取材旅行
取材旅行 吐く息は白く、冬の訪れを嫌でも実感する。
道行く人々もそれぞれが身を縮こまらせ、隣を行く人と寒いねと言葉を交わす。持久力を養うためにランニングをすることもなくなり、肩を暖めるために投球練習を行うことも今はない。寒さばかりがひしひしと肌を刺すばかりだ。
こんなときに思い出されるのは不思議と親友の笑顔で、寒い日には共に互いの好物だというラーメンを食べたこともあった。熱いコーヒーを啜り、甘い菓子に舌鼓を打つ。そんな日が、永遠に続くものだとあの頃は無責任にもそう思っていた。
彼は今頃何をしているのだろう。球界から身を引いたとは風の噂で耳にした。どうかおれのことなど忘れ、幸せでいてくれるといいのだが、とそんなことばかり考えるのは、この季節のせいであろう。
彼と別れたのもこんな寒い日だった。
吹きさらしの球場で、共に大リーグボール三号を作ろうと言ってくれた彼を冷たく突き放したのは紛れもなく自分自身だというのに、なぜ思い出すのは彼の顔ばかりなのだろう。自分の女々しい性格がこんなとき、どうしようもなく嫌になる。
それにしても冷える。どこか喫茶店にでも入って暖を取ろう。体を壊してしまっては泊まる場所にも事欠いてしまう。
「星くん」
「…………」
ふと、自分の名前を呼ばれた気がして、飛雄馬は足を止め、背後を振り返る。雑踏の中に見知った顔は見受けられない。空耳か。それとも冷たい風が聞かせた幻聴か。
「ねえ、きみ、星くんだろう!」
歩き始めた刹那に、再び、振り絞るようにして発せられた一声に、飛雄馬は、牧場さん?と思わず声の主の名前を口にする。
「そう、ぼく。ぼくだよ、星くん。牧場春彦だよ────」
人を掻き分け、掻き分け、こちらに歩み寄ってきたひとりの人物。己の名を牧場春彦と名乗った彼。
ベレー帽を頭に乗せ、厚手のコートを羽織った出で立ちで目の前に彼は立っている。
何と、答えようか飛雄馬は一瞬、考えあぐねたものの、そうだ、と牧場の問い掛けに素直に応えた。
「よかった。人違いだったらどうしようかと……いや、見間違うはずない。ぼくが、星くんを」
こちらを見つめた瞳の輝きにかつての面影は感じられず、夢だと語っていた漫画家として確固たる地位を築いているであろうことを感じさせる。
「……何の、用です。わざわざ呼び止めて」
「あ、えっ、その、ええと。思わず呼び止めてごめんね。まさかこんなところで星くんを見かけるなんて夢にも思わなくて……じ、時間ある?よかったらお茶でもどう?そういえば今、星くんは何をしてるの?いや、ごめん。急にこんな矢継ぎ早に質問してしまって」
あたふたと取り乱す牧場に飛雄馬は破顔し、お茶くらいなら付き合いますよ、と彼の申し出を受けた。
それから、今はその日暮らしをしています、とも続け、牧場さんはなぜこの街に?とも尋ねた。
東京から少し離れた西日本の地で、何をしているのですか、と。
すると牧場は、取材旅行中でね、と照れたように笑い、街の様子を写真に収めに散策しているところさ、と辺りを見回すように顔を上げた。
「そうですか」
「あ、そこの喫茶店に入ろうよ。寒いよね」
牧場が指をさし、歩き始めた後に飛雄馬も続き、店員に案内されるがままに席に着く。
暖房の効いた店内は暖かく、牧場はコートを脱ぎ、四人掛けテーブルの隣の席にそれを置いた。
対面に座る飛雄馬はコーヒーでも飲むかい?の問いに頷き、牧場から渡されたメニュー表を開く。
「取材旅行はおひとりですか」
「あ、うん。アシスタントたちには休みを取ってもらっているよ。今抱えている連載が思ったより読者の反応がよくてね。前の野球漫画もアニメの話が来たりしたんだけどさ」
牧場は近くを通った店員にコーヒーを注文するために話を中断させ、一息吐くと、星くんに悪くてね、とぽつりと呟いた。
「おれに、悪い?」
「きみたちを、モデルにして描いていると以前話したことがあったよね。それなのにぼくだけこんなに幸せでいいんだろうかと悩んでしまってね。それに、きみから許可も得たかったし……」
「ああ、そういう……モデルにした話は確かに昔、聞いた覚えがあるが、気にする必要はないと思いますよ。それはおれだけでなく、花形さんや左門さんだって同じだろう」
