遅刻
遅刻  完全に寝過ごした、と飛雄馬はコートを引っ掛けマンションを飛び出した。練習休みの日。伴と食事でも行こうか、と明日何時に集合な、と言って別れたのが昨夜のこと。
 まだ約束の時間までは余裕があるなと思いつつソファーに寝転がり、飛雄馬は姉の明子と話し込んでいたつもりがいつの間にか寝ていたらしかった。
 はっ、と目を覚まし時計を見上げたところ約束の時間をとうに過ぎている。エレベーターを待つのも煩わしく、飛雄馬は階段を駆け下りる。
 とんでもないことをしでかしてしまった。もうとっくに伴は帰ってしまっているだろうなと飛雄馬は半ば諦めの心境で待ち合わせ場所へと向かう。逆に待っている方がおかしいのだ。
 マンションにいる間は気付かなかったが、一歩外に出てみれば雨が降っている。飛雄馬は灰色の空、しとしとと雨を降らす忌々しい雨雲を一度見上げ、傘を取りに帰ろうかとも思ったが、そのまま駆け出した。冷たい雨が頬を刺す。
日が落ちれば一気に気温が下がり肌寒くなる季節。そうでなくとも雨が降れば冷えるというのに。
 飛雄馬は穿くスラックスの裾や靴が雨に濡れ、泥に汚れるのも構わず走った。美味い飯屋があるからと言った伴が指定した目当ての店にほど近い場所にある公園。
 飛雄馬は全身濡れ鼠になって、はあ、はあと荒い呼吸のまま公園の出入り口に足を踏み入れる。公園の中ほどに立っている設備時計の下、もう夜も深い時間帯と言うのにそこに立つ人影を見付け、飛雄馬はそちらへと歩み寄った。
 伴じゃない。いや、そうあってほしい。とっくに巨人軍宿舎に帰っていてほしい、と飛雄馬は願った。
「おう、星ぃ。遅かったのう」
 しかして、嫌な予感ほど的中するもので声と共にのっそりと設備時計の柱に凭れ、立っていた伴が顔を上げた。
「……」
 雨の降り注ぐ微かな音だけが響く。飛雄馬は顔を滴り落ちる雨垂れを拭うことなく伴を見た。伴も何も言うことなく飛雄馬を見ている。
「……今まで待っていたのか?とでも言いたげなツラじゃのう。ふふ、待っとったぞ。ずっと」
「なぜ……?約束の時間、とっくに過ぎてるじゃないか」
「なぜって、そりゃあ約束したからじゃわい。星は約束を破るような男じゃないことはおれはよーく知っとる。よっぽど迎えにでも行ってやろうと思ったが入れ違いになるといかんからな」
 そう言うと、伴はいつもの豪傑笑いでがははっ、とやった。
「……それはそうと、何かあったのか?星が待ち合わせ時間に遅れるなどよっぽどのことが」
「……寝過ごした」
「なにぃ?」
「ねえちゃんと、話している内にいつの間にか……起きたらとっくに時間を過ぎていた」
「……」
 言いながら飛雄馬は徐々に視線を下げていき、終いにはがっくりと頭を垂れた。一発殴られる覚悟など出来ている。
 しかしてどうにも申し訳が立たず、飛雄馬は今にも泣きそうなのを堪えて、強く拳を握った。
「星よ、正直に話してくれてありがとうよ。もしやおまえの身に何かあったのかと、事故にでも遭っとりゃせんかと気が気でなかったが安心したわい。よかった」
 にこにこと笑みを浮かべて、伴は両手を広げ飛雄馬の元にやって来るが、自身も全身ずぶ濡れなことに気付いて、ハッと両手を引っ込めた。
「伴!」
 けれど飛雄馬はそんなことは諸ともせず、ぎゅうっと伴に抱き着いて、そのびちょ濡れの胸に顔を埋めた。
「ほ、星よう!」
「すまなかった。そしてありがとう」
「……」
 雨は尚も降り続く。
 伴は己の腕の中に飛び込んできた飛雄馬の小さな体を自分もまた抱き締めてやってから、そっと体を離して彼の唇に音もなく口付けてやった。
「うっ、冷たっ……」
「ほ、星が待たせるからじゃあ!っ、くしょいっ!!」
「ふふ、ひとまずうちに来るといい。濡れたままでは食事どころではないだろう」
「え、ええんかのう。こんなにびちょびちょのまま星の家に行って、明子さんに嫌われんか」
「なに、裸は晒すことになるかもしれんがねえちゃんはそれくらいじゃ人を嫌いになったりはせん」
「なに、裸を?」
「脱がんと乾かせんじゃないか」
「あ、あ〜?」
 雨に打たれたまま、伴が明子の前でパンツ一丁になる姿を想像し顔を火照らせたもので彼の脳天からは湯気があがった。ぷぷっと飛雄馬は吹き出してから、とりあえず行こう、と伴の手を握った。
「う、むっ……」
 あまり乗り気ではないようだが、飛雄馬に腕を引かれ伴はぬかるんだ地面を踏み据え彼の後をとぼとぼと着いていく。
「しっかし、憎たらしい雨じゃのう。天気予報大ハズレじゃい」
「そんなこともあるさ。ふふっ。さあ走れ。走ると体も暖まるしこのままぶるぶる震えてうちに向かうよりはいいだろう」
「お、おう」
 ばしゃっ、と二人水溜まりを踏んで駆け出す。この待ち合わせ場所としていた公園から飛雄馬の家はそう離れてはいない。
 この格好で家に帰ればねえちゃんきっと驚いて目を丸くするだろうな、と飛雄馬はまたしてもふふっと吹き出して、後ろを着いてくる伴をちらりと見遣った。
 なんていいやつなんだろう。こんな雨の中待ってくれていただけでなく、おれを咎めることもしないなんて……
 飛雄馬は頬を滑り落ちる雨とは違う熱い水滴を腕で拭って、家までの道のりを懸命に走った。
 家ではこうなるであろうことを予想してタオルと温かい夕食を用意して待っていてくれていた明子に、ようやっと全身ぐちゃぐちゃで飛雄馬のマンションに到着した二人それぞれに礼を言って、面目ないと伴は頭を掻いたし、飛雄馬はごめん、ねえちゃんと頭を下げたのだった。