焦燥
焦燥 すうっ、と部屋と廊下を仕切る襖が開く気配がして飛雄馬は布団の中で息を殺す。
すると、襖を開けた何者かはためらう様子もなく、部屋の中に足を踏み入れるとこちらに歩み寄ってきたではないか。
飛雄馬は布団を跳ね除け、体を起こすと、伴?と徐々に距離を詰めてくる彼の名を口にした。
星飛雄馬が草野球の有料助っ人として関東に現れてから、間もなく1ヶ月になろうとしているまだ夏の暑さの残る熱帯夜。
飛雄馬は伴が米国から呼び寄せてくれたビッグ・ビル・サンダー氏と共に彼の屋敷に居候しており、空いている部屋を間借りしていた。
伴大造は得体の知れん外国人や星を屋敷に住まわせることに対しいい顔はしなかったが、伴がいつもの調子で丸め込み、まんまと2人を住まわせることに成功している。
飛雄馬が身を寄せる和室、虫の入らぬように網戸だけを閉めた窓から室内に吹き込む風も生温い。
「起こしたか」
ぼそぼそとばつが悪そうに部屋を訪ねてきた彼──伴宙太は呟く。
「……起こしたか、とは随分だな、伴よ。こんな夜更けに何の用だ。こんな時間まで起きているから朝食の時間にいつも間に合わんのだろう」
「ぐ……耳が痛いわい。明日の会議の資料を整理していたら眠れなくなってしもうてのう」
次第に闇に飛雄馬の目は慣れ、浴衣を着た伴の姿がはっきりと部屋の中に浮かび上がる。
「そうか、仕事の準備をしていたのか。すまない。今の言葉は取り消す」
「あ、いやいや!星が謝ることではないんじゃい。わしの日頃の行いを見ておれば誰だってそう思うわい。接待だ、飲み会だと連日のように夜中に酒の臭いをさせて帰ってきているのを見ればのう」
「…………酒もたまにはいいが、飲み過ぎは体に毒だぞ」
「う、うむ。わしもそう思ってここ最近は週に1、2度に控えとるわい」
それで、と飛雄馬は畳の上に敷いた布団のそばに座った伴に、何の用でここに来た?と再び尋ねた。
「ひ、久々に一緒に、寝たい、と思ってのう」
「一緒に?」
大きな体を恥ずかしそうに縮こまらせ、伴は頷く。
この暑いのにか?と飛雄馬が訊くと、扇風機をつけたらええ、と間髪入れず伴は答え、立ち上がると部屋の隅にあった扇風機を手に戻ってくる。
ほぼ手探りで伴が扇風機のツマミを回し、弱の位置に合わせるとぬるい風がふわっと飛雄馬の頬を撫でた。
「布団、ひとつで足りるか」
「た、畳の上でもええわい」
くす、と飛雄馬は笑みを溢すと、起こしていた体を布団の上に横たえ、そうと決まれば早く寝ようじゃないか、と伴を見上げる。
「い、いいのか?」
「大きい声を出すな」
伴は自身の口を塞ぎ、目を数回瞬かせてから恐る恐る飛雄馬の隣に寝転がった。
「懐かしいのう。宿舎でよく、こうやって同じベッドで寝たことを思い出すわい」
「ふふ、あの頃はまだ伴もそんなに大きくはなかったからな。今では布団ひとつで眠るなど到底無理な話だ」
「星だって背が伸びたじゃろう。髪も長くなった」
言いつつ、伴は手を伸ばし飛雄馬の頭を撫でる。
「…………」
「もう、5年になるかのう。あれから」
「伴、悪いが話なら明日にしてくれ。寝ないと明日に障る」
「あ、すまん。つい調子に乗ってしもうた」
伴は慌てて飛雄馬の髪から手を離すと、おやすみ、星と続けた。
「ああ、また、明日な」
答えて、飛雄馬は目を閉じる。
しかして、そう簡単に睡魔は訪れてくれず飛雄馬は伴に背を向けるように寝返りを打つ。
扇風機が首を振り、時計が時を刻む微かな機械音が部屋内に響く。
「…………」
と、何やら耳元に気配を感じ、飛雄馬は閉じていた目を開けた。
「ば、伴?お前、起き、っ!」
体を起こし、飛雄馬の耳元に顔を寄せていた伴がちゅっ、と彼の頬へと口付けを落とす。
