車内
車内 すっかり遅くなってしまったな、と花形は自身が専務として籍を置く花形コンツェルンの従業員駐車場に停めていた自家用車に乗り込んだ。
普段ならば運転手を雇い、送迎等を頼んでいるのだがこの日ばかりは花形も仕事が立て込んでいるからと先に彼を帰らせ、自分で運転して帰宅することにしていた。
妻である明子には今日は遅くなる、とあらかじめ連絡を入れておいたが、彼女のことだからきっと食事もせず、眠りもせず自分の帰りを待っているのだろうな、と花形は苦笑し、車のエンジンを掛ける。
腕にはめる時計に視線を落とせば、短針は11の位置を指しており、花形はいよいよ以て、早急に帰らねば、とハンドルを握った。そうして車のヘッドライトを付けて、ギアを入れ替えアクセルを踏めば車はゆっくりと走り出す。己が屋敷までは車で二十分少々、と言ったところか。
間もなく日も変わる時分、外を歩く人もほとんどいない。それもそうだ、今日は一段と冷える。花形は羽織るコートの襟元をぎゅっと握り締めた。
ふと。ヘッドライトが道行く人を照らした。花形はこんな夜更けに寒空の中散歩なぞと洒落込む物好きもいるものだ、とその人影を横目で見送った。
そうして、花形はハッ!と今や車が進んだ分、後方を歩く人物をバックミラーで見遣って、ブレーキパッドとクラッチパッドを強く踏み込む。車には強力なブレーキが掛かり、アスファルトをものすごい音を立てながら擦り上げ、停車した。
あれは、あの男は――
「星くん!」
ギアをリバースの位置に入れ、ハンドブレーキを引いて花形は車のドアを開けると駆け出した。星くん!と再び花形は大声で先を行く人物を呼び、その左腕を掴むとぐいっと力任せに引き寄せ、彼の体ごと己の方を向かせた。
「………」
深夜だと言うのにサングラスを掛け、野球帽を目深に被って肩まで黒髪を伸ばしている奇妙な出で立ちの男は己の腕を掴んだ花形を振り返り、目を瞬かせる。濃いサングラスのレンズと深夜の闇夜のお陰でその瞳の動きまでは花形には見えない。
「星くん、ぼくだ。花形だ」
一瞬、花形が腕を掴む男はビクッと体を跳ねさせたが、すぐに顔を振り、一言、人違いだ、とだけ冷ややかに言い放った。
「馬鹿な、ぼくがきみの顔を見間違うわけが…………」
「とにかく、放してくれないか」
「逃げない、と約束するなら放してやる」
「逃げるも、逃げないもおれはきみの言う星とか言う男ではないからな、話すことなど何もないと思うが」
「星くんじゃない、と言うのならサングラスを外してくれたまえ」
「……か、勘弁してくれ。目元に傷があって見られたくない」
そう、言った目の前の男、その左腕を握る手に花形は力を込める。
「っ………!」
腕の痛みに呻いた男の隙を突き、花形はサングラスのブリッジを指で抓むとそれをひょいと持ち上げた。
「やっぱり、そうじゃないか」
そのレンズの下から現れた瞳に花形は微かに笑みを浮かべる。この男、名を星飛雄馬と言った。花形とは小学校に通っていた頃からの旧知の仲である。
かつてブラックシャドーズと言う不良少年野球チームを組んでいた彼の無敵のノックアウト打法を破ったのはこの男が初めてであり、花形を野球の道へと引きずり込んだ張本人であった。
高校球児たちの夢の舞台である甲子園決勝で割れた親指の爪のことを最後まで隠し通し、投げ抜いた彼のことを、大リーグボール一号を打ち取ったあと、見舞いに来てくれた彼を、巨人―中日戦で完全試合を達成したのち、忽然と姿を消してしまった星飛雄馬という男を、花形はあれから一日たりとも忘れたことはない。
「……人違いだ、他人の空似だ」
「まだ白を切るのか?探したぞ、皆、きみの姉である明子も、伴も、そしてぼくも」
「…………」
男は、一度花形から視線を逸らしたが、ふっとその長いまつげの生え揃う瞼を上げ、彼を仰ぎ見た。
「星、くん」
「………なぜ、分かった」
男の大きな黒い瞳が花形を捉え、形の良い唇がそう、言葉を紡いだ。ハッ、と花形はその瞳に射抜かれ、魂の抜けたがごとく呆けていたが、目を数回瞬かせ、「分からんはずがないだろう、宿命のライバルの顔を忘れるはずがない」と笑んでみせた。
「ライバル、ふふ……そんな、ものだろうか」
