建前
建前 「それじゃあ、ねえちゃん。また」
「遅くまでお邪魔しましたわい」
花形邸の玄関先にて、飛雄馬と伴は見送りに来た屋敷の主とその妻に小さく頭を下げた。
「ええ、またいらしてちょうだいね」
「飛雄馬くん、少し、いいかね」
このまま、伴と共に屋敷を去ろうとした飛雄馬だったが、屋敷の主──花形に呼ばれ、はたと足を止める。 それから、伴と顔を見合わせ、すまんが、先に帰ってくれ、と彼に帰宅を促し、今度は花形の傍らに立つ姉──明子の顔を飛雄馬はじっと見つめた。
「私も、席を外した方がいいかしら」
「そうして貰えると助かるが」
「…………」
一瞬の間の後に、伴が玄関から出て行き、明子が履いているスリッパの音を、軽快に響かせながら廊下の奥へと消えていく。
しんと辺りは静まり返り、玄関先に残った飛雄馬と花形は無言のままに互いの顔を見つめ合った。
伴の屋敷に、花形夫妻から夕食会の招待状が届いたのが、つい一週間前のことになる──。
星飛雄馬くんもぜひ、と手書きでメッセージの書き加えられた招待状を伴は不審がったが、飛雄馬はたまには顔を見せに行くのもいいのではないか、と彼の心配性の性格を笑い飛ばし、ぜひ参加させてもらおうじゃないか、と電話口でそう答えた。
無理をせずとも良い、と伴は最後まで言っていたが、始まってみれば、久しぶりに姉の手料理に舌鼓を打ち、時折、酔った伴の独演会を交えながら楽しいひとときを過ごすことが出来たのだった。
今、この瞬間、花形に呼び止められるまでは。
沈黙を破り、先に口を開いたのは飛雄馬の方で、何ですか、と淡々と尋ねた。
「用、という程のこともないがね」
履いていたスリッパを脱ぎ、玄関先に揃えて置かれていた靴の中に足を滑らせつつ、花形が答える。
「…………」
「そんなに、うちをひとりで訪ねるのは嫌かい」
靴を履いた花形が、飛雄馬との距離を縮めつつ、そう問い掛けた。
「伴と一緒では不満とでも?」
飛雄馬は、幾度となく花形本人から、あるいは姉・明子から屋敷を訪ねるよう打診を受けていたが、すべて固辞している。
今や他球団の選手となった義兄の屋敷をひとりで訪ねるのは気が引ける、たったそれだけの理由であった。 それは、阪神時代の花形がそうであったように、いくら義理の兄弟になったとは言え、個人的な付き合いをしない方が、試合に余計な雑念を交えず済むであろう、と。私生活においては、他球団の選手同士、交流がある者もちらほら見受けられるが、飛雄馬は己の性格ではそう上手に割り切れないとわかっているからこそ、今に至るまで断り続けてきたのであった。
「なに、来てもらえるだけありがたいさ。改めて礼を言うよ、飛雄馬くん。明子も喜んでいた」
「それはよかった。これからも機会があれば伺いたいと思っていますよ」
「本当に?」
冷ややかな花形の言葉が、飛雄馬の取り繕うように浮かべた微笑みを凍りつかせた。
「…………」
「伴くんは嫌なら断ればいいとそう言っていたんじゃないかね。彼の顔を立て、今日のところは訪ねてみたが、出来ればもう二度と足を踏み入れたくない。フフ、そんなところかな」
「邪推しないでもらいたい。今までは予定が合わなかっただけだ。訪ねたい気持ちは十分にあったし、なかなか顔を出せず申し訳ないとも思っている」
「それじゃあ、次はいつ来てくれるかね」
「つ、次の予定など……わかるわけないだろう。花形さんだって、同じプロ野球界に籍を置く身なら、先の見通しが立たないことくらい……」
気が付けば、花形との距離は目の花の先まで迫っており、飛雄馬は彼から逃れるように後退ると、玄関の扉に背を着く。背中に感じる冷たい扉の感触に、しまったと歯噛みしたものの、この状況の打開策など考える間もないままに花形の唇によって飛雄馬は口を塞がれる。逃れるべく、よじった体を抱かれ、飛雄馬は背中に回った花形の腕──その二の腕へと縋る。
「う、っ……よせ、ぇっ……」
喘ぐように拒絶の言葉を飛雄馬は吐くが、漏らした吐息ごと唇を塞がれて、絡められた舌に体を戦慄かせた。背中を抱く花形の手が、ゆるゆると腰へと下って、飛雄馬の尻を撫でる。すると、一際、飛雄馬の体が大きく跳ね、花形がフフッ、と愉快げに笑い声を上げた。