「そう、かな……そう、だといいんだけど」
「今でも付き合いはあるんでしょう」
「伴くんたちと?うん、お陰様でね。今でもちょくちょく食事に行ったりしているよ。会うたびにきみの話になるけれど……」
牧場は手持ち無沙汰ぎみに店員が持ち寄ったおしぼりを綺麗に畳むと、脇に避けた。
「皆、元気ですか」
「元気だよ。その点は大丈夫。ただ、心にぽっかり穴が空いてしまったみたいでね……心ここにあらずと言うか……それはぼくだけでなく皆そうなんだけど……」
おれのせいですか、と飛雄馬は訊かず、店員が運んできたコーヒーを受け取りつつ、牧場の言葉を待つ。
「…………」
「その、ええと、今日、泊まるところはある?よかったらぼくのホテルに来ない?なんて、もっと話をしたいだけなんだけど」
唐突だな、と飛雄馬は口に含んだコーヒーを吹き出しそうになりつつも、彼の厄介になるのも悪くないか、とそんなことを思う。
「とりあえず、何か腹に入れてからでも構いませんか」
「あ、も、もちろんだよ。ごめんね。ぼくばかり話して……って、こんなところで話したくないよね。誰が聞いているかもわからないしね。好きなものを食べて。ぼくが奢るよ。泊まる話だって気にしないでね」
にこっ、とぎこちない笑顔を見せた牧場に、飛雄馬もまた、微かに微笑みを浮かべ、メニュー表に書かれていたピラフを頼み、それらを胃腑へと流し込んだ。
その間に、牧場が漫画のファンだという女性からサインを求められ、快く引き受ける姿が印象的であった。
人はこうも変わるものなのか、としみじみ感じ入る瞬間でもあり、月日の流れの速さを感じさせる。
今や売れっ子漫画家となった彼が、落ちぶれてしまった自分を星くんと呼び、慕ってくれるのが不思議なくらいだ。彼には積み上げてきた揺るぎないものがある。しかして、今のおれには何もないのだ。
「お腹いっぱいになったかい?大丈夫?」
「ああ、ありがとう。牧場さん……」
ふたり、連れ立ち店の外に出る頃には雪が降り始めており、寒さが一段と身に沁みる。
牧場が宿を取っていると言ったホテルは駅前のビジネステルではあったが、建てられて間もないのか、外観、内装ともに真新しさを感じさせた。
受付で何やら話し込む牧場をロビーで待つこと少し、行こうと声を掛けてきた彼に続き、エレベーターを使うと目的の階に向かう。
そうして、到着した一室。
中はビジネス用とはいえやたらに広く、連泊しているのか牧場の私物が乱雑に置かれている。ベッドは広く、大人ふたりがゆうに寝転がれるだけのスペースはあった。適当に座っていいよと牧場は言ったが、ひとり掛け用の椅子にも脱いだ衣服が掛けられており、それもままならない。
「ああ、すぐ片付けるよ」
「いや、いい。忙しいんだろう、牧場さんも」
飛雄馬は言うと、帽子を取り、テーブルの僅かに空いたスペースへとそれを置いた。
「呼んでおいてこれだもの。あはは、嫌になるね」
「いつ東京に帰るんです」
「明日の夜だよ。あ、もちろん。きみに会ったことは言わないよ。その方がいいよね……」
「おれは言ってくれても構わないが、牧場さんが困るだろう」
「そ、そうだよね……」
言いつつ、牧場は椅子に置かれた衣服をベッドに放り投げ、どうぞ、と飛雄馬に座るよう勧めた。
飛雄馬が会釈し、椅子に腰を下ろすと、牧場もまた、ベッドに腰掛けた。
「いつからこちらに?」
「昨日からだよ。本当はもう少し休暇も兼ねて日にちが欲しかったんだけどね。連載に穴も空けられないし」
「ふふ、売れっ子漫画家さんは大変だな」
「い、嫌だな。そんな言い方……今のぼくがあるのは他でもない星くんのお陰なのに……」
「……お母さんは元気ですか」
「うん、今は仕事場兼、自宅でアシスタントたちの食事を作ってもらってる。昔はアパートを借りてたんだけど、アシスタントの出入りも頻繁にあって手狭になってね。母の後押しもあって家を建てることにしたんだ」
「あとは嫁さんだけだな」
「あはは、そうなんだ。母にも言われてる……」
順調そうで羨ましい……の言葉を飲み込み、飛雄馬は足を組むと、サングラスの奥で目を細める。
