食堂
食堂 球場の食堂にて飛雄馬はテーブル席に着き、これから行われる試合に向け、早めの昼食を摂っていた。
あまり食欲もないため、軽めにうどんを注文し、それを啜ることを繰り返している。
今は和気藹々とした雰囲気で、他球団の選手同士入り乱れ食事をしているが、数時間後にはあの人工芝の敷かれた球場を白球を追い、決死の攻防撃を繰り広げるというのだから不思議なものだ──と飛雄馬はヤクルトスワローズのユニフォームと、己も同じものを着用しているジャイアンツのユニフォームが行き交うさまを目で追いながら、丼に口をつけ、うどんのつゆを啜った。
と、テーブル席の卓を挟んで向かいの椅子に座る人が現れ、飛雄馬は、慌てて丼から顔を上げる。
「あ、すみません。すぐどきますから──」
言いつつ、視線を遣った男の顔に見覚えがあって──飛雄馬は対面のテーブルに着いた花形の──口元に浮かんだ笑みに思わず丼を取り落としそうになり、慌てて両手でそれを支えることで、床に麺とつゆとをぶちまけずに済んだ。
「ずいぶん早いじゃないか」
「…………」
フフ、と微笑むや否や、飛雄馬の対面に座った花形は皿に綺麗に盛られた一口大のサンドイッチを、ひとつ摘むとそのまま口に運ぶ。
その所作さえもどことなく優雅で、品が感じられる。
とは言え、見とれている場合ではない。
早いところ席を立たなければ、と辺りを見回した飛雄馬だったが、テーブルに着いたふたりの存在に気付いたらしきヤクルトの選手らに花形のことを囃し立てられ、何も言い返せず口を噤むばかりとなった。
中にはあまり気負いすぎるなよと励ましてくれるジャイアンツの選手もいたが、それが出来ればどんなにいいか、と飛雄馬はサンドイッチを食べ進めている花形の──義兄の顔を盗み見た。
やたらに話しかけるのも気が引ける。
また妙な返しをされ、まともに投げられなくなっては困る。左腕時代の頃がまだやりやすかったかもしれない、と飛雄馬は思う。
義理の兄弟である以前に、おれと花形さんはライバル同士であり、馴れ合いなどは求めてはいない。
ねえちゃんは屋敷に遊びに来てほしいと言ってくれるが、相手が花形さんである以上そう簡単にはいかない。
「食べるかね」
「は……?」
「さっきからずっとぼくの顔を見つめているが、それだけでは足りなかったのかい」
「み、見つめてなんか!」
勢いで声を荒げた飛雄馬だったが、慌てて口を塞ぎ、辺りを見回す。が、食堂に残るは運命の悪戯か、飛雄馬と花形のふたりだけである。
先程までは座る場所もないほどに選手らでごった返していたというのに、皆食堂を出ていってしまったらしかった。
「ひとつ、食べたまえ」
花形はそう言うと、飛雄馬に向かって卵とハム、それにスライスされた胡瓜が挟まれたサンドイッチをひとつ、差し出してきた。
「い、いらん。結構だ」
「フフッ、遠慮せずに。ここのサンドイッチは絶品でね。パンも注文して取り寄せているなんて話さ」
「…………」
そう、言われると、目の前に差し出されたサンドイッチがひどく特別なものに見えてくる。
食堂のサンドイッチなんて、ここに来さえすればいつでも食べられるものであるのに。白い薄切りのパンに挟まれた瑞々しい胡瓜とハム、それに黄色い卵のマヨネーズ和えが、やたらに蠱惑的に飛雄馬の目には映る。
「口を開けて」
「あ……、っ」
囁かれ、流されるままに開いた口に一口サイズのサンドイッチを咥えさせられ、飛雄馬はそれをゆっくりと咀嚼した。
パンは柔らかく、そして甘みがあって──胡瓜は決して青臭くなくマヨネーズが程よい加減で卵の味を引き立てていて──うどんも美味しかったが、これはまた美味しい──。
飛雄馬はごくん、と十分に咀嚼したサンドイッチを飲み込み、どうだった?と尋ねる花形に、美味しかったです、と答えた。
「それはよかった。次は自分で頼んでみるといい」
「……何か、話でもあるんですか。こんなところにまで来て」
「話?用がなければきみとは話すこともできないのかね」
言うなり、花形が音もなく、すうっと腕を伸ばしてきて飛雄馬は何事か、と思わず身構え、瞬きするのも忘れ、その腕の挙動を見守る。
「な、っ、……」
「口に、ついていたよ」
ふ、と飛雄馬の口元に触れた花形の指先は、そのまま彼の唇へと運ばれた。
「…………!」
その一連の流れを、身動きひとつ取れぬまま見つめていた飛雄馬は、花形に微笑まれ、口に卵を付けて試合に出るところだったね、の一言に返す言葉もなく、全身にどっと冷や汗をかいた。
伸ばした腕で何をされるのか、と驚いたのはもちろんだが、もしかすると花形の言ったとおりに、口元の汚れに気付かず、マウンドに立っていたかと思うと考えただけでも恐ろしいものがある。
「なに、そう深刻に捉えることもないだろうに。フフ、肩の力を抜きたまえよ、飛雄馬くん……今からそれでは試合でバテてしまうよ」
花形は空の皿を手に、席を立つと椅子に座ったままの飛雄馬を残し、食器類を返却口に返してから入ってきたジャイアンツの選手と、入れ違いになるように食堂を出て行った。
「お、星じゃないか。今日も頑張れよ。期待してるぜ!」
「え、ええ……はい」
おばちゃん、カレー大盛りね、と受取口に向かって叫ぶ、同じジャイアンツのユニフォームを纏った選手の姿を飛雄馬は見つめながら、口内に残るサンドイッチの味と、唇に触れた指の感触を払拭するため、コップにあらかじめ注いでおいたぬるい水を口に含み、それをゆっくり、喉奥へと追いやった。