「部屋に行こうか」
「断る……これ以上、妙な真似をするなら、っ……ねえちゃんを呼ぶぞ」
「二言目にはきみはそう言うがね、ぼくは飛雄馬くんの意思を確認している。明子のことなど気にする必要はない」
「二度、っ言わせないでくれ」
「…………」
花形の、飛雄馬の尻を撫でていた手が前へと回り、何のためらいもなくベルトを外すとスラックスのファスナーを下ろしていく。
「な、にをっ……あなたはっ、!」
驚き、引けた飛雄馬の腰を追うように花形ははだけたスラックスの中へと手を差し入れ、下着の上からやや膨らみつつあった男根を撫でさすった。
じわりと飛雄馬の下腹部はその刺激で熱を持ち、徐々に首をもたげ始めていく。
「直に触れてもいいかね」
「い、いやだ……馬鹿な真似はよせ、っ……」
途切れ途切れに言葉を紡いだ飛雄馬の唇は、再び花形によって塞がれたばかりでなく、そのまま下着の中へと滑り込んだ彼の指は男根へと刺激を与える。
「脱ごうか。下着が汚れてしまうよ」
「手を、離せっ……うぅっ」
「口ではそう言うがね、見てごらんよ。自分の目で」
「誰がっ……見る……ん、ン」
花形の手が、敏感な男根の先を執拗に責め立て、飛雄馬は大きな声を上げた。男根を擦る、湿り気を帯びた耳を塞ぎたくなるような音が辺りには響いて、飛雄馬は扉に背を預けたまま、己の両手で声を漏らしまいと口元を押さえる。足は震え、立っているのがやっとという状態であった。
下着は足の付け根辺りまで引き下ろされ、完全に男根は露出している。支えを失ったスラックスはとうに足下に落ちており、ベルトのバックルが飛雄馬の足の震えに共鳴するかのように金属音を鳴らし続けている。
「後ろを向いて、扉に手をついて」
いやだ、と飛雄馬は首を振り、次第に込み上げてくる射精の感覚に抗うべく奥歯を噛む。
「明子のことがそんなに気になるかね」
「ふ、っ……ぅう、ぅ……」
「…………」
ぬるぬると先走りに濡れた花形の手が、飛雄馬を射精に導くべく、その速度を速めた。
「っ────〜〜〜!!」
眉間に皺を寄せ、奥歯を強く噛み締め、声を堪えながら飛雄馬は遂に花形の手の内に精を放つ。
どくどくと脈打ち、花形の手を白濁に濡らす感触に飛雄馬は目を背け、唇を引き結んだ。
すると、突然に背中に衝撃が走って、飛雄馬はハッと目を開ける。
「明子さぁん、すみません。星と花形はまだ取込み中ですかのう。待てど暮せど星が心配になってしまって、わし、そのぅ…………」
「チッ、間の悪い」
「…………」
助かった、と飛雄馬は扉の向こうから聞こえた親友・伴の声に気が緩んだか、両の瞳がじわじわと涙で潤んでいくのを感じる。
悪態を吐いた花形が着用しているジャケットのポケットからハンカチを取り出し、汚れた手を拭くのを横目に捉えながら、飛雄馬は震える手で下着を元の位置に戻すと、足下に落ちていたスラックスを引き上げた。
ベルトがうまくバックルに留まらず、飛雄馬が焦るのを見てか、花形が、伴へと声をかけた。
「ずっと待っていてくれたのかい。それは申し訳ないことをしてしまったね」
「い、いや、わしの方こそ……すまん」
「少し、待っていてくれたまえ」
明子には伴の声もここからでは届かないのか、駆けてくる足音は聞こえてはこない。
ようやく、衣服の乱れを正した飛雄馬は花形には目もくれず、玄関の扉を開けようとドアノブを握った。
「…………」
「…………」
花形は、何も言わず開けた扉の先に出て行こうとする飛雄馬を見つめており、飛雄馬もまた、花形の顔をちらりと一瞥すると、扉の隙間から身を翻した。
「星……」
玄関扉の向こうにいる親友に、今の出来事を悟られぬよう、飛雄馬は、顔に笑みを貼りつかせつつ、待っていてくれたのか、と尋ねてみる。
「ひとりで帰れるわけなかろう。たったひとり屋敷の中に残されて……心配で堪らんかったわい」
「心配、掛けたな」
伴の安堵した表情を目の当たりにし、飛雄馬は自分もまたようやく体の緊張を解く。
