大衆食堂
大衆食堂 どこかで、見た顔だなと飛雄馬はふらりと立ち寄った食堂の日替わり定食を箸で突つきながら斜め向かいのテーブル席に座る青年を目の端に留めた。
寂れた大衆食堂には不釣り合いとも思える身なりの整った三揃えのスーツを纏った彼は、既に食事を終えたのか、新聞を読みつつ湯呑みの茶などを啜っている。
昼飯時を少し過ぎており、客の姿は青年と飛雄馬のふたりのみ。先程まで鍋を振るい、飛雄馬の注文した定食を作っていた店主も今は呑気に咥え煙草などしつつ、テーブル席の天井近くに置かれたテレビに映し出される低俗な番組を眺めている。
どこで見た顔だったか……喉まで出かかっているのにもう一息のところで思い出せない。
冷めつつあるわかめと豆腐、玉ねぎ入りの味噌汁を口に含み、飛雄馬はメインとも言える少し揚げすぎたアジフライを齧ってから茶碗の白米を頬張る。
しばらく、モヤモヤとしながらもそのうち思い出すだろうと飛雄馬が食事を終え、席を立ちかけたところで新聞を眺めていた彼も腰を上げ、あろうことかこちらを見遣ってにやりと微笑んだのである。
その笑みで彼の正体にピンときた飛雄馬だったが、逃げ出そうにも食事の勘定をまだ済ませていない。
しまったと歯噛みするが、その場から一歩も動けないまま青年が店主にふたり分の食事の精算をするのを黙って見ていた。
「行こうか」
青年が──花形が、席を立ったままの状態で立ちすくむ飛雄馬に声をかけた。
なぜわかった?とは飛雄馬は尋ねず、店を出てから一目散に駆け出してしまえばいいとそう考えた。
図らずも昼飯を奢ってもらった恩はあれど、ここで捕まるわけにはいかない。
促されるままに飛雄馬は店外へと出たが、駆け出そうとしたところで花形の手により逃走を阻まれる。
花形の手が、飛雄馬の腕を強く握り締めたのだ。
まさかの事態に背後を振り返り、痛みに顔をしかめながら飛雄馬は離してくれとやっとのことで口にしたが、花形は事もあろうにここから逃げないのならそうしようとの条件を提示したのである。
「…………!」
よりによって左腕を──花形だって腕のことは知っているだろうに──飛雄馬は腕に食い込みつつある指の痛みに額へ脂汗を滲ませる。
「答えたまえ、星──いや、飛雄馬くん」
「つ……にげない、っ……逃げないからっ……」
息も絶え絶えに飛雄馬が囁くと、その瞬間に花形は手を離し、悪びれる様子もなく淡々と着いてきたまえと言い放つなり歩み始めた。
心臓の鼓動に同調するように、飛雄馬の握られていた腕がズキズキと痛む。
いっそ花形が背を向けた今、逃げ出してしまおうかとも考えたが、痛みのせいで逃げ切れる自信がない。
彼にあっという間に追いつかれてしまうだろうと飛雄馬は考え、この場は大人しく従うこととした。
食堂から少し離れた国道脇に停めてあった車の後部座席のドアを開けた花形がこちらを見つめている。
行ってはいけない。一刻も早くこの場から立ち去るべきだ。そうすることが最善だとわかっているのに。
飛雄馬は導かれるままに車の後部座席に乗り込み、何やら運転手に行き先を告げながら隣に滑り込んだ花形が微笑むのを見た。
そこから先しばらく、飛雄馬の記憶は途切れている。
降りたまえの声でハッと目を覚まし、飛雄馬は車窓から外を眺めた。
大きな建物の玄関に車は停められている。
ここはどこだと問いかけようにも隣に花形の姿はない。頭の整理のつかぬままに座っていた座席側のドアが開けられ、お気をつけてと花形のお抱えらしき運転手が頭を下げた。
「…………」
どうやら、花形が車を着けさせたのはホテルの玄関らしかった。車を降り、彼に続いて自動ドアをくぐれば建物の中にはたくさんの利用客の姿があった。
ロビーやラウンジで談笑する客らは男女問わず皆スーツに身を包んでおり、普段着という出で立ちの飛雄馬は目の前に広がる華やかな光景に呆気に取られた。