すると、何やら牧場がちらりとこちらを見つめたかと思うと、目を逸らすことを数回繰り返したために、どうしました、と訊いた。何か言いたいことがあるなら言うべきだ、とも続け、彼の返しを待つ。
「ぼくの、頼みをひとつ聞いてほしい」
「おれにできることなら」
「怒らない?」
「借金の頼みなら他を当たってくれると助かる」
「ち、違うよ。そんなんじゃなくて……」
「では、何だと?」
「その……ええと、あの……」
もじもじと何か言いたげに身をよじる牧場を見つめ、飛雄馬は瞬きを繰り返す。時間はある。焦ることはない。今でも付き合いがあると言った伴や花形さん、左門さんではなく、おれに頼みごとをするなんて何か、切羽詰まった問題を抱えているのだろう。おれが解決できることであれば、協力しよう、と。
「…………」
「だっ、抱かせてくれないか」
牧場の口から発せられた耳を疑うような言葉に、飛雄馬は、驚きのあまり目を大きく見開いた。
その、だめかな……と弱々しくこちらの出方を伺うように呟いた牧場を見据え、飛雄馬は大きく息を吐くと、言う相手を間違っているな、と答えた。
「間違ってなんか……ぼくは星飛雄馬にだからお願いしたわけであって……他の誰にもこんなことは言わない」
「確かに、こんなことを伴や花形さんたちには言えんだろう。しかし、なぜおれに?おれなら断らないだろうとでも?」
「ち、違う!星飛雄馬だからこそ、だ。きみからしたら昔の、ちょっとした顔見知りの相手かもしれない。でも、ぼくは違う。きみに憧れて、きみの野球に魅せられて、勇気をもらって、それで夢だった漫画家にもなれて……ずっと好きだったんだ、星くんのこと。きみは気付いていなかったと思うけど、試合だってずっと観に行ってたんだ。それで編集に何度も怒られたりしたけど、それでも、きみの頑張る姿を目に焼き付けたくて、それで……」
「牧場さんは勘違いしている。おれはそんなに素晴らしい人間でもないし、できた人間でもない。現に今だって漫画家として成功を収める牧場さんに嫉妬した。羨ましいと思った。それを知っても、おれを抱きたいと思うか?」
「ぼくの意志は変わらない。いや、星飛雄馬に対する想いはそれくらいでは揺るがない。それに、今の言葉を聞いてホッとしたよ。星くんもぼくと変わらない人間なんだと、ね」
「…………」
「…………」
沈黙。牧場は言葉を発さず、飛雄馬もまた、口を噤んでいる。何と答えようか、どう言えば彼は諦めるだろうか。失せろ、二度と顔を見せてくれるなと口汚く罵れば愛想を尽かすだろうか。
例の伴の親父さんの襲撃事件のことを掘り返し、身代わりとなってやっただろうと喚き散らしてやればいいだろうか。
「少し、考えさせてほしい。そのついでと言ってはなんだが風呂を借りてもいいか」
「あ、う、うん。もちろんだよ……」
浴室の場所を聞き、飛雄馬は席を立つと、開けた扉の向こうに閉じこもる。とんだことに巻き込まれてしまった。やはりここに来るべきではなかったな、と苦笑し、服を脱ぐ。
熱いシャワーの湯が、僅かながら気を静めてくれる。
牧場がああ言ったのは、漫画家ゆえの探究心と好奇心からだろうか。こう言えば、おれは承諾すると思われているであろうことも癪である。
彼にも風呂を勧め、その隙にそっと部屋を抜け出すのが得策であろうと思いつき、飛雄馬は歯を磨き、髪と身体を洗うと、浴室を後にする。
すると牧場が顔を真っ赤にし、先程まで飛雄馬が座っていた席に腰を下ろしているのが目に入った。
足元には空と思わしきビールの缶がふたつ転がっており、テーブルには飲みかけらしい缶がひとつ置かれていて赤面しているのは、酔いが回った状態ということを物語る。
「飲んだのか」
「う、うん。ごめんね、星くん。さっきのことは忘れて……ごめんよ」
「忘れて、か。ふふ、男が一度口に出した言葉を取り消すなど、一番してはいけないことだとおれは思うが」
「…………」
牧場の傍らに歩み寄り、飛雄馬は牧場の飲みかけの缶を手に取ると、それに口を付け、一息に飲み干す。
温まった体に、冷たく苦い炭酸が染み渡る。
「絶対口外しないと約束してくれ」
「……う、うん!」