「寮まで送るわい。早いところ帰らんと門限が──」
「伴よ、急な申し出で悪いが、今日はきみの家に泊めて貰うことは可能か」
「は?」
「いや、いい。すまん、何でもない。早く帰ろう」
「ほ、星さえよければ構わんが……」
気恥ずかしそうに、そう言った伴が花形の屋敷前に停めていたベンツに乗り、ふたりは伴の屋敷へと向かう。そうして、出迎えてくれたおばさんへの挨拶もそこそこに、飛雄馬は伴を彼の寝室へと連れ込むと、その太い首へと縋りついた。
明かりもつけないまま、ふたりは唇を重ね合い、互いの体を貪る。背にした畳が汗を吸い、じっとりと肌に纏わりついてくる。
「い、入れるぞい」
伴の断りに、飛雄馬は頷くと、先程まで解されていた尻に、熱いものがあてがわれたことにごくりと喉を鳴らした。
「っ…………!」
狭い飛雄馬の入口を伴の男根が押し広げ、奥へ奥へと突き進んでくる。
「いつにも増して、なんだか中が柔らかいのう」
「っく、ぅ…………」
腹の中をじわじわと侵食する伴の存在に、飛雄馬は背を反らし、声を上げる。
「花形の家で何かあったのか。星が急に泊まりたいなどと……」
根元までを突き入れた伴が訊き、飛雄馬は、何もなかった、とだけ答えた。
「それなら、いいがのう……」
一度引いた腰を伴は飛雄馬の尻へと打ち付け、中を掻き回す。下から腹の中が圧迫され、飛雄馬は苦しさに呻くが、大丈夫だと伝え、伴が気を遣ってゆっくりと行う腰の動きに対し、もっと速くとも伝えた。
「あ、ン、ん……っ」
「何か変だぞい。今日の星は……いつもと……いっ、っ!」
「…………」
伴が大きく震え、飛雄馬の中で達する。
すまん、と小さな声で謝罪の言葉を吐くとそのまま飛雄馬から離れた。大丈夫だ、と答えて、飛雄馬もまた、体を起こす。
「風呂の準備をするから待っちょってくれえ」
「いや、いい。今日はこのまま帰らせてもらう」
暗がりの中、脱ぎ散らかした衣服を手繰り寄せながら飛雄馬は言うと、しかしもう夜も遅いしと引き止めに掛かる伴を残したまま、着替えを済ませるが否や、邪魔したなと部屋を出て行く。
もうお帰りですかと晩酌の準備を手に、廊下を行くおばさんに夜分遅くにすみませんでしたと頭を下げ、薄明かりの灯る玄関先で靴を履いていると、追いかけて来た伴が、また来てくれるか、と今にも泣きそうな顔をして言ってきたために、ああ、また来るさ、とそれだけ言い残し、扉を開けた。
深夜の、冷えた空気が肌を刺す。
「…………」
伴には、悪いことをした。
いや、伴だけじゃない、ねえちゃんにだって……。
軽率に、花形さんからの誘いを受けなければよかった。玄関先で浴びせられた一言、あれは核心をついていた。今頃になって、体に震えが走って、飛雄馬は腕をさすると、伴の屋敷から敷地の外へと出て、街灯だけがぼんやりと光る住宅街を歩く。
真夜中、歩く人の姿はない。タクシーも、この時間では捕まらないだろう。無断外泊、寮長は寮に戻るなりおれをなじるだろう。しばらくは外出禁止だと、そう、彼は言うかもしれない。飛雄馬は夜空に輝く無数の星々を見上げ、唇を引き結ぶと、体をこれ以上冷やさぬようにと駆け出す。似たような光景がしばらく続いたあと、国道沿いの大きな道に出たところで、ゆっくりと車道を走る一台のタクシーを見掛け、飛雄馬はそれを停車させると、己の住まいのある寮の住所を運転手へと告げた。
「巨人の星さんがこんな夜更けに外出とは珍しい。夜遊びですか」
「………………」
「私、昔から星さんのファンでしてね。あなたが今度は長島さんの下で野球をすると知ったときはそれはもう嬉しくて……応援してますよ」
日頃であれば、何か気の利いた言葉を返していた飛雄馬だが、今はその元気もなく、後部座席にもたれ、目を閉じたまま運転手の話をぼんやりと夢うつつで聞いている。
「それで……あのとき……」
饒舌に語る運転手の声を子守唄に、飛雄馬は寮までの短い道のりをしばらく眠ったままタクシーに揺られる。何の重責もしがらみもない、ほんの束の間のひとときに飛雄馬は身を任せ、一時の休息を得た。