と、そこで再び飛雄馬は花形に着いてきたまえと声をかけられ、初めて目にするホテルの絢爛豪華な内装に異世界に迷い込んだ錯覚を覚えつつも、彼の後を追う。手慣れた様子でエレベーターに乗り込み、目当ての階数のボタンを押した花形がふいに口を開く。
「先程は悪いことをしたね」
微かなモーター音を響かせつつ飛雄馬と花形を乗せた箱が上昇する。
「…………」
握られた腕の痛みはだいぶ落ち着きつつある。
数年ぶりに再会したかつての知人に対する仕打ちとしては言語道断に等しい。
何を考えての行動だろうか。花形にはそこまでしておれを留めておきたい理由があるのだろうか。
それに、着いた先は今や花形の妻となったねえちゃんのいる彼の自宅でもなく、このような場所。
それにしても。
一体、何階まであるのだろうかこのホテルは。
なかなか目的地まで着かない。いや、そう感じるのはおれの精神的なもののせいであろう。
間の抜けた音を響かせ、エレベーターの箱は目的地にふたりを運ぶと、扉を開ける。
「…………」
ここから足を踏み出してはならぬと本能が警告している。しかし。おそるおそる一歩を踏み出した飛雄馬は柔らかな素材を使ってあるのかフロア全体の床に対し靴を履いた足が沈み込むような感覚を覚えた。一歩、二歩、三歩。
似たような扉が目の前の廊下には横並びに並んでいる。花形はその中のひとつの扉の鍵を開け、一足先に体を内部へと滑らせた。
「…………」
「入ってきたまえ」
室内から、花形の低い声が飛雄馬の両の鼓膜を震わせる。行ってはいけない。この境界を越えたら後戻りはできない。心臓が破裂せんばかりに激しく脈打っている。呼応するかのごとく頭が痛み、体が火照る。
「…………」
喉がひどく渇いている。
飛雄馬は震える足で中へと踏み込み、扉を閉める。
鍵をかけてくれないかの声に素直に応じ、内鍵を左へと回した。部屋の明かりはつけられていない。
午後という時間も相俟ってか、照明がなくとも室内はどこに何があるかくらいは判別がつくほどに明るい。
まあ座りたまえと花形は室内に置かれたテーブルと対になる椅子を飛雄馬に勧め、何か飲むかねとも訊いた。
「水を、一杯」
「水?水でいいのかね」
フフ、と花形は笑い声を上げ、室内にひとつ置かれたベッド付近にある電話の受話器を上げた。
水とビールをなどと耳に当てた受話器に向かい話す花形の姿を見つめ、電話を切った彼に、一体何のつもりだと飛雄馬は問いかける。
「ぼくの自宅に行く方がよかったかい。こちらとしてはきみのことを考えてここを選んだのだが」
椅子に深く腰掛け、足を組んだ花形が微笑む。
「あんな真似をして……それに、食事の代金ならちゃんと払わせてもらう。迷惑だ」
「なに、気にしないでくれたまえ。義兄さんの奢りだ」
「馬鹿にして……どうやっておれを見つけたのか知らんが、放っておいてくれないか。おれは二度と花形さんたちの前に姿を現す気はない」
「どうして?」
「どうして、だって……?」
飛雄馬が尋ねたところで部屋の扉がノックされ、顔を出した従業員が冷えたビール瓶とふたつのグラス、そしてミネラルウォーターの瓶を応対した花形に手渡した。
飲みたまえと渡された瓶の蓋を抜き、飛雄馬は喉を潤す。火照る体を冷たい水が冷やし、先程まで花形に抱いていた怒りを静めてくれる。とはいえ、彼の言動は到底許せもしないが。
「飲める口だと聞いたが、いかがかね。一献」
「断る。そんな気分じゃない」
グラスに並々と注いだビールを勧めてきた花形を突っぱね、話があるのなら早くしてくれないかと飛雄馬は切り出した。
「まあ、座りたまえ。話す気は、きみにもあるんだろう」
二杯目をグラスに注ぎつつ花形が呟く。
どうやらわが道を行く性格は変わっていないらしい。
