食事
食事 どうやら居眠りをしていたらしい。
飛雄馬は激しい雨音で目を覚ます。
ソファーに腰掛け、本を読んでいるうちにそのまま眠ってしまったようで体のあちこちが固まってしまっており、飛雄馬はぼんやりとした頭でカーテンの開けっ放しになっていた窓辺に視線を遣った。
晴れた日には窓ガラス1枚を隔てた先に東京タワーが高々とそびえ立っているのだが、雨のせいでその姿は霞んでしまっている。
次第に目が冴えてくるに従い、空腹感を覚えながらも、飛雄馬はこの雨の中、外に出るのは億劫だなとソファーの背もたれに体を預けつつ目を閉じ、冷蔵庫の中身をまぶたの裏に思い描く。
確か卵があったはずだ、昨日の晩に炊いた米がまだ残っていたからそれでオムライスかチャーハンでもと思案しつつも、なかなか腰が上がらぬまま、飛雄馬は雨音に聞き入る。
雨が降り続いてくれれば、伴と会わずに済む。
ああ、どうして、ふとした時に思いだすのは親友の顔なのか。
もはや伴は、ジャイアンツの彼ではなく、中日ドラゴンズの8を背負ったひとりの打者だと言うのに。
飛雄馬が目を開け、ぼうっと何も映してはいないブラウン管に目線を遣ったと同時に来客を告げるチャイムが鳴り響き、束の間の静寂に終わりを告げた。
飛雄馬はゆっくりと立ち上がると、再び鳴ったチャイムに導かれるように玄関先へと向かい、チェーンを外すと鍵を開け、ドアノブを捻る。
と、そこには雨に濡れた花形が立っており、飛雄馬はあまりのことにその大きな目を見開いた。
「……急なことで、星くん。驚かせてすまんが、見ての通り雨に降られてしまってね」
よもや伴、はたまた姉の明子の来訪ではと些か期待して扉を開いた飛雄馬だったが、まさかのライバルの登場に驚きつつもずぶ濡れのままの彼を返すわけには行くまいと部屋に招き入れ、タオルを手渡してやった。
「……シャワー、使ってください。着替えくらいは、用意できます」
花形は礼を言うと、タオルで頭や体を拭いてから、飛雄馬に導かれるまま案内された浴室へと入った。
果たして、花形が使うシャワーのものなのか窓の外で降り続く雨のそれなのか判別のつかぬ水音をどこか遠くで聞きつつ、飛雄馬は新品の下着をタンスの中から取り出すと、上下の衣服と新しいタオルを手に脱衣所へと足を踏み入れる。
するとちょうど浴室から出てきた花形と鉢合わせ、飛雄馬の瞳孔は驚きのあまり再び大きく開いた。
「…………フフ、良ければ、出ていってもらえると助かるが。見られるのはあまり気分が良いものではないからね」
「あ……」
飛雄馬はバツが悪そうに目を逸らし、花形に一式を手渡すとそそくさと脱衣所を後にする。
リビングに戻った飛雄馬はその手でテレビのスイッチを入れ、特に観るつもりもないバラエティにチャンネルを合わせると花形の帰りを待つ。
「まさか、雨に降られてしまうとはね」
突如、なんの前触れもなく背後から現れた花形に飛雄馬はギクッと体を震わせた。
「……服、は着られましたか」
「少し小さいようだが、文句を言える立場でもあるまい。突然現れたにも関わらず受け入れてくれたことにも礼を言う」
「いや……礼を言われるようなことはしていない。それにしても、珍しい。花形さんが東京にいるとは」
「車の整備点検を頼む下請けがこの近くでね。立ち寄ったはいいがこの有様さ。ラジオでは夜遅くに降ると言っていたから安心しきっていた」
「……そう、でしたか。ところで、何か、食べますか。お昼、まだなんです」
「へえ……奇遇だな。ぼくも昼食にしようと思っていたところに降られたからね」
