手中
手中 「花形、なんじゃいその手は」
この日、花形邸に呼ばれ、明子の作った夕食に舌鼓を打ちほっと一息ついたところで伴は花形の掌に残った傷跡を見咎めた。
互いの父が興した会社をコンツェルンと呼ばれるまでに、はたまた重工業と呼ばれるまでに成長させた二人は、野球界から身を引いた今では事業の付き合いでこうして家に招いて共に食事をしたりと頻繁に行き来を繰り返している。
だと言うのに、今日初めて、伴は花形の手のことに気が付いた。
「手?ああ、だいぶ目立たなくはなってきたと思っていたが、よく気が付いたものだ」
両手で拳を握ったり、指を開いたりを繰り返しつつ花形はフフッと微笑んでみせる。 その様が何とも気味悪く、伴は目をぱちくりさせつつ明子が食後に淹れてくれたコーヒーを煽った。
そして、ぐっと強く拳を握ってから花形は口を開く。
これは、例の大リーグボール1号を打つために毎晩のように特訓した際に出来たものだ、と。
「な、なんじゃと?」
コーヒーを吹き出し、伴は花形の顔を見据えた。
「フフ、下請けの工場の諸君はぼくに義理立て口を割らなかったが、あの速水という男が球場医に話したことで彼の耳にも、無論、新聞記者たちの入ったことだろう」
「鉄バットと鉄球打ち、じゃったかのう」
「ああ。これはその時の傷さ」
言って、花形は伴の目の前で掌を開いてみせた。未だうっすらと指や掌に残る無数の傷跡に伴は思わず視線を逸らす。
鉄の棒で鉄球を叩く、という行為がどれほどまでに過酷を極め、どれほどの損傷と苦痛をこの男に与えたのだろうか。
星飛雄馬という男たった一人を倒すために、花形はあの試合の後、シーズンを棒に振った。なんでも、指から腕、足に至るまでの骨が折れ、筋肉の裂傷を負ったという話だ。
しかして、その大怪我のせいで選手として使い物にならなくなったかと言えばそういう訳では決してなく、復帰戦では見事に大本塁打を放ち、満員のスタンドを沸かせたとも聞く。
「フフ、別にわざわざひけらかし話すようなことでもないからね。それに大多数の人間はハッとなりはしてもあえて訊いては来ない」
「その、治さん、のか?それこそ今更じゃが、花形ならその傷をまったく目立たんようにするなんぞ造作もないことじゃろう」
「………彼がいなくなった今となっては治さなくてよかったと思っているさ」
コーヒーにミルクを注ぎ、角砂糖をひとつ沈めてから花形はそれを掻き回す。
「…………花形は、ええのう。そんな、思い出があって。血染めのボールも返ってきたんじゃろう」
伴は自分の腕を抱え、ポツリとそんな言葉をこぼす。
「さあ、ぼくからしたらきみの方が羨ましいがね。なに、無いものねだりさ、お互いに」
「羨ましい?」
きょとん、と伴は花形を見遣る。
「…………今日は、泊まっていくのかい」
「あ、いや、今日はじゃな、明日朝イチで会議があってのう」
花形の言葉に伴は慌てて手首にはめた時計に視線を落とし、もうこんな時間じゃわい、と後片付けをしている明子らに大声でご馳走様でした。また来ます、と言うなり席を立ち、玄関まで足早に駆けた。
「また、来るといい。明子もぼくも大歓迎だ」
玄関先まで伴を送り、花形はそんな声をかけた。途中、現れた明子がなんのお構いも出来ませんでとその場に膝をついたもので、伴は慌てふためき、そうかしこまらんでくださいと頭を掻く。
お邪魔しました、と伴は頭を下げ、去り際、ふいに花形を瞳に映す。花形もまたじっと伴の顔を見た。
互いに名前こそ口にしないが、頭に思い浮かべるは未だ行方知れずの彼のことだ。
あれから数年。まだ消息は掴めていない。
伴は無言で屋敷を出て行き、花形はその後ろ姿を見つめる。
「伴さん、案外早くお帰りになられたわね」
「明日、会議があるそうだ。ぼくも明日は早い。もう休むことにするよ」
「そう………」
明子は花形が着ていた背広を脱ごうとするのも構わず彼にぎゅっと抱き着いた。
一瞬、ドキリとしたものの花形はそれを明子に気付かせず彼女の細い体を抱く。
あなた、と顔を寄せてくる明子の頭を優しく撫でてやってから花形は目を閉じ、行方不明のままのライバルの顔を思い浮かべた。