投球練習
投球練習 「よし、あと10球」
ズバン!と伴の構えるキャッチャーミットに見事球が飛び込んだ軽快な音が響いたと同時に、飛雄馬はそんな言葉を吐いた。
「ま、まだやるのかあ」
キャッチャーマスクを額まで上げつつそんな弱音を吐いた伴を飛雄馬は睨みつける。
「嫌なのか」
伴が投げて寄越した球を右手のグラブで受け取り、飛雄馬は再びその左手から空気を切り裂く豪速球を伴のミットへと投げ込んだ。ビリビリと飛雄馬の球を受けた伴の右手が痛むが、そんなことは微塵も感じさせずに伴は飛雄馬へと返球する。
辺りも薄暗くなりつつあり、球が段々と見えなくなってきていた。
「あと9」
背中がびっしょり濡れるほど汗をかいた飛雄馬は球を握った左手で額の汗を拭ってから、目の前の男を睨むと、投球モーションを起こす。じっとしていると汗が冷え、途端に寒気が全身に走る。
パーンと言う小気味いい乾いた音を聞きながら飛雄馬は一度帽子を脱ぎ、これまた濡れた髪を手で撫でつけた。
「星ぃ、行くぞい」
「ああ」
帽子を被り直して、飛雄馬は伴からの投球を受け取る。あと8球。
「しかし、冷えるのう。星よ、お前は寒くないのか」
「動いていれば寒くはないさ」
「そ、そうかのう。へ、へーーっくしょいっ!」
伴が豪快にくしゃみを放ったのと飛雄馬が投球モーションを起こし、その左腕から球を投げやったのがほぼ同時で、しまった!と飛雄馬は慌てて彼に駆け寄るが、その嫌な予感は見事的中し、捕球体勢を崩していた伴の頬にガァンと行った。キャッチャーマスクのお陰でもろにぶつかることはなかったが、飛雄馬の放つ速球がぶつかる衝撃は凄まじいものがある。
「おうっ!!」
痛みと衝撃でフラフラとその場に手をつく伴に飛雄馬は彼の名を呼びつつ慌てて駆け寄った。
「伴!ばーん!!大丈夫か!!すまなかった」
「いっつつ……はは、星、おれの方こそすまなんだ。急にくしゃみなんぞしたおれが悪いんじゃから星が謝ることはないぞい」
夕日が地平線へと沈む中、へらっと笑みを浮かべた伴の頬はマスクが当たり、擦れたか僅かに血が滲んでいる。
飛雄馬はその姿にハッとなり、唇を引き結んでから、「もうやめよう」とやっとのことで開いた唇でそう、小さく囁いた。
「な、なんでじゃあ?あとたった8球じゃないか。ほれ、はようせんと日が完全に沈んでしまうぞい」
「伴、お前、怪我をしている」
「怪我?ああ、ええんじゃこんなの。さあ、はよう」
「もういい。早く帰って傷の手当をしよう」
「星!なんじゃい!言い出したのはお前じゃないか!!それがたったこれくらいのことで手を引くなんぞおかしいじゃろう!!」
「しかし、もし顔に傷でも」
そう言った飛雄馬の言葉に伴はプッ!と吹き出し、はははと高らかに笑い飛ばす。
「この伴宙太の顔の心配をしてくれるか星よ。ワハハ、面白いやつじゃのう。ほれ、あと8球!おれの顔の心配してくれるのならとっとと終わらせるが吉じゃい」
真剣に心配したと言うのに笑い飛ばされ、飛雄馬は些かムッとしつつ足元に転がっていた球を拾うと、ピッチャーマウンドまで引き返した。そうして、構えた伴のミットの中に球を投げ込むこと8回。
この日、己に科した投球数を無事こなした飛雄馬は伴の元に歩み寄り、ふう、と溜息を吐いて額の汗を拭ったまではよかったが、みるみるうちに全身に悪寒が走って、彼もまたクシュン!とやった。
「……汗が冷えたんじゃろう」
「……帰ろう。付き合わせて悪かった」
飛雄馬は鼻を啜ると、ベンチに置いていたグラウンドジャケットを手に取る。
腕を通し、前のファスナーを閉めたところで、両肩に再びふわっとグラウンドジャケットを掛けられ、飛雄馬は捕手の装備をひとつひとつ取り外している彼を見遣った。
「伴?」
「ははは、おれの代わりはいても星の代わりはおらんからな。肩、冷やすなよ」
「し、しかし伴もくしゃみをしていただろう」
「おれは座って星の球を受けとっただけで汗はかいとらん。さっきは鼻がムズムズかただけじゃい」
「…………」
飛雄馬は肩に掛けられた伴のジャケットに腕を通し、ぶかぶかの長い袖の先から指をちょこんと出した。
「おれにはちときつくなってきたが星には大きいのう。ワハハ!ほら、帰ろう。門限に遅れるとうるさいぞい」
ほのかに伴の匂いが羽織るジャケットからは漂って、飛雄馬は目の前の彼を仰ぎつつ、クスリと笑みを溢す。
伴のジャケットの肩の位置は飛雄馬の本来の場所から大幅にズレ、丈も尻を完全に覆うほどだ。
「伴」
「今日の夕飯はなんじゃろうなあ。あったかいめしが食いたいのう」
言いつつ、ベンチから離れようとする伴の左手を飛雄馬がふいにぎゅっと握った。
「な、ほ、星!?」
「こうすれば、少しはあったかいだろう」
「………!!」
あったかいどころの話ではなく、握られた伴の左手はかっかと汗ばみ、次第に体がかあっと火照っていく。
「伴、いつもすまないな……」
とっくに塞がったはずの先程の傷が変に痛み出し、伴は首を振る。
「あ、謝られるようなことはしとらんぞい」
「………」
ぎこちない足取りで先を行く伴に歩調を合わせ、二人はタクシーが通るような道までほんの少しの間だけ手を繋ぎ、歩くことにした。時折木枯らしが吹いて、二人の頬を撫でたが、寒さなどは互いに微塵も感じることなく、触れ合った手指から伝わる互いの体温に顔を綻ばせる。
飛雄馬は羽織るジャケットの前を合わせ、その襟に口元を寄せると鼻から息を吸う。それから、隣を歩く彼の頬の傷をじっと仰いでから、飛雄馬は目を細める。
握られた手に篭もる力が変に強くて、飛雄馬はなんだか泣きそうになりつつ、その手を握り返した。