飛雄馬はそこで少し、休んでいてくださいと花形に告げてから台所に立つ。
冷蔵庫の中に数枚残っていたハムやら使いかけの玉ねぎなどを使い、それらでケチャップライスを作ると、卵で器用に包んでみせた。
花形さんの口に合えばいいんですけどと付け加え、飛雄馬はそれぞれの分をテーブルの上に置く。
花形が手にしたスプーンでひと口分を掬い上げ口に運ぶのを目の当たりにしてから飛雄馬もまた、スプーンの上に載せたオムライスを頬張る。
「……きみは、明子さんがいなくなってからずっと自炊生活をしているのかい」
「え?はあ、まあ、そうですね。せっかく台所のある部屋に住んでいるし、ねえちゃんの残していった食材をだめにしてしまうのは勿体ないと思ったので……長屋にいる頃からねえちゃんの手伝いはしていたから」
「……それを聞いて安心したよ星くん。伴くんとの一件の後、ろくに食事も摂っていないのではないかと思っていたからね」
「……誰かと、こんなに他愛のない話をしたのは久しぶりかもしれん。ジャイアンツの先輩方はおれの気を遣ってか伴のことは聞いては来ない」
「…………」
ふふ、と飛雄馬は苦笑し、オムライスをスプーンで突き崩す。
「飯だって、未だに伴の分、多めに炊く癖が抜けない。ふふふ、もう会うことはないだろうに」
ぽつり、ぽつり、言葉を紡ぐ飛雄馬の横で花形はオムライスを掬い、次々と口に運んでいく。
「星くん」
「え?」
はっ!と弾かれたように飛雄馬は顔を上げ、名を呼んできた隣に座る男の顔を見据える。
「図々しい申し出で申し訳ないが、水を一杯、もらえないだろうか」
「……あ、は、はあ」
花形の、この彼らしいマイペースさに今は救われる。
人の事情などどこ吹く風で、自分の主張を真っ直ぐに通してくる芯の強さとでも言うのだろうか。
下手に同情などされようものならそれこそ潰れてしまいかねない。
飛雄馬は台所の戸棚からコップを取り出すと、冷蔵庫の中から作り置きしていた麦茶の容器を取り出す。
だいぶ庶民的なこの光景にあまりに花形という男の存在が不釣り合いに見えて、飛雄馬は思わず、ぷっと吹き出した。
花形が行くような食事処は名の知れた一流店であろうに、野球一筋に生きた男の無骨な手で見様見真似で作られたオムライスを平らげ、水道水で作った麦茶で喉を潤すなんて。
「…………」
麦茶のコップを手渡し、飛雄馬は席につくと残りのオムライスを食べ進める。
そういえば、まともに食事をしたのも久しぶりかもしれない、とこの数日の自身の様子を反芻しつつ飛雄馬は口の中に広がる懐かしいケチャップの味にじわりと瞳が潤むのを感じる。
洋食を好まなかったとうちゃんから離れ、以前から興味のあったらしいオムライスやカレーやらを料理本とにらめっこしながら作っては、ニコニコと嬉しそうに微笑んでいたねえちゃんの顔がありありと浮かんだからだ。
それを何度もお代わりしては帰りにはいつもお礼ですと万札を置いていこうとした伴の顔。
それらが一瞬のうちに、走馬灯のように脳裏に浮かんで、飛雄馬はぐっ、とこみ上げる涙を堪える。
「星くん、顔」
「え?」
言われ、飛雄馬は顔を上げる。
花形の手が音もなく伸びてきて、そのまま飛雄馬の口の端に触れた。
驚き、手を払いのける間もないまま、触れた指は飛雄馬の唇の上を撫で終えるとゆっくりと離れていき、花形の口の中へと滑り込む。
「そう慌てて食べなくとも誰も取りはしないさ」
「っ…………」
ここに来て初めて飛雄馬は頬を染める。
花形はニヤリと口角を上げると、半分ほど残っていた麦茶を飲み干した。