びくん、と飛雄馬は肩をすくめ、体をやや伴の方に向けてから、彼の顔を睨み付けた。
「何の、つもりだ、伴。そんな気なら、部屋に、っん……」
怒りを孕んだ強い口調で非難するような台詞を口にしかけた飛雄馬の唇を、伴は半ば強引に塞ぐ。
「あ、っ、ば……っふ……う、」
顔を振り、拒絶する飛雄馬の唇を追い、伴は幾度となく彼の呼吸を奪い、自身の唇を押し付ける。
「いやっ、待て、待てっ、伴」
首筋に口付けを落とす伴の浴衣の肩口に爪を這わせ、飛雄馬は背を反らす。
口ではそう言っても、体は期待してしまっている。
伴はあれから5年ぶりと言ったか。
それは最後に肌を合わせた日のことを言っているのか、それともあの日、球場で対峙し合った時のことか。伴のことを思い出さない日などなかった。
どんなに苦しく、辛かろうと伴の存在があればこそ耐えられた。
現に今だってそうだ。
伴の協力を得て、米国からコーチを招待してもらった。
けれども、今はこんなことをしている場合では──。
「伴!聞こえていないのか?やめろ!」
「……星」
その声でそこでようやく伴は我に返ったか、寝間着代わりに着ていた飛雄馬のTシャツの裾から差し入れていた手を抜き、ゆっくりと体を起こした。
「感心、しないな、伴。こんなことをしてくるなんて」
「星、っ、その、すまん。こんな、つもりじゃ」
「…………」
たくし上げられつつあったTシャツの裾を直し、飛雄馬は大きな体をわなわなと震わせる伴を呼ぶ。
ギクッ、と伴は目に見えて動揺し、視線を泳がせているのか顔を左右に振って、再び、すまん、と頭を下げた。
「こっちに、来てくれ。伴」
「っ、わしは……」
「いいから」
伴を呼び、飛雄馬はおずおずと近付いてきた彼の太い首筋に腕を回すと体重をかけ、その体を引き寄せる。
「な、っ!?星!」
「伴よ、大きな声を出すなと言っただろう」
体を伴に密着させ、その首筋に腕を回してから飛雄馬は彼の耳元で囁く。
かーっと音がするほど伴の体温が急上昇していくのが分かり、飛雄馬は小さく微笑む。
「ほ、星ぃ、離してくれい……生殺しじゃい」
「伴、正直、きみに求められて悪い気はしなかった」
「う、む……」
「ただ、おれは今、長島さん率いる巨人に返り咲こうとしている大事な時期で、何よりも時間が惜しい」
ぎゅうっ、と飛雄馬は伴の首に回す腕の力を強めて、だから、もう少しだけ待ってほしい、と続ける。
「っ……星」
「伴なら、分かってくれるだろう」
腕の力を緩め、飛雄馬は布団に体を預けると、ニコッと笑みを浮かべた。
恐らく、真っ暗な部屋で体が影となって飛雄馬の表情までは読めないであろうが、伴は大きく頷くと鼻を啜ったか、グスッと手で顔を擦る。
「さすが星じゃい。わしが惚れた男なだけはある」
「ふふ、なんだそれ……」
苦笑し、飛雄馬は再び伴を呼ぶと、今度は自分から彼の唇に口付け、おやすみとそのまま寝返りを打った。
「ほ、星っ!」
伴は驚きのあまり声を裏返らせたが、彼もまたすぐに畳の上に横たわった。互いの火照った体には扇風機が贈る生温い風も妙に心地好く感じられる。
「星がまた、ジャイアンツのユニフォームを着ているところを早く見たいのう」
「…………」
伴の声を聞きつつ、飛雄馬は閉じたまぶたの裏でビル・サンダー氏との練習を思い浮かべる。
夜も更け、気温が下がったか風も少し涼しさを帯びてきた。
伴はいつの間にか寝入ってしまったようで、飛雄馬は体を起こすと彼の体に布団を掛けてやる。
そうして、部屋の隅に立て掛けていたバットを手にするとビル・サンダー氏から教えられたアドバイス通りに素振りを繰り返し、冷えた部屋の空気を何度も何度も切り裂いた。