友達
友達 伴は授業と授業の合間の休み時間に次の理科室での実験に向けて廊下を一人歩いていた。
彼が身を置く柔道部ではそれなりの実力があるがゆえに、主将、主将と部員たちに持て囃されていたが、ひとたび、柔道の畳の上から離れてみればPTA会長の息子と言うことに加え、日頃の傍若無人さゆえに周りからは距離を置かれている。
この伴宙太がやること為すことすべてクラスメイトだけでなく教師たちもなに一つ咎めることなく褒め称える。
そのおべっかを遣う様がどうにも薄気味悪く、その度に虫酸が走るような感覚に伴は襲われた。このまま高校を卒業して、親父の経営する自動車会社に就職して、順風満帆な何不自由ない、すべてが何もかもが思い通りになる人生を歩むのだろうか、と伴はずっと思っていた。
あの日、あのばばっちいチビに出会うまでは――。
ふと、伴は前からやって来る人物に何やら見覚えがあるような気がして目を細める。するとどうだ、廊下の端から来たるは例のチビ――星飛雄馬ではないか。
体重などおれの半分ほどしかないであろうこの小柄な男が投げる球にこの伴宙太はきりきり舞いさせられている。
胸ぐらを掴んでエイヤッとばかりに投げやれば、軽く部屋の端から端まで飛んでいきそうなこのチビが投げる野球の球はめっぽう速い。恐ろしいほど速い。思い出しただけで震えが来そうなほどに。
野球など初心者のおれ目掛け、この星飛雄馬という男は一切の手加減を加えることなくその左腕を唸らせる。
あの日、うさぎ跳びでグラウンドを周れと言った日、二人フラフラの状態でホームベース周辺に倒れた日。握りあった手の温かさ、その野球に対する厳しさ、ひたむきさ、真剣さに感動さえ覚えた日。
あれからおれはやつの――星飛雄馬の球を捕ると決めた。毎日、放課後柔道着のままピッチャーミットを手に構える。部員皆はやつらは馬鹿だ、気が狂っとるだの、今に伴応援団長の柔道が火を吹くと言うがそうじゃない。
星飛雄馬の野球に対する真摯なあの熱い瞳におれは惚れたのだ。
ゴクリ、と伴は唾を飲んで前から廊下を歩いてやって来た飛雄馬とすれ違う。
何やら一言掛けてくれるだろうか、と僅かに期待の念さえ抱いた伴だったが、飛雄馬は一瞥もくれることなく去っていく。
無論、それが当たり前であろう。学年も違えば、あれだけしごきまくってやったのだ、憎まれこそすれ友好的な態度など取ってくれよう筈もない。
「ほ、星ぃ!!」
思わず伴の口から声が出た。
あまりの声量に呼ばれた飛雄馬だけでなく廊下を歩いていた他の生徒らも立ち止まり、振り返った。青雲高校で伴宙太を知らぬ者はいない。すなわち野球部での一連の騒動も全校生徒皆知っている。
一触即発、触らぬ神に祟りなしとばかりに周りの雰囲気がピンと張り詰め、歩むのを止めた飛雄馬のそばに大柄の体を揺らし近寄る伴の顔を皆肩をすくめ怯えるような表情を浮かべ仰いでいた。
「星ぃ!!きさま、耳はついちょるのかあ!呼んどるのじゃから返事くらいせんかあ!」
叫びながら伴は飛雄馬の左肩を掴んで、ぐいと引き寄せてからその顔を睨み付ける。
「…………」
一度目を伏せてから飛雄馬は凛とした視線を伴に向ける。あの目、あの、マウンドに立って相手を射殺さんばかりに気を張り、一分の隙も見せないあの瞳の色。
ぞうっ、と伴の背筋に冷たいものが走る。今まで幾度となく柔道の試合を行い、それこそ熊のような大柄な相手と対峙したときもここまで恐怖は感じなかった。
むしろ完膚なきまでに組み伏せてやる、とそう言った気持ちの方が強かった。けれども、今まで見たこともない、この瞳は違う。
「ぐ、ぅっ………」
伴は飛雄馬の肩を掴む手に力を込めるが、彼は眉一つ動かさず伴を見上げている。
「呼び止めたのは応援団長だろう。何か用があるのならさっさとしてくれないか」
「あっ、あっ!きっ、きさまあっ!!」
顔を真っ赤にして伴が叫んだもので、ひぃい!!と周りの生徒らから悲鳴が上がった。
「肩を壊そうとでも?」
「ばっ、馬鹿をぬかせ!!この伴宙太そんな卑怯なことはせんわい!!!!ほっ、放課後、顔を洗って待っちょれい!!」
捲し立て、伴は飛雄馬から手を離すとくるりと向きを変え、どすどすと足音を響かせ理科室へと一人向かった。
飛雄馬は己に視線を遣りつつ、ヒソヒソと互いに耳打ちし合う生徒らを尻目に掴まれた肩を手で払うと、彼もまた前を向き歩き出す。と、授業開始のチャイムが鳴る寸前で伴はギリギリ理科室へと入った。
もちろん、言うまでもなく授業などうわの空で聞いてなどいない。最近の伴の脳内は先程廊下でやり合った星飛雄馬一色だ。
早くあの球を捕りたい。早く星に会いたい――会いたい?
頬杖をつき、ぼんやり考え事をしていた伴だが、ガタン!と椅子を倒して、派手な音を教室中に響かせつつ立ち上がった。
「あっ、いや、皆、すまん」
へらへらと伴は笑みを浮かべ形ばかりの謝罪をしたが、クラスメイトたちや教師は何を言うでもなく、中断された続きから授業を開始する。
会いたい、だなんて。さっき会ったばかりなのに。どうしてこんなことをおれは思うのだろうか。どうして。
惚れたのは野球に対する星の姿勢であって……いいや、何より男の自分が男に惚れるなんてそんなことあり得るのだろうか。 あの球が捕れたら、もし捕ることが出来たら、星とは友達になれるだろうか。
友達かあ、と伴はふふん、と鼻歌よろしく笑みを溢してグラウンドに面する窓の外に視線を遣る。
そうして、綺麗に整備された野球のダイヤモンドを見下ろしつつ、伴は脳裏に浮かんだ星飛雄馬の顔にニンマリと笑んでみせた。