとしている。
飛雄馬はふと、どこかに入って食事でもしようか、と思ったところで街中の寂れた電器屋のショーウインドウに置かれたブラウン管テレビに映し出された映像に目を留めた。伴重工業、と一瞬、見えたような気がしたのは錯覚だろうか。
伴重工業、かつての親友である伴宙太の父が経営していた会社がそう言った名前だったような気がする、と飛雄馬は食い入るようにテレビ画面を見つめた。
本人の意志で巨人軍に入団したとはいえ、息子を野球界に引きずり込んだおれを、伴のおやじさんは快く思っていなかったようで、一度たりとも銀座にあるとかいう会社を飛雄馬自身、訪ねたことはなかった。
しかして、コマーシャル映像の中のビルは相当大きなもののようで、あれからぐんぐんと業績を伸ばし現在の重工業と名乗るまでになったであろうことは飛雄馬にも容易に想像できた。
あれから数年。伴と花形、そしてとうちゃんはおれが担ぎこまれた病院から姿を消して程なく、引退したと言うのを聞いた。
そして姉もまた、懇意となっていたらしき花形と結婚したというのも風の噂で知った。おれだけが取り残され、おれだけが前に進めないでいる。
皆それぞれに前を向き、紆余曲折ありながらも生きているというのに、おれだけがどうしてもあの日で時間が止まったような気がしてしまっている。
飛雄馬は顔を左右に振り、テレビの画面が別の番組に切り替わったのが分かると、再び歩き始める。
ああ、それでもあの男が、おれのために自分の人生、青春までをも犠牲にしてくれようとした伴宙太が自分の道を真っ直ぐに歩いて行ってくれていたらそれでいい。
花形に打ち取られ、自暴自棄になって繰り出した街中で新宿のお京と呼ばれていた彼女と左門豊作との一件の後、おれを奮い立たせるために訪ねてきてくれたあとは言葉も交わしていない。
日本のベーブ・ルースになれる、と言われ、中日にトレードされた彼がおれの大リーグボール3号を見事打ち据えた後はほとんど活躍らしい活躍もしていない、というのはなんという皮肉だろうか。
ひょっとすると、おれの左腕が壊れなければ彼も野球界を去ることはなかったのかもしれない、それこそベーブ・ルース顔負けの活躍を見せていたかも知れぬ。
それに、あの伴宙太のことだ、おれの左腕が再起不能になってしまったことを気に病んだりはしていないといいが。
ああ、それにしたって、どうしてこうも伴のことばかり考えるのか。テレビを観てしまったこともあるのだろうが、この人恋しくなる寒さのせいだろう。
いつも暑苦しくグラウンド上だろうが何だろうが抱き締めにやって来てはおれを励まし、共に苦しみ、一緒に泣いてくれた彼。 伴宙太と言う存在がなければ、球質の軽さを他の選手見抜かれた時点でおれの野球人生は終わってしまっていた。
目隠しをさせ、体中に球をぶつけるような形を取ってしまった大リーグボール1号も、舞い上げた土埃のせいで失明させかけてまで編み出した2号も、彼の犠牲のお陰で完成したようなものだ。
勝手に目の前から消えておきながらこんなことを思うのは身勝手も承知だが、おれやとうちゃんに振り回され、辛酸を嘗めた伴が、どうか今、幸せであってほしいと思う。今日は一段とひどく冷える。彼と一緒にいたときは、こんな寒さなど一度たりとも感じたことはなかった。
失って知る有り難みや幸福を、ここまで実感させられることというのが果たしてあるだろうか。
飛雄馬は鼻を啜り、暖を取るためにどこかの食堂に入ろう、と歩調を速めた。
すると雪がちらつき始めて、飛雄馬は頭上を仰ぐ。空を見上げ、舞い降りる雪を目の当たりにしてまだプロ入りしてすぐの頃、長島さんを見倣って山篭りした際、孤独に耐え兼ね滅入っていたときに伴がやってきてくれたことを飛雄馬は思い出して、そのままぐっと唇を引き結んだ。
もうおれは一人で生きていくと決めたはずなのに、ふと蘇るあの声色、己を抱く腕の強さ、肌の感触を思い出して感傷に浸ってしまう。会いたいだなんておこがましい。 どの面下げて会いにいけと言うのか。
飛雄馬は再び首を振り、コートの首元を強く握りしめると、雪の僅かに積もった舗装された歩道を足早に踏み締め、行き先の当てもないまま、先を急いだ。