七夕
七夕 部屋の戸がノックされ、伴が顔を出す。
飛雄馬は床に座り、ミットの手入れをしつつ、戸口で繰り広げられる会話に耳を傾けていたが、それも数分で終わり、振り返った伴がニコニコと笑みを浮かべていたためにホッと胸を撫で下ろす。
伴の顔を見る限り、舞い込んできたのは悪い話じゃなさそうだ──と飛雄馬が安堵したところで、伴が黒のサインペンと何やら赤色の画用紙を縦20センチ、横5センチ程度に切り揃えたものを1枚手渡して来る。
これは何?とそれらを受け取りつつ、飛雄馬が訊く前に、「今日は七夕じゃろう。寮の食堂に笹を飾って、皆で書いた短冊を吊るすことにしたそうじゃい」と伴がサインペンの蓋を開けつつ笑った。
「カントクの粋な計らいじゃのう」
「しかし、この年になって短冊に願い事を書くというのも不思議だな」
「初心忘るべからずと言うことだろう。プロになった頃、プロを目指した頃のあの謙虚な気持ちと、熱い心を思い出してみい、と言いたいんじゃろう」
なるほどな、と飛雄馬は床に這いつくばるようにして黄色い画用紙を切って作った短冊に何やら書き始めた伴の手元を見遣ったが、視線に気付いたか彼がハッと顔を上げベッドに飛び乗ったもので、目を瞬かせつつペンで頭を掻いた。
七夕って、短冊に、誰に向けて、何を書くんだったっけ──と飛雄馬は父である一徹の顔を思い描き、小さく深呼吸をした。
確か、小学生の頃にもこんな宿題が出たっけ。将来の夢だかなりたい職業だかを題材に作文を書け、なんて言われて、いい大学に進んで安定した職に就きたいなんて書いた原稿用紙を日雇いから帰ってきたとうちゃんにぐちゃぐちゃにされて、野球の名門巨人軍に入るというその一念を貫き通せと言われたんだったか。
人の願いなんて際限なく増長していくもので、ひとつ手に入ったらその先へ、もっと大きな、良いものをとどんどんと膨らんでいく。
自分の目の前にある事柄、物事だけを冷静に見つめて、それで満足して生きていける人なんて世の中にどれくらいいるんだろうか、と、飛雄馬は16の数字が縫い留められた己のユニフォームを見遣る。
念願叶って巨人軍に入団し、今や監督とまでなったかつて打撃の神様と呼ばれていた川上哲治が現役時代に背負っていた番号を譲り受けた飛雄馬は、「巨人の星飛雄馬」と相成りはした。
しかして、ひときわでっかく輝く明星か──と言われると、まだその足元にも及ばぬであろう。
むろん、男と生まれたからには決めた道をひたむきにまっすぐ、時には倒れようとも立ち上がり、生きぬくべきであるが、果たして立ち止まって振り返ったとき、おれ自身の夢というものは何だったのか、と疑問に思わんでもない──。
あの日、とうちゃんに握りつぶされた原稿用紙と共に屑入れに放り込まれてしまった自分自身の本音。
「書けたか?」
ふいに声をかけられ、飛雄馬は遠くにやっていた意識を呼び戻し、いや、まだだと答えた。
「ふむ。そう悩むようなことかのう。星の願い事は昔からひとつじゃろうに」
「………………ふふ、それもそうだ」
一種、飛雄馬は何か言いたげに目を伏せ、唇を引き結んだが、すぐにペンの蓋を取ると、赤い短冊に『球団の中でも、ひときわ大きく光り輝く巨人の星になる』と一気に書き綴った。
「伴は書けたのか」
蓋を閉めつつ飛雄馬が尋ねると、伴は、「書き損じたから別の短冊を貰ってくるわい」と白々しく目も合わせようとせずに短冊をズボンの尻ポケットに押し込んで足早にと部屋を出て行く。
その際、奥まで押し込まなかったか書き損じたらしき短冊がコロリと床に転がって、それに気付いた飛雄馬が伴を呼び止めたが、彼はそのまま廊下へと出ていった。
一体、伴は、何を書いたのだろうか。
大方、毎日腹いっぱいラーメンが食べられますように、とかそんなことだろう、と飛雄馬はなんの気なしにその丸められた短冊を開いた。
しかして、そこに力強い字で書かれていたのは、『星がずっと幸せでいられますように』と飛雄馬自身のことを労うものであったために、飛雄馬はかあっと全身を熱く火照らせた。
ああ、なんだって伴はこんなことをわざわざ書いたのか。もっと、他に、自分のことだって。
じわじわと目の奥が熱くなって、視界が濡れる。飛雄馬は丸められ、皺になった短冊を丁寧に伸ばして、自分に割り当てられたデスクの引き出しにこっそりと仕舞い込んだ。
それから、目元に滲んだ涙を指で拭って、戻ってきた伴に短冊、吊るしてくると言い残し、今度は飛雄馬が廊下へと出た。
下を向けば零れ落ちそうな涙を飲み込むために顔を上げると、窓の外に仰いだ夜空には幾億もの星々の集団が集まり、その様子がまるで川の流れを現しているようなそんな景色が広がっていて、飛雄馬は思わず微笑む。
その拍子に、飛雄馬の瞳に溜まっていた涙の雫が目尻からそっと音もなく、頬を一筋、滑った。