どこかで見た顔だと食堂で感じたのも、とあるテレビコマーシャルを観たからだと飛雄馬は今更、先程感じた疑問の答えに辿り着く。
花形モーターズは飛雄馬が姿を消してから数年のうちに急成長を遂げ、今ではコンツェルンと呼ばれるまでの大企業になっていた。
その花形コンツェルンの次期当主である会長の息子を起用した宣伝コマーシャルは連日放映されており、飛雄馬も食堂のテレビなどで度々目にしていたのだ。
ねえちゃんはとんでもないところに嫁いだものだと驚いたものだが、今まで苦労したぶん、これからはゆっくりと平穏な日々を過ごしてほしいと感じたものだった。それなのに今、なぜ花形はおれの前に姿を現したのか。確かに、行先を知らせもせず、定職にも就かずぶらぶらと各地を放浪する義弟の存在は厄介だろうが、わざわざこのような場を選んでまで、なぜ。
「東京に戻ってきて花形さんとねえちゃんを安心させろと?かつてのライバルがルンペン暮らしをしていることが気にかかるか」
三杯目を口に含みつつあった花形が吹き出し、失礼、と詫びの言葉を紡ぎつつ口元を拭う。
「説教をするために呼んだつもりは更々ない。欲を言えばそうしてもらいたいのは山々だが……きみが行方知らずのままなのは何か理由があってのことだろうと思う」
先程、人の腕をしかと握り、逃げるなと言った男と同一人物とはとても思えぬしおらしい態度に飛雄馬は、ビールが効いたのだろうかと苦笑し、勧められた椅子へと腰を下ろす。
「…………」
「今日はゆっくり休みたまえ。手荒な真似をして申し訳ない」
まさか花形から詫びや労りの言葉が飛び出すとはと飛雄馬はあっという間に瓶を空にした彼の顔をサングラスのレンズ越しに見遣った。
日が少しずつ暮れつつあり、間もなく夜がやってくる。
「ねえちゃんや伴、とうちゃ……いや、親父は元気か」
「気になるかね」
「気にはしている。常に」
ミネラルウォーターの瓶に口を付け、飛雄馬はこちらを真っ直ぐに見つめてくる花形から目線を逸らす。この瞳が、飛雄馬は苦手だった。
打席からマウンドに立つ己を射抜く視線。
いつもあの双眸が放つ圧に飲み込まれそうで、気圧されぬよう必死にマウンドに立っていた。
打者と投手、皆互いに打ってやる・打たせないと強い意志を持ってあの場に立つものとは思うが、花形からの視線は他の打者とは明らかに違っていたのだ。
「……少し、休んでもいいかね」
花形がぽつりと漏らした言葉に、飛雄馬はハッと我に返り、気が付けば部屋にひとつしかないベッドに潜りつつあった彼の姿を目で追った。
「どこか悪いのか」
「最近、休めていなくてね。部屋は隣も取ってある。自由に使ってくれて構わんよ」
言い終えると花形は眠ってしまったか、規則正しい微かな呼吸音が部屋に響く。
台風のような男だなと飛雄馬は苦笑し、ようやく体の緊張を解くと、大きな溜息を口から吐いた。
隣を自由にと言われたところで、はいそうですかと花形を置いて行くわけにもいかない。
花形が電話でビールと水を頼んでいたが、風邪薬などももらえたりはしないだろうか。
ふと、飛雄馬はそんなことを考え、花形が眠るベッドの枕元へ歩み寄った。
そうして、受話器を手に取り、コール音をしばらく聞いていた飛雄馬だったが、いつの間に目を覚ましたのか花形が伸ばした手に腕を掴まれ、気が付けばベッドの中に引きずり込まれていた。
床に落ちた受話器からは従業員の問いかける声が響いている。
「…………」
「…………」
花形が拾い上げた受話器を定位置に戻すと、室内は静寂に包まれた。ベッドの上に組み敷かれる格好で、飛雄馬は自身の上に跨る花形の顔を見上げる。
部屋の中はすでに漆黒の闇に包まれており、花形の表情までは判別できない。
「騙したのか」
「騙してなどいないさ。言っただろう。少し休んでもいいかね、と」
花形の手が飛雄馬のサングラスを取り、枕元へとそれを置く。
「最初からこのつもりで部屋を取ったのか」
