七夕
七夕 ちょいと所用で出てくる、と言った伴の帰りが遅い。
飛雄馬は寮の廊下を誰かが歩く足音を聞くたびに、もしや伴では、と扉が開くのを待ち侘びるが、尽く期待外れでがっくりと肩を落とすことを数回繰り返している。ひとりは、何と寂しいことだろう。
それほどまでにおれの中で伴という存在は大きかったのだろうか、不思議なものだ。
七月。六月に入り、梅雨空が続く中でろくに練習も出来ず鬱憤は溜まる一方で、たまの休みに出掛けようにもこう雨ばかりではそんな気にもなれない。
早く梅雨が明けてほしいものだ。
と、また廊下を歩く足音が耳に入って、飛雄馬はベッド上で横になり、読んでいた雑誌を脇に置くと、扉が開くのを待った。
「おうい、星よ、ここを開けてくれんかあ」
伴!と名を呼び、その首に縋り付きたいのを堪えて、飛雄馬は平静を装い扉を開ける。
と、まず目に飛び込んできたのは、伴が手にしていた長さ一メートルほどの笹稈であった。
節からはそれぞれ二、三本の枝が伸び、それぞれに葉を付けている。
飛雄馬はふいに笹から視線を外し、伴の顔を見遣ると、満面の笑みを彼は浮かべていた。
「なんじゃい、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」
「そりゃあ、誰だって笹を持ち帰ったら驚くだろうさ。所用と言ったのはこのことか」
伴にからからと笑われ、飛雄馬は律儀に帰りを待っていたのが馬鹿みたいだ──と些か苛立ちを覚えながらも、しかし、なんのために?と問い掛ける。
「何のため?妙なことを訊くのう、星は。七夕を知らんのか」
「七夕?」
「なんじゃ、星は七夕を知らんのか。その分じゃと織姫と彦星の伝説も知らんと見た。昔々、中国の天帝の娘に織姫という美しく女性と彦星と言う働き者の男性がおってのう……」
「それで、七夕とどういう関係が?」
話が読めず、飛雄馬は尋ねるが、まあ、聞けと伴は七夕伝説について身振り手振りを交え、終いまで語ると、それで願い事を短冊に書いて笹に吊るすようになったそうじゃい、と付け加えた。
「願い事、か」
「親父所有の山に笹が生えとるのを思い出してのう。子供の頃の記憶を頼りに行ってみたはいいが、山の中で迷って参ったぞい」
そう言って、ワハハと笑い声を上げた伴の姿は確かに所々、泥に汚れている。勢いは強くないとは言え、外では雨が降り続いているのだ。
こんな天気の中、伴はわざわざ山の中に笹を取りに行ったと言うのか。短冊とやらのために折り紙まで買って。
「そんなに叶えてほしい夢が伴にはあるのか、雨の中、山に入ってまで」
「星のために取ってきたんじゃい。星には叶えなきゃならん夢があるじゃろう」
「おれの、ため?」
伴の口から発せられたまさかの言葉に、飛雄馬は面食らい、その場に固まる。
そうして、こんな天気の中、馬鹿なことをするものだと一瞬でも思ってしまった自分を恥じた。
そうだ、伴という男はこういうやつだ。変なところでロマンチストな一面を見せる。
「七夕の日は晴れそうじゃい。星の願いもきっと聞き入れてもらえると思うぞい」
「ば、伴は何と書くつもりだ?」
「そりゃあ、ほ……」
「ほ?」
「…………」
「伴?」
言い淀んだ伴を訝しみ、飛雄馬は、どうした?と尋ねる。
「ほ、星が巨人の星になれますように、じゃい」
「ふふ……」
「な、なんで笑う?」
「いや、期待したおれが馬鹿だった」
「期待?」
「こっちの話さ。ともあれ、服を着替えたらどうだ。濡れたままだと風邪をひくぞ」
「それもそうじゃな。シャワーでも浴びてくるとするぞい」
そう言って、笹と折り紙の束を置いていそいそと着替え類を手に、部屋を出て行った伴を見送り、飛雄馬は七夕か、と部屋の壁に下げられたカレンダーを見つめる。七月、言われてみればそんな季節だ。
小学校低学年のときに一度クラスで七夕をやったような気がする。学年が上がるにつれて、それどころじゃなくなって──。
巨人の星になれますように、なんて。
伴はてっきり、おれとずっと一緒にいられますようにと、そう言ってくれると思ったのに。
ふふ、と飛雄馬は吹き出し、ロマンチストはどっちだか、とひとりごちてから、伴が買ってきてくれた折り紙の束の中の一枚を取り出すと、それを三等分に折った。そうして、デスク上の鉛筆立ての中から取り出した鋏で三つに切り分けると、ボールペンで巨人の星になれますように、と書いてから紙の上部にペン先で穴を空け、裁縫用の糸をそこに通す。
枝に吊るすのは、伴が帰ってからにしよう。
飛雄馬は黄色の折り紙に書かれた自分の願い事を眺めつつ、部屋の外で降り続いている微かな雨音に、ひとり耳を傾けた。