昇進
昇進 「繰り返しになるが常務昇進、本当におめでとう」
「よ、よしてくれい。親父の興した会社で名ばかりの幹部職でわしゃ恥ずかしいわい」
照れつつも伴は手にしたグラスを向かいの席に座る花形の掲げたそれにカチンとぶつけた。
今や花形コンツェルンの専務となっている花形と共に伴はとあるレストランにて夕食に舌鼓を打ち、食後のアルコールを嗜んでいる。
星飛雄馬が消息を経ってから早数年──。
彼のかつてのライバル・花形満、はたまたその親友であった伴宙太もまた、星飛雄馬が行方不明となってから球界を去った。
阪神タイガースの打点王であった花形の引退会見は華々しく行われ、プロ野球選手として全盛期だったにも関わらず彼は潔く身を引き、星飛雄馬の姉である星明子と盛大な結婚式を挙げたことがまだ記憶に新しい。一方、伴宙太も中日に移籍してしばらくはまずまずの戦績を収めたが、星飛雄馬との一戦からはあまり一軍戦に起用されることもなく、そのまま引退と相成った。
それから二人は実父の興した会社をそれぞれに継ぎ、コンツェルン、重工業と呼ばれる大企業にまで発展させた。
高校を出てからは野球一筋に生きた二人にとって、経営学や帝王学と言った人の上に立ち、企業そのものを引率していくノウハウを一から履修することは花形はまだしも勉強などほとんどしてこなかった伴にとって拷問にも近い事柄であったが、それでも、星飛雄馬という男がどこかで一人、頑張っているのならとその一心で耐え抜いた。
親の七光りと陰で言われたことも一度や二度ではなく、取引先の企業の役員に鼻で笑われたことも幾度となくあったが、それでも二人は歯を食い縛り、堪えた。
野球しか能のない、ボンボンと言われたくはなかったからだ。
「伴自動車工業を重工業と呼ばれるまでに大きくしたのはきみの手腕のおかげだろう」
グラスを満たすウイスキーを煽りつつ花形は笑う。
「それは、花形専務も同じことじゃろう。しっかし、妙な感じだのう。花形とこうして互いに背広を着てネクタイを締め、同じテーブルで食事をするなんて数年前は思いもしなかったぞい」
赤ら顔をして伴もニコニコと笑みをその頬に湛える。
「………それだけ伴もぼくも年を取り、大人になったと、言うことさ」
「大人に、か」
笑みを消し、同調するように呟いた伴と先に口を開いた花形の頭に浮かぶは同一人物の顔であった。
あれから数年、自分らと変わらずもう青年となっているであろう星飛雄馬の姿形はまだ未成年であった頃のそれで、強い意志を瞳に宿しつつも、どこか儚げで何やらいつも心中には燻る思いを秘めているようだった彼。
二人の間で彼の名を口に出すことは何故かしら禁忌のようになってしまっており、決まって変な沈黙がその間には流れた。
「………たまに、ふふ、未練がましいと笑われるかも知れんが、マンションを覗きに行ってもやはり、帰って来てはおらん」
「なに…………それはぼくとて同じこと。明子が毎日掃除に行っているがきみと同じことを言う」
「元気で、おるんかのう」
ぽつりと伴がぼやく。
「…………ぼくと明子の結婚式に、どこで知ったか電報を送ってきたが、そう考えるとこの東京、いや、関東のどこかに彼はいるのではないか、とそんな期待さえしてしまう」
「坂本龍馬の、死ぬときはたとえドブの中でも前のめりに──の一文を座右の銘にしちょったからのう。まさか、と言うことはなかろうが」
「…………まさか、そんなタマじゃないさ、彼は」
グラスの中身を口に含み、花形は自分に言い聞かせるように呟いた。
「どこかで、幸せに暮らしてくれとったら、何も言うことはないんじゃが、せめて連絡くらい、してくれてもバチは当たらんと思うがのう」
「案外、どこかで結婚でもして幸せな家庭を築いているかもしれん。フフ、そうすると伴、独身なのはきみだけだな」
「あ、う………うぐ」
もごもごと伴は口を動かし、目を泳がせる。ははは、と花形は声を上げて笑ってから、一息にグラスを空にすると手首にはめた時計を見遣って、すまないが先に帰らせてもらうよ、明子が待っているからねと席を立つ。
「………何か情報を掴んだら必ず教えてくれい」
「もちろんさ。きみの方もよろしく頼む」
目配せし合って、花形は一足先にその場を後にする。
一人席に残った伴は小さく星と呟いてからグラスの中身を飲み干すと、彼もまた腰を上げた。勘定は花形が済ませておくと言ってくれたために伴はそのまま店を出て、夜風に当たる。帰りはタクシーを捕まえるからと専属の運転手は先に帰らせている。
あれ以来、一言も交わすことなく消えていってしまった星。たった一人で編み出した大リーグボール三号で左腕を壊した星。 会って何を話そうか、いや、話したいことは山ほどある。
どうしてこんな時にも思い出すのは彼の肌のぬくもりで、伴と優しく呼んでくれるその声色なのだろう。
大きなくしゃみをしてから伴は鼻を啜って、車道を走るタクシーを停めるとその後部座席に乗り込む。車内は程よく暖かく、その揺れは夢の世界へと伴を誘う。
夢うつつで行き先を告げ、伴は逆らうことなく襲い来る睡魔に身を委ねる。
「あれ?お客さん、数年前ジャイアンツ、いや、中日にいた伴宙太さんでしょう。はは、ワタシ、大の野球好きでね。いやあ、光栄だなあ、さっき星さんを乗せたんですよ。髪が伸びててサングラス掛けてらしたんで、最初は誰かわからなかったんですけどね。行方不明って聞いてたんですが、まさか東京に………あれ、寝ちゃってる」
一人ぺちゃくちゃと喋り倒す運転手の言葉などひとつも大きないびきをかき眠りこける伴の耳には入ってはいない。
よもや、自分が座り、体を預ける座席にたった数分前まで星飛雄馬本人が座っていたことなど今の彼が知る由もないし、運転手もそれを二度は言わなかった。
運命の悪戯か、それとも単なる偶然か。
伴を乗せたタクシーは目的地まで彼を起こさぬよう、ただゆっくりとその道のりを辿るのみだ。