「このつもり?飛雄馬くんはこれからぼくが何をしようとしているのかご存知かね。なんだ、フフ。ぼくはきみを見くびっていたかもしれんな。野球以外のことは何も知らないと思っていたが……」
花形の指が身に纏うシャツの上から飛雄馬の臍から鳩尾にかけてをなぞった。
肌が粟立ち、飛雄馬が思わず顔を歪め、小さく吐息を漏らすと、花形はフフッと笑い声を上げてから冗談だよと微塵も悪びれる様子なく、そう言った。
「冗談?」
飛雄馬は体を起こすと、再びベッドに横になった花形の背を見つめ、衣服の乱れを正す。
「……からかってみたくなっただけさ」
なんと悪趣味な、と内心花形を嫌悪しつつ、飛雄馬は身に纏うシャツの背中がじっとりと汗で濡れていることを察すると、汗を流してくるとベッドから腰を上げる。花形は眠ってしまったか返事はなく、飛雄馬は彼の身を案じながらも、ひとまずこの不快感から開放されることを優先した。
クロゼット内に用意されていたバスローブを手に、飛雄馬は部屋の出入口付近にある扉を開ける。
洗面台と洋式トイレ、そして浴槽がひとつの空間に設置されている何とも小洒落た一画内に体を滑らせ、飛雄馬は汗にまみれた一式を脱ぎ捨てると、浴槽の中に立ち、シャワーの湯を頭から浴びる。
花形は本当に体調が悪いのだろうか。それならば医者にかかるのが一番だろうに。こんなところで寝ていてはますます悪くなる一方だ。
ここを出てからでも、そう諭してみよう。
髪と全身を洗い、十分に体を温めてから飛雄馬は持ち寄ったバスローブを下着も身に着けないままに羽織ると、花形の待つ室内へと戻った。
花形の様子に変化はなく、今もなお入眠中であることが伺える。
「…………」
体を拭いたバスタオルとは別に用意のあった小さめのタオルで濡れた髪を拭いつつ、喉の渇きを覚えた飛雄馬は部屋に備えてあった冷蔵庫の扉を開ける。
ドアポケットにはミネラルウォーターの瓶がふたつ置かれており、飛雄馬はその内ひとつを手に取ると蓋を開け、口をつけた。
長いこと冷蔵庫に入れられていたのか瓶自体もとても冷たく、ミネラルウォーターも冷えていた。
熱いシャワーで火照った体をまたしてもミネラルウォーターが冷やしてくれ、飛雄馬はふう、と息を吐く。
そうして、コインランドリーはこの階に用意があっただろうかとそんなことを考えた。
汗に濡れた服を洗濯しなければ、この部屋からは出られない。まさか花形の策略通りに動かされているのではあるまい、と飛雄馬の頭を一抹の不安がよぎりはしたが、そのときは浴衣一枚で逃げ出すしかないだろうなと街中を着の身着のままバスローブで走る己の姿を想像し、ふっ、と小さく吹き出した。
「…………」
自分の間抜けな想像をしたところで疲れからか眠気を覚えた飛雄馬は、おれも一眠りといくかと花形の眠るベッドに体を横たえ、厚いマットレスの上で高い天井を見上げる。
ねえちゃんは今頃、花形のことを心配しているのではなかろうか。電話を一本入れておくべきだろうか。
眠って起きたところで、その後のことはどうするべきか。
隣に眠る花形から感じる程よい温かさに飛雄馬はうつらうつらと微睡みだし、その内に眠ってしまっていた。ハッと目を覚ませば、ちょうどシャワーを浴びた花形がバスルームの扉を開けたところで、タオルで髪を拭いながら顔を出した彼と共に、暗い部屋の中に目映い明かりが差し込んだ。
「起こしてしまったかね」
花形が小声で尋ねる。
「いや、関係ない……」
「服やコートはきみが眠っている間に洗濯とクリーニングを頼んでおいた。明日の朝には戻ってくるさ。安心したまえ」
花形が言いつつバスルームの扉を閉めると、部屋は闇に包まれる。間髪入れず、花形は部屋の壁に設置されていた蛍光灯のスイッチを入れ、室内には昼間同然のような明かりが灯った。
「う……」