眠たげに目を半分閉じかけていた牧場が目を開け、椅子から立ち上がるとベッドに先程投げやった衣服を床へと落とした。そうして、ベッドに乗り上げた牧場を追うようにして飛雄馬もまた、ベッドに膝を乗せ、牧場の許ににじり寄る。
「やり方は?」
「し、知っているよ、もちろん」
真っ赤な顔をして語気強く叫んだ牧場に跨った飛雄馬は彼を見下ろし、ふっ、と小さく苦笑すると、身を屈め、彼の口へと自分の唇を寄せる。
震えているのは緊張ゆえか、恐怖心の現れか。
おそるおそる開かれた唇に舌を差し入れ、微動だにしない牧場のそれに飛雄馬は自分の舌を絡ませる。
と、下から牧場の腕が伸びてきて、飛雄馬の首へと回った。
「下になろうか」
「えっ、うっ、うん……」
牧場に手を離すように言ってから飛雄馬は、狭いベッドの上に背中を預けるように横になる。
ふいに目に入った牧場の下半身はスラックスにその形がはっきり浮かび上がっており、彼の興奮具合を飛雄馬へと知らせる。何を思ってあんなことを口走ったが知らんが──はたまた、おれも何故、忘れろと言われたことでその気になってしまったのか──。
口付けを受け、飛雄馬は目を閉じると、腹を撫でてきた牧場の手の冷たさに声を上げる。
「あ、ごめん──」
「いや、いい。続けてくれ」
指の冷たさとは対照的に、熱い舌が首筋を這い、力強く薄い皮膚を吸い上げた。やり方は知っていると牧場は言ったが、少々自分勝手なところが目につく。
あまり経験は多くないらしい、と飛雄馬はようやく温まってきた指のぎこちない動きに小さく微笑み、いいから、下を脱がせてくれ、と指示を出した。
牧場は言われた通りに飛雄馬のスラックスに手を伸ばすと、ベルトを外していく。
そうして緩んだベルトの下、スラックスのボタンを外し、ファスナーを下ろすと、腰を上げた飛雄馬の足からそれを抜いた。
「っ、…………」
「牧場さんも下を脱いだらいい。あとでもたつかれても困るからな」
「…………」
牧場は顔中に汗を滲ませながら、彼もまたスラックスを下ろし、床へとそれを放り投げた。
「何か、滑りをよくするものは」
「えっ?」
「やり方は知っていると言ったじゃないか」
「そ、れは、そう、だけど」
「……ゆっくり、慣らしてくれたらいい」
「…………」
こくん、と牧場は無言のまま頷き、飛雄馬の下着に手をかけると、ゆっくりそれを引き下ろす。
息が荒く、彼の呼吸の様子が飛雄馬の許まで届く。
下着を汚さないといいが、とひどく冷静にこの状況を観察している自分を笑い、飛雄馬は指を唾で濡らして、と囁く。
「うん……」
「初めてか。いや、男とするのは」
「初めては星くんとがよかったんだ」
「…………」
ずいぶん、純情なことで……と飛雄馬は下着を下ろしきると指を咥えた牧場を見つめ、そのままそろりと足の間にあてがわれた濡れた指の感触に小さく呻いた。
遠慮の欠片もなく、腹の中に埋められた指に飛雄馬は顔をしかめはしたが、それを咎めることなく、牧場の好きにさせた。入口を解すように浅い位置を指は行き来し、頃合いを見計らったかのように二本目を挿入する。痛みはさほど感じず、飛雄馬はゆるゆると体の緊張を解くと、中を探られることで反応し始めた己の男根に視線を遣った。
「う、ぁ、……っ、」
「い、痛い?」
「いや、大丈夫……牧場さんこそ大丈夫か。下着が汚れるぞ」
「そろそろ、いい、かな……?」
「ゆっくり、頼む……」
腰を寄せてきた牧場の体を受け入れ、飛雄馬は腰の下に枕を敷いてから、大きく息を吐く。尻にあてがわれた指より大きく、そして熱を持った牧場の猛りに身震いし、いきなり全部は入れないでくれよと忠告した。
「…………」
牧場は無言のまま、飛雄馬の中に男根を突き進め、ううっ、と呻き声を漏らす。
「く……っ、ん、ん」
飛雄馬の腹の中が、ぞくりと疼く。我を忘れてはいけない、とそう思うが、そろそろと内壁を擦る熱さに全身が高揚する。牧場は、冗談であのような言葉を吐くような人間ではない。それは今までの付き合いの中で痛いほど身に沁みている。
「あっ、ちょっと待っ……っ……」
ぴたり、と牧場の腰が止まり、彼は大きく息を吸うとそれを口から吐き出す。
「…………」
