旅立ち
旅立ち 部屋の扉がノックされたような気がして、飛雄馬は己ひとりが使用する個室のベッドに腰掛けたまま、タオルで髪を拭いていた手を止めると、はい、と返事をした。
すると、今や姉の婚約者となった彼、花形満──が花束を手に病室へと入ってきて、シャワーを浴びたのかね、と飛雄馬に問うた。
「ええ。やっと許可がでました」
「……それはよかった」
昨日は果物、一昨日はアイスクリーム……今日は花束を手にした彼は、どういう風の吹き回しか毎日ここを訪ねては何かしら見舞いの品を置いていく。
姉と一緒のときもあれば、こうしてひとりのときもある。親友はあれから一度も顔を出さない。
風の噂ではもう退院したとも聞いたが、おれに気を遣ってか誰も彼について話そうとしない。
日に日に親密さを増す姉とこの好敵手の関係に気づかぬふりをして、顔に笑みを貼り付かせるのにも疲れてしまった。
恐らく──花形さん、がここを訪ねてくれるのも、姉に気を遣ってのことだろう。ご苦労なことで、と黒い感情を抱いてしまうのは、もうこの左腕で野球をすることは二度と叶わぬとの現実を突きつけられたからだろうか。
「ふふ、毎日すみませんね、花形さん。お見舞いに来ていただいて…………」
「……退院はいつかね?」
飛雄馬が皮肉混じりに囁いた台詞が癪に障りでもしたか、花形は眉間に一瞬、皺を寄せたものの、すぐ普段と変わらぬ表情で淡々と言葉を紡いだ。
「明後日には退院できると聞きました」
「明後日か」
飛雄馬の言葉を確かめるように繰り返すと、花形は窓辺に置かれていた花瓶の中を新しい花々と取り替え、古くなり、枯れつつあったものを花束が包まれていた包装紙にくるんだ。
「左門さんと、京子さんの式の日、ですね」
その次は花形さんたちですね、と飛雄馬は続け、花は部屋の屑籠に入れておいてください、と窓の外を眺めつつ呟く。
「フフ……しかし、驚いたよ。まさか左門くんに将来を約束したお相手がいたとはね」
「本当に、羨ましい限りですよ……」
病室からは遥か遠くに見える東京タワーを見つめ、飛雄馬はぽつりぽつりと囁き、よかったら果物、何か召し上がりませんか、とも問いかける。
「ナイフはあるかい」
「そこの引き出しに」
言って、飛雄馬はベッド近くにある引き出しから果物ナイフを取り出そうとしたが、花形にそれを制され、逆に、何を食べるかね?と気を遣われる始末であった。腕の筋肉や神経が損傷したために腫れ上がり、指一本動かすことも叶わなかった飛雄馬の左手も数日の入院を経て、ようやく物を掴めるまでにはなっていたが、指先の微細な動きはまだ覚束ない──花形はそれを見抜いていたようで、飛雄馬に対し果物の皮剥きを申し出たのである。
「彼女は──きみとも面識があるそうだね」
「え?」
部屋備え付けの洗面台でりんごを洗い、器用にナイフで皮を剥いていく花形がぽつり、とそんなことを洩らした。
「新宿で、大立ち回りをしたそうじゃないか。柄の悪い連中相手に」
「…………!」
どっ、と飛雄馬の全身から汗が吹き出す。
シャワーを浴び、着替えたばかりのランニングシャツが汗で背中に貼りつく。
なぜ、この男はそれを知っている。
誰に聞いた、誰が話した、いつ、どこで。
「…………」
「っ、左門さんに、聞いたのか」
「まさか。彼が話すと思うかね」
「京子さんに?」
「きみのことが心配でね、星くん。少し周りに人を置かせてもらっていたよ」
「な、っ……!」
皮を剥き、手頃な大きさに切り揃えたりんごの一片を花形は飛雄馬へと差し出す。
「食べたまえ」
「いっ、いらない。食べたくない」
「きみはぼくが明子に気を遣ってここを訪ねていると思っているだろうが、それは完全に思い違いだよ」
手にしたりんごを頬張り、花形は淡々と語る。
「つ、まり……?」
飛雄馬の額を滑り落ちた汗が鼻の脇を滑り、唇を濡らす。
「それをぼくの口から言わせるつもりかね」
「い、っ、言わなきゃわからないだろう。どういうつもりで花形さんは、おれを、見舞いに……」
「そうか、それは……」
手にしていたナイフをオーバーテーブルの上に置き、花形が飛雄馬の座るベッドに乗り上げる。
声を出す間もないままに彼の体の下に組み敷かれ、飛雄馬は己の間の抜けた表情を映す瞳を見上げた。
「人を呼ぶぞ」
「…………」
「励ましのつもりですか?逆効果だ。いい加減にしてくれ」
「静かに、傷に響く」
「誰の、せっ……!」
言いかけた飛雄馬のパジャマの上着、その裾から花形の手が滑り込み、腹をなぞる。
一瞬、その仕草を受け、怯んだ飛雄馬の首筋へと花形は顔を埋め、汗の滲んだ皮膚へと舌を這わせた。
温かな舌が肌の表面を這い、腹をなぞった手はパジャマのボタンを外していく。
誰か来てくれ──言いかけ、飛雄馬はその言葉を飲み込むと目を閉じ、口を噤む。
扉一枚隔てた廊下ではしきりに看護婦や医師らが行き交う足音が響いている。