眩しさに思わず呻いて、飛雄馬はベッドの中に頭から潜り込む。眩しかったかねと花形が笑い、部屋の明るさを調整した。いわゆる常夜灯と呼ばれる、橙色の柔らかな光が室内を照らし、飛雄馬はようやくベッドから体を起こす。
「……自宅に、連絡は入れたのか」
「自宅に?なぜ?」
バスローブ姿の花形が先程、飛雄馬が行ったのと同じく冷蔵庫を開けると、中から瓶を取り出し、蓋を開けた。
「体調が悪いのなら病院に行くなり、ねえちゃんに連絡を入れるのが先じゃないのか」
「……へえ、ぼくの心配をしてくれているのかね」
瓶に口を付けた花形が声を上げて笑う。
「かっ、からかわないでくれ。おれは本気で……」
「大リーグボール1号を破ったぼくをきみが見舞いに来てくれたことがあったね。フフ、勝者の余裕で憐れみかとあのときぼくは言ったが、嬉しかったよ。一種の照れ隠しだろうね」
ぼくも若かったからね、と花形は付け加え、瓶の蓋を閉めた。若い、で片付けられることなのかと飛雄馬は思ったものの、口には出さず、黙って花形の話を聞いていた。
照れ隠し、か。若き日にはそんな強がりがあって当然だろうが、おれはそのとき、正直腹立たしさを覚えたのも事実だった。また球場で会おう、と鉄製の重いバットで鉄球打ちをした傷が生々しく残る掌で握手を求められたときには尊敬と畏怖の念さえ抱いたものだったが。
「…………」
「出張や商談続きで寝不足気味だっただけさ。心配かけてすまないね」
「寝不足……」
「少し眠ったおかげでだいぶ楽になった」
年を取るとは、そういうことなのだろうか。
野球ばかりに打ち込んでいられた頃とは違い、それなりの地位もあり今や妻帯者の身となった花形。
その肩には重い責任がのしかかり、眠れぬこともあるのだろう。
「大変、なんだな」
ぽつりと飛雄馬は溢し、花形の顔を見遣る。
「なに、大したことじゃない。飛雄馬くんだって現役時代にはそんなこともあっただろう。投手の感じる重圧は打者の比ではないと聞く。それも常勝球団の一軍投手。ましてやきみの心の状態は……」
「……投手向きではなかったからな。ふふ」
「…………」
瓶の中身を口に含み、ごくりと喉を鳴らした花形が飛雄馬の佇むベッドまで歩み寄った。
「眠りたまえ。今日は会えて嬉しかった」
「…………」
ベッドに横たわり、花形は囁くように言うと、おやすみと言うが早いかこちらに背を向ける。
夜明けにはまだしばらく時間がありそうだ。
もう一眠り、させてもらうかと飛雄馬もまたその場に寝転がる。さすがホテルの高層階と言うべきか、車の走行音や人の話し声や足音などは一切ここまで届いてはこない。普段利用する薄汚れたドヤは隣の部屋で眠るいびきの声まで聞こえる、ひどいものであった。
だが、それも慣れてしまえば不快に感じることもなく、いつもの日常、そのものでもあるのだ。
橙色に染まる天井を仰ぎ、飛雄馬は目を閉じる。
睡魔が訪れてくれる気配はなく、花形の寝息がひどく気になる。
そのうちにいつの間にか眠ってしまうだろうと飛雄馬は寝返りを打つことを何度も繰り返す。
と、花形から眠れないのかねと訊かれ、驚きのあまりどきりと体を震わせた。
「…………」
「少し、こちらに寄りたまえ。あまり端にいくとベッドから落ちてしまう」
子供じゃあるまいし、と飛雄馬は苦笑しながらも花形との間に開いていた距離を詰め、体を起こした彼が何をするのか見守っていた。
「…………」
「目を閉じて」
花形の声に、子守唄でも囁いてくれるのだろうかと飛雄馬は口元に笑みを携えつつ、目を閉じる。
すると、微かな衣擦れの音と、空気が動いた気配を感じた刹那に唇へと柔らかく熱いものが触れ、飛雄馬は思わず閉じたばかりの目を開けた。
文字通り眼前には花形の顔があって、その瞬間、飛雄馬は唇に触れるものが彼の唇であると判明はしたものの、抵抗するべく伸ばした腕をあっという間に絡め取られた。