しばらく、沈黙していた牧場だが、再び腰を進めると、すべてを飛雄馬の中に埋め込んでから、はあっ、と息を吐いた。ゆっくり、自分の腹の中が牧場の形に馴染んでいくのがわかって、飛雄馬は達成感に満ち溢れた彼の顔を見上げると、ふふ、と笑い声を漏らす。
「な、なんで笑うの?」
「初めてと言っていたが、思ったより上手いなと思ってな……」
「そ、そう、かな……」
飛雄馬が動いてもいいことを告げると、牧場はぎこちなく腰を使い始める。平坦な腰の動きはお世辞にも上手とは言えない代物ではあるが、一生懸命さは痛いほど伝わってくる。彼が満足してくれたらそれでいいと割り切り、飛雄馬は暖房で乾燥した部屋の空気を吸い込む。雪は、まだ降り続いているだろうか。
「星くん、星くん…………」
「…………」
いつから、牧場はおれを抱きたいと思い始めたのだろう。なぜ、今になって想いを打ち明けようと考えたのだろうか。冬の、この人肌恋しい季節のせいか。おれが彼を受け入れる気になったのもそういう、ことなのだろうか。牧場と再会したのが夏の、暑い時期であったのなら馬鹿を言うなと一蹴し、この場を去っただろうか。もう、考えたところで意味はないが。
偶然は必然なのだと言ったのは誰だったか。
「あ、いく…………」
言って、中へと放出された牧場の猛りを受け止めながら、飛雄馬は、彼が泣いているのを知り、ぎょっとなった。
「なんで、泣いて……」
「いや、そんなつもりじゃなかったんだけど、星くんに受け入れてもらえたのが嬉しくて……」
年甲斐もなく泣き出した牧場が見ていられず、飛雄馬は顔を逸らすと、彼の下から這い出て、ベッドから下りるや否や冷蔵庫を開ける。
「…………」
缶ビールを開け、火照った体を冷やすために中身を飲み下す。
「ずっと星くんみたいになりたくて……ごめんよ……」
「どうして謝るんです、牧場さん。おれはあなたの思いに応えただけで、謝られるようなことはしていない」
「うん……うん……」
「アニメの話は受けたらいいじゃないか。おれをモデルにした漫画のキャラクターがテレビの中で活躍する様子を見てみたい」
「ありがとう、星くん……」
「…………」
べそをかく牧場をなだめ、風呂に入るよう勧めてから飛雄馬は缶ビールをちびちびと舐める。
彼の目に、おれはどう映っているのか。それとも、初めてとはそんなに神聖なものなのか。
缶を傾け、煽ったビールには金属の味が混じる。
不思議と酔うこともない。
飛雄馬は空になった缶をテーブルに置くと、床に落ちていた下着を身に着け、ベッドに腰掛ける。
と、時同じくし、牧場が浴室から顔を出した。
「……あ、その……えっと」
「酔いは覚めましたか」
「お陰様で……」
「そろそろ寝ませんか」
「えっ、い、いいの」
「泊まれと言ったのは牧場さんじゃないか。それとも用済みで邪魔だと言うのなら出ていくが」
「そ、そんなこと……」
「…………」
牧場は髪を拭っていたタオルを肩に掛け、飛雄馬の座るベッドに歩み寄ると、もぞもぞとマットレスの上に乗り上げる。
飛雄馬もまた、下着姿のままで牧場の隣へと横になると、枕元にある操作盤で部屋の明かりを消した。
「星くん、起きてるかい」
「…………」
「本当は、取材旅行なんて嘘さ。原稿ばかりの仕事場に缶詰の生活に嫌気が差してね。自分で選んだ道なのに……それでこっちまで宛もなく逃げてきたんだけど、まさか星くんに出会えるなんて思ってもみなくて……ぼく、頑張ろうと思う」
ぽつりぽつりと語り始めた牧場の独白を、飛雄馬は暗い部屋の中で聞き入る。
「…………」
「今日はありがとう、星くん。きみに会えて本当によかった……」
語り終え、安心したか牧場の寝息が飛雄馬の許へと届く。まったく、人の気も知らんで……と飛雄馬は隣で眠る牧場に胸中で悪態を吐きつつ、寝返りを打つ。
それでも、牧場が前に進むきっかけになれたのなら、それでよかったのだろう。
抱かせてくれないか、などと言われたときには気でも狂ったのかと思ったが、漫画家の生活と言うのは想像以上に過酷なのかも知れぬ。
他人の体温を傍らに感じつつ、飛雄馬はうとうとと微睡む。そうして、牧場が寝言で名を呼ぶのに微笑して、飛雄馬もまた、深い眠りへと身を委ねた。