「星くん」
「っ、……」
はだけたパジャマの中、ランニングシャツの上から花形は飛雄馬の胸の突起を甘噛みし、彼の腰からズボンと下着を剥ぎ取っていく。
今の刺激でぷくりと膨らみ、尖った突起に舌を滑らせ、花形は露わになった飛雄馬の下腹部に手を遣る。
「きみらしくないな、星くん。なぜ素直にぼくを受け入れる」
「誰にも、見られたくない……こんな、っ」
「誰にも、ねえ。フフ、明子がきみと伴くんのことを話してくれたよ。頻繁に泊まりに来て何をしているか、彼女は知っていた」
「う、嘘……っ、」
「だから部屋を出たとね。誰にも言わず、ひっそりと……」
手にした男根をしごきつつ、花形は囁くとクスクスと笑みをこぼす。
次第に花形の手の中で飛雄馬の男根は固さを増し、その先からは先走りをこぼすようになる。
「うそ、嘘だ……っ、そんな、」
「きみと伴くんの仲を知らない者はいないさ。きみの父とて同じこと」
ぬるぬると先走りにまみれた男根をしごく指が鈴口をくすぐり、裏筋を撫で回す。
その度に飛雄馬の体はベッドの上で大きく跳ね、切なげな吐息を漏らすとともに花形の肩へと爪を立てる。
震える喉に花形は唇を押し付け、そこに軽く噛み付いた。
「あ、ぁっ……ッ、!」
「何も知らないのはきみだけだよ、星くん」
飛雄馬の両膝を立ててやり、左右に大きく開かせてから花形は、先走りに濡れた指を開いた足の間に塗りつけ、そこに指を飲み込ませる。
力を抜いて、と優しく諭しながら入口を拡張するように指を抜き差しし、二本目を滑らせる。
ぎゅう、と力を入れ、強張った体を解すために花形は飛雄馬の唇に口付け、ゆっくりと口内を犯していく。
舌を出してと言えば素直に従い、口を開けてと言えばその通りに唇を開く飛雄馬を目の当たりにし、花形は笑みを浮かべるとそのまま腹の中を弄ぶ。
そうして、解したばかりの飛雄馬の尻に花形は自分のスラックスのファスナーを開け、取り出した怒張を充てがう。
「は、っ、はながたさ……」
涙に濡れた瞳を花形に向け、飛雄馬は彼の名を呼ぶ。 その瞬間、体の中心を彼に貫かれ、飛雄馬は小さく呻くと、縋る肩口に爪を食い込ませた。
ギシギシと軋むのは己の体か、それとも身を預ける病院のベッドの悲鳴か。
飛雄馬はつい先刻、見舞いに来てくれた姉のことを思い出し、花形の肩を掴む手に一層力を込める。
優しいねえちゃんを裏切ったのはおれの方。
おれは、自分のことしか考えていなかった。
伴のことだってそうだ。
おれは、おれの心の安定のために彼を縛りつけていたにすぎない。
とうちゃんが彼を中日に引き抜いてくれなければ、おれは伴の人生を台無しにしてしまっていた。
己の尻に叩きつけられる花形の腰の強さに、飛雄馬は声を上げ、体を戦慄かせる。
全部、おれのせいなんだ。京子さんの指のことも、ねえちゃんの家出も、すべて。
花形の体の脇で揺れていた両足を腹に押し付けられ、飛雄馬はより深く中に押し入った彼の熱さに、うち震えた。容赦なく奥を犯したかと思えば、浅い位置を撫で、前立腺に刺激を与えてくる。
ほとんど裸に近い格好でされるがままに、だらしなく両足を広げ、下腹部から垂れる体液で腹を濡らす己をどこか冷静に見ている自分がいる。
誰も個室のこの部屋に踏み入ってこないのは、見てみぬふりをしてくれているのか。
「ん、ァ、あっ…………ぁ」
擦られた前立腺から全身に広がる甘い痺れに、自然に声が漏れ、絶頂に体が震える。
それでも花形の責めは止まらず、達したばかりの箇所を嬲られ、声にならぬ声を上げる口を塞がれて二度目の絶頂を与えられた。
そうして最後には、腹の上にたっぷりと精液を撒かれ、汗でぐっしょりと濡れたベッドの上で息を整えることになった。
互いに無言のまま、箱からティッシュを数枚抜き取る音を小耳に挟みながら、廊下を行き交う人々の声を聞く。日は落ちかけ、都下の街を橙に染めている。
「面会時間、間もなく終了ですよ」
ふいに、扉の向こうから聞こえた看護婦の声に驚きはしたが、飛雄馬は、わかりました、と答え、下着もつけぬまま、酸化し、やや変色しかけているりんごのひとつを口に運ぶ。
「伴は、元気ですか」
身支度を整え、部屋を出ていこうとする花形に飛雄馬は声をかける。
「……自分の目で確かめたまえ」
「…………」
一度もこちらを見ずに去って行った花形の、残していった余韻に目を細め、飛雄馬はりんごを頬張る。
彼もまた、不器用な人間なのだろう。
このような励まし方しか知らぬのだから。
結局、姉が届けてくれた左門さんらの結婚式の招待状に返事ができぬまま、明後日を迎えようとしている。
おれが顔を出したところで、気まずくなるだけだ。
傷が浅いうちに、この街を発とう。
飛雄馬は次第に夜の闇に飲み込まれていく街を窓からしばらく眺めていたが、花形が最中にふと囁いた言葉の意味を考えつつ、己の白い腹を手でそろりと撫でた。