「っう………」
顔を逸らすことで逃れたはずの唇が首筋に触れ、飛雄馬は短く呻いた。時折、首筋に鈍く痛みが走るのは花形が肌に強く吸い付いているからだろうか。
やめろと掠れた声で拒絶の言葉を吐いた飛雄馬だったが、ふいに花形の指がはだけたバスローブの隙間から下腹部あたりに触れたことで、ぎくりと身を強張らせた。
なにを、と視線を遣った先ではすでに花形の手が男根を握っている。その事実と光景を目の当たりにすることを拒否するように飛雄馬は顔を逸らすと目を閉じた。しかして、視覚からの情報を得られなくなったゆえか、花形が男根を擦る音が耳を犯す。
指先が、掌が、どこをどのように触っているのか目を閉じていても敏感に伝わってくるのだ。
花形の体を押し退けようと伸ばした腕も、今や声を殺すために口を塞ぐ道具と化している。
腰が揺れ、閉じた目には涙が浮かんでいるのがわかる。花形の手の中で固くなった男根が、脳からの合図を待っている。
しかして、理性がそれを許可することを拒む。誰が出すものかと奥歯を噛み、必死に射精することを堪えた飛雄馬だったが、花形が何のためらいもなく手を離したことで、思わず彼の顔を見遣った。
「そんな目で見ないでくれたまえ。出したくないのだろう。フフ、それとも……無理やり出してあげたらよかったかね」
「そ、んな……ことは……」
「趣向を変えよう。足を開いて」
ベッドに乗り上げた花形が飛雄馬の足元に身を寄せるなり、そんな指示を出した。
なぜこの期に及んで、花形の言いなりなどにならねばならんのか。間を置かれたことで冷静さを多少なりとも取り戻した飛雄馬は花形の言葉を無視し、ふいとそっぽを向いた。
「眠れないというから眠らせてやろうというのに」
ベッドの上に投げ出されたままの飛雄馬の足を花形の手が撫でる。指先がそろそろと脛を這い、膝頭を捉える。
「っ、っく…………」
飛雄馬の触れられた箇所が熱を持ち、落ち着いたはずの男根も反応しつつある。
「足を開いて。できるね?」
柔らかな口調でそう促され、飛雄馬は閉じていた足をゆっくりと左右に開くと膝を立て、花形の体を受け入れる格好を取った。いい加減にしろと怒鳴りつけることもできたはずだが、飛雄馬はそれをしなかった。
腹の中が妙に疼くのを止めてほしかったからである。
その疼きを止めるには何をすべきか。
心臓が馬鹿に高鳴る。
「嫌じゃないのかね」
「え?」
口元に遣った指に舌を這わせ、唾液を纏わせる花形がそう訊いた。
「ぼくに抱かれることに嫌悪感はないのかいと訊いている」
「嫌だといえば、やめてくれるか」
「ぼくも鬼じゃない。嫌がる飛雄馬くんに無理強いはしないつもりだが」
「…………!」
今更、何を言い出すのか。
始めたのはそちらで、ここに来て手を引くと言うのか。勝手に火を付けて燻らせておきながらやめるのはきみ次第とは勝手すぎるのではないか。
「飛雄馬くんが選びたまえ」
「花形っ……!」
今頃になってふつふつとこの身勝手な男に怒りの感情が湧き上がる。
「フフッ……」
花形の指が、彼が笑い声を漏らすのと同時に飛雄馬の尻の中心を捉え、中へと滑り込んだ。
「っ、!」
「締めないで。痛い思いをするのはきみの方だ」
中を解すように指は動き、続けざまに二本目が挿入される。浅い位置を撫で、内壁を指先がそろそろとさすった。
「あ、っう…………」
「違うね。もっと深い場所?」
「誰が、っ……言うもんか……」
息も絶え絶えの状態で飛雄馬は花形を煽る。
「そろそろ行こうか」
指が抜かれ、飛雄馬は思わず体を震わせた。
そうして、息つく暇もないままに尻の窄まりへとあてがわれた花形の男根が体の奥を貫く。
「───〜〜〜〜っ!!!」
指では到達し得なかった奥深くに花形が入り込み、内側から臍の裏を押し上げた。