「今のうちに、帰られてはどうです。服は洗濯、しておきますよ」
今度の試合のときにでもお渡しできれば、と飛雄馬は花形から視線を逸らすと、あと少し残っていた皿の中身を口に無理やり押し込み、咀嚼もそこそこにそれをごくりとやる。
花形と突然の来訪に気を取られ、カーテンを閉めないままになっている窓の外では未だに大粒の雨が降り続いていた。
「しばらく、ここにいてはいけないかい。整備工場との約束の時間が2時でね」
2時、と飛雄馬は手首にはめた腕時計で現時刻を確認し、あと1時間くらいならなんとか、と自分が食べ終えた皿と花形の使っていた皿を手にすると台所へと向かう。
コーヒーでも飲みますかと花形に言葉をかけてから飛雄馬は洗い物を片付けにかかった。
とはいえ、洗い物の数などたかが知れており、数分足らずで後片付けを終えると、飛雄馬はやかんに水道水を注ぎ入れ、それをコンロの火にかけた。
「雨、止みそうにないですね」
やかんの底を舐める青い炎を眺めつつ台所から飛雄馬は花形に他愛もない話を振る。
「止まなければいいのに──」
「え?」
花形の発言にどきっ、と飛雄馬の心臓が跳ねた。
「ふふ、そう、きみの顔に書いてある。雨が降ればその分、かつての親友と相見える日にちは延びる」
「うふふ……早ければ早いに越したことはない。延びれば延びるほどおれはその日が恐ろしくてたまらない」
沸騰した湯を使い、それぞれ客人用のカップと普段使い用のマグカップにコーヒーを淹れると、飛雄馬はそのふたつを手に、花形の待つリビングへと再び足を踏み入れる。
どうぞ、とカップを乗せたソーサーごと花形に手渡し、飛雄馬はマグカップに口を付ける。
ああ、このコーヒーも伴の趣味で買ったものだ、と飛雄馬は眉間に皺を寄せ、ここには彼の面影が多すぎる、と目を細めつつマグカップの中身を啜る。
いっそ、伴が置いていったものはすべて、処分してしまおうか。
そっちの方が、気が晴れるかも知れないな、と窓を叩く雨音を聞きながら飛雄馬は考える。
「きみを打つ相手は何も、伴くんひとりだけではないからねえ」
「────!」
弾かれたように飛雄馬は顔を上げ、カップに口を付けた花形の横顔に見入った。
「……一瞬、あなたとの関係を忘れそうになった。ふふ、人間、落ちているときは何にでも縋りたくなるものですからね」
「ぼくなりの励ましのつもりだったのだが、ふふ」
カップをテーブルの上に置き、花形は飛雄馬の顔を真っ直ぐに見据えると話を続ける。
怒りの感情も、時には人を奮い立たせるだけの力を持つからね、と。
「花形さんには、いつもそうやって励ましてもらってばかりですね。そう、いつだって、あなたの姿はどこかしこに見え隠れしていた」
「…………」
「間もなく、2時になる。花形さん、また」
「また、か。ふふ、立つ気になってくれたようだ」
「…………」
飛雄馬は答えず、代わりにニッ、と笑みを浮かべると、濡れた服は持ち帰るという花形にそれらを入れる袋を渡してから彼を玄関先まで送った。
下まで送るという飛雄馬の申し出を花形は断り、傘だけ借りさせてもらうよと言うなり、その足で部屋を出る。
疾風のように現れては去っていく、昔懐かしい覆面ヒーローのようだと飛雄馬はまたしても苦笑し、リビングの先程まで座っていた箇所に腰を下ろすと、冷えた残りのカップの中身をゆっくりと啜る。
わざわざ、雨に濡れてまで部屋を訪れてくれたであろう花形のことを思いつつ、飛雄馬は目を閉じると、降り続く雨の音に耳を澄ませた。