立ち位置
立ち位置 誰かが玄関口の公衆電話で話をしているな、と楠木は徒歩での帰り道中、寮の建物の中の様子を伺う。
入院している弟、正夫の見舞いの帰り。
出入口の扉の反射のせいでこちらからは誰であるのか判別がつかない。
おれもたまには、親父に電話の一本でも入れた方がいいのかもしれんが、今はどうしてもそんな気になれず、手紙の返事も書かずじまいのままだ。
楠木は郷里でひとり、広い屋敷に住まう年老いた父のことを頭に思い浮かべながら、ようやく辿り着いた寮の扉を開ける。
すると、受話器片手に何やら話し込んでいる彼──星飛雄馬もまた、楠木の気配に気付いたか、一瞬、視線を出入口へと向けてから、また連絡するから!と言い切るなり電話を切った。
受話器を叩きつけるようにして電話を切った星が、あまりに彼らしくなくて、おれは思わずその場に固まってしまうこととなる。
「あ……楠木さん、お見苦しいところを……」
申し訳なさそうに星がはにかみつつ、笑顔を見せてくれたことにおれは安堵しながら──どうした?と尋ねた。あの温厚な星が、電話を叩き切るような相手とは誰なのだろう、と純粋に疑問だった。
野球のこととなると人が変わったように厳しく、そして一切の妥協を許さない彼だったが、普段は己のことなど後回しで、他人のことを思いやり、気遣う優しい人間なだけに、尋ねてみたくなったのである。
「……いえ、何でもないんです。すみません。楠木さんこそ弟さんの見舞いですか?経過は順調ですか?」
「ん、ああ。お陰様でな。星にも会いたがっとったぞ」
「でしたらぜひ、次はご一緒させてください」
「…………」
部屋に戻りましょう、と続けた星の表情がどことなく寂しげであるのが気に掛かる。
先程の雰囲気から察するに、恋人と喧嘩でもしたのだろうか。しかし、星に恋人か。
野球以外のことに興味などなさそうなのに、意外と隅に置けないものだ。
口数少なく寮の二人部屋に向かい、先を歩いていた楠木が扉を開ける。朝練を終え、出て行ったままの風景がそこには広がっている。
楠木は羽織っていた上着を脱ぎ、ベッドの上へと放ると、おれでよければ話くらいは聞くが、まあ、何の解決にもなりはせんかもしれんがな、とわざとおどけてみせた。
「いえ、大したことではないんです。大したことでは……長い付き合いの友人からの食事の誘いだったんですが、今はどうしてもそんな気にはなれないと言うのに、どうしても、と言われてしまって」
友人、か、とどこかホッとした自分がいて──楠木は胸にチクリとした微細な痛みを覚えつつ、行ってやったらいいじゃないか、とその、名前も、顔も知らぬ友人、とやらの肩を持つような言葉を発した。
「今は野球に専念したいんです。ノーコンを直すのが先だと思っています」
「ふむ……」
「その長い付き合いの友人と言うのが高校時代、バッテリーを組んでた相手なんです。野球のことについては彼もわかっているはずなのに、それもまた腹立たしくてついついあんな物言いに……」
「そういうことか。それはその友人とやらが考えなしすぎるな」
楠木はベッドの端に腰掛け、目を閉じると腕を組む。 そういえば、風の噂に聞いたことはある。
星の親父さんが三塁コーチを務めていた中日にトレードされ、星とは一時、敵対関係となった親友の話を。
親父さんや星の義理の兄にあたる花形と共に、星が行方不明になってすぐ、球界から身を引いた彼は、名前は何と言ったか。
今は実父の興した企業で役員として働いているなんて話も耳にしたが、遠い田舎の古い一軒家に年老いた父をひとり残すおれからしてみれば、羨ましい話である──いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
「楠木さんもそう思いますか。まったく」
呆れたようにぼやく声に楠木は目を開け、まあ、あちらさんは星のことが好きなんだろうさ、と笑い声を上げてから、近くに佇む彼の顔を仰ぎ見た。
するとどうだ、見上げた星の顔は、驚いたような表情を浮かべていて、楠木はまさかのことに目を見開く。
変なことを言うのはよしてください、とばかりにたしなめられるかとばかり思っていたが、こんな顔をされてしまっては、嫌な考えが頭の中を巡る。
「その、長い付き合いだという友人とは、星の恋人か?」
「…………まさか、いやだ、やめてくださいよ楠木さん。悪い冗談は」
驚き、固まっていた星の顔にはすぐさま、いつものように柔和な笑みが浮かび、楠木は眉間に皺を寄せると、唇を引き結ぶ。
星はうまく、はぐらかしたと、思っているかもしれんが、伊達におれの方が長く生きてはいない。
別に、星が誰とどう付き合っていようとも、何をしていようともおれが口出しできることではない。
ただ、無性に、寂しいのだ。
おれは弟の話を、父の話を、今まで誰にしたこともなかった。星だけには話しておきたかった、知っていてほしかった。おれという人間を、星には知ってほしかったんだ。
「…………」
「楠木さん?」
「あ、すまん。何か言ったか?」
「……楠木さんこそ何か悩みがあるのでは?顔色が悪いですよ」
言われたものの、星の顔がまともに見られず、楠木はついと顔を背ける。
逸らした横顔に向けられる星の視線が痛い。しかし、それ以上に、胸が変に痛む。
星は、たまには息抜きも大事だぞ、女房役のおれが許すから、その友人とやらと会ってこい、と言えば、素直に頷くだろうか。
それとも、先程言ったとおり、今はノーコンを直すことに集中したい、と言うだろうか。
「楠木、さん?」
「星、友人と食事に行ってやれ。練習も大事だが、たまには羽を伸ばすこともトレーニングの内だとおれは思う。気心知れた友と大いに語り合ってこい」
「……楠木さんが、そういうのなら」
「おれもたまにはひとりで悠々自適に過ごさせてもらうさ。ハハハ、楽しんでくるといい」
「すぐ、帰りますから。そうしたら、練習、付き合ってくれますか」
「ああ。気が済むまで付き合ってやるさ」
楠木は目を細め、唇を笑みの形に歪める。
行くな、と言えたらどんなにいいだろう。
自分から行くように仕向けておいて、おれは自分との練習を選んでくれることを望んでいたし、真面目な星ならそう言うだろう、と高を括っていた。
けれども、星の口を吐いたは予想外の言葉であり、おれはただただ、彼を笑って送り出すことしかできない身と成り果てた。
ちょっと、電話をかけてきます、と部屋を出ていく星を楠木は見送り、自分のお人好し加減にほとほと困り果て、また、己の胸をふいにチクリと刺す痛みに気付かぬふりをして、ひとり残された部屋で、郷里に残してきた父のことを思い出していた。