その場所から走った快感の痺れが脳天まで一気に駆け抜け、飛雄馬は声にならぬ悲鳴を上げる。
「少し休憩しようか。間を開ける方が辛いかね」
腰でゆるゆると尻を叩く花形の顔を見上げ、飛雄馬は首を横に振る。強烈な一撃を受け、飛雄馬の思考は白く濁っていた。腹の中にいる花形の熱と存在だけが思考力の低下した飛雄馬が感じ得る唯一の現実である。
「ふ……っ、はぁ、あ……」
少しでも身をよじれば腹の中が擦られ、快感の痺れが全身を巡る。
「答えられない?」
花形が身を屈め、繋がる場所に僅かに体重をかけたことで飛雄馬は二度目の絶頂を迎え入れることとなった。背中を反らし、晒した喉に花形が口付け、腰を引く。中が引きずられ、腰を叩きつけられたことで奥を突かれる。
「あぁっ、っ──!」
高い声を上げた飛雄馬の口を花形が塞ぎ、舌を差し入れた。飛雄馬は辿々しく花形の舌に自分のそれを絡ませ、彼の首に腕を回した。
花形が腰を引いたおかげで中を抉り、上壁を突き上げる。
そのたびに体が跳ね、飛雄馬は花形の首に強く縋りつく。何度唇を重ね、何度絶頂を迎えただろう。
全身を汗に濡らし、飛雄馬は腹の中で花形が脈打つのを感じつつ、寄せられた唇に自分から口付けた。
「…………」
そうして、花形は射精を終えたか飛雄馬から離れていく。そのまま彼は浴室へと消え、飛雄馬は目を閉じたままずきずきと痛む頭に手を当てつつも倦怠感からこの場から動けないでいた。
しばらく体を休めていた飛雄馬だったが、ふいに体を起こすと、バスローブの乱れも正さぬままにテーブルの上に置きっぱなしになっていたミネラルウォーター入りの瓶を手に取り、中身を一息に飲み干す。
花形がシャワーを浴びている水音が、今のこの状況が夢ではなく現実であることを物語っている。
膝は微かに震えていて、立っているのがやっとである。飛雄馬は再びベッドに腰を下ろすと、いつの間に花形が付けたのか胸元や腿のあたりに赤い唇の跡が残っていることに気付く。
「…………」
「おや、起き上がれたのかね」
花形の声と浴室の扉が開いた音に飛雄馬は項垂れていた顔を上げ、彼の顔を見遣った。
「…………」
下着を身に着け、濡れた髪をタオルで拭いながら現れた花形が囁く。
「誰にも言わんさ。安心したまえ。今日、こうして会ったことも互いを求めあったことも」
「っ……」
「共犯だよ。飛雄馬くんもね。口外できないふたりだけの秘密を持った、裏切り者さ」
フフッ、と花形は笑みを漏らし、また会えるだろうと付け加えた。
「元はといえば、っ……花形さんが話しかけてこなければ」
「きっかけは何にせよ、いくつかあった選択肢の中でこの結末を選んだのはきみだよ。星飛雄馬くん」
「おれを、ゆする気か」
「ぼくはまた会えるだろう、と言っただけだ」
「…………」
「着替えと朝食は明日の七時に届くよう手配してある。それまであと四時間。眠るなり好きにしたらいい」
「花形さん、は」
「ぼくは自宅に帰るさ。明子にまた朝帰りかと小言をいわれては堪らんからね」
「…………」
言いつつ、身支度を整えると花形はおやすみ、飛雄馬くんと言い残し部屋を出た。
花形が去ったことで緊張の解けた飛雄馬はそのままベッドに倒れ込み、天井を仰いだ。
誰が、会ってなどやるものか。もう二度と顔を合わせることもない。
視界がゆっくりと霞んでいき、飛雄馬はうとうとと微睡む。程よく空調の効かせられた室内では暑さや寒さを覚えることもなく快適である。
あのとき、他人のふりをして逃げ出すべきだったのだ。そうすれば、こんなことには…………。
ああ、そういえば定食の金を渡しそびれたな……。
そこまで考えて、飛雄馬は深い眠りに身を委ねる。
それから、明日朝七時まで従業員が洗濯を済ませた衣服一式と朝食を持ち寄るまで飛雄馬は滾々と眠り続けた。今はただ、新監督を迎えた巨人軍の実情も何も知らないままに、ひたすらに────。