「ぼくと明子の、きみの姉さんとの結婚式にも祝電を寄越したのみで、今まで何を………いや、よそう。せっかく会えたというのに説教がましいのはよくないな」
「………皆、元気か」
「皆?ああ、元気さ、ぼくも伴もきみがいなくなって現役を引退したが、左門くんは今なお、大洋で活躍しているよ」
「それなら、良かった」
男は――星飛雄馬は今にも涙をその頬に滴らせそうな、そんな顔をして、震える声で言葉を紡いだ。花形はぎゅっと唇を引き結んで、飛雄馬の腕を掴んだまま歩き出す。
「は、花形?」
「乗って」
「え?」
「車に。こんな寒空の下じゃあ世間話と言うわけにもいくまい」
「放せ、花形!花形っ!」
エンジンを掛けたままの自車の後部座席に飛雄馬を押し込んで、花形は運転席に乗り込むとドアロックをして、車を走らせる。
「車を止めろ、花形」
「………」
「花形っ!」
「残念だがその頼みを聞くわけにはいかない」
バックミラー越しに花形は飛雄馬を見遣って、つい先程まで駐車していた花形コンツェルンの従業員駐車場へと再びやって来ては、車をそこへ止めるとヘッドライトを消し、エンジンを切った。
フッ、と辺りは闇に包まれ、遠くに街灯の明かりが見えるのみとなる。
花形はドアを開け、一度外に出てから飛雄馬の隣に座るべく後部座席の扉を開けた。
刹那、花形が乗り込んできた側とは逆のドアから出て行こうとする飛雄馬の腕を掴んで、制止させる。
「また、逃げるのか」
「きみと、話すことなど何もない」
「いいや大いにある。何ならこのままぼくの家に直行してもよかった。それをしなかっただけでも十分、きみの気持ちを汲んだつもりだが」
「…………」
飛雄馬は目を伏せ座席の背に凭れると、分かった、と小さな声で呟いた。
「冷えるだろう、会社の中にどうだい。暖房も効くようになっている」
「ここでいい。いや、花形さんが風邪でもひいたらねえちゃんに迷惑がかかるか」
ふふっ、と飛雄馬は笑って、広い車内の中で足を組む。
「………久しぶりにきみの笑顔を見た気がするよ。いや、こうして話をすること自体、初めてに近いが」
「そう、だったかな」
「そうとも………」
花形は飛雄馬との距離を詰めると、ふいに彼の肩を掴み、ぐっと抱き寄せた。
「………!」
驚き、目を見開いた飛雄馬の顔が花形の二つの瞳に映る。そのまま彼の顎に指を掛け、花形は顔をやや傾けてから口付けを迫ったが、それは飛雄馬の手によって阻まれた。
「……よしてくれ。きみはもうねえちゃんのものだ」
花形の口元を手で押さえ、飛雄馬は首を振る。
「………」
すると花形は飛雄馬の顎に掛けていた親指で、彼の唇を撫でたかと思うと、ふいにその指先を飛雄馬の口内に滑らせた。まったくの不意打ちで、抵抗する間もなく、歯列を撫でた花形の指は飛雄馬の舌に乗る。
「は、っ………」
花形の指は飛雄馬の奥歯の付け根を撫でて、頬の内部、粘膜をなぞった。ぬるぬると唾液を纏う指が舌の表面を撫でて、飛雄馬は顔をしかめた。
「きみもだいぶご無沙汰だろう」
唾液に濡れた指を飛雄馬の口から抜いて、花形は今度こそ彼の唇に口付ける。開いた唇の、その奥へと花形は舌を滑らせ、今度は指ではなく、自身の舌で飛雄馬の舌の表面を愛撫した。
「っ、ふ……ぅっ」
抵抗するがごとく伸びてきた飛雄馬の両腕を掴んで、花形は彼の体に少し体重を掛け彼の体を押し倒してやる。体勢を崩した飛雄馬の体を花形は座席ではなく窓へと背を預ける形を取らせた。
そうして、飛雄馬の被る帽子を外してやって、花形はごくり、と喉を鳴らした飛雄馬の穿くスラックスのベルトを緩めた。
「あ、あっ、花形」
前を開いて、下着の中に花形が手を入れると膨らみかけつつあった逸物に行き当たる。床に落ちた飛雄馬の右足が震え、爪先がピンと伸びた。それを花形は握って、亀頭部位を親指の腹で撫でる。ビクッと飛雄馬の体が跳ねて、花形の手にした逸物も熱を持ち、首をもたげた。
「………飛雄馬くん」
囁くように名を読んで、花形は飛雄馬の男根をゆっくりとしごき始める。
「は、ぐ、っ………っ!」
呻いて、飛雄馬は瞳からすうっと涙を頬へと滑らせた。後部座席はスモーク貼りを施してある花形の車であったが、その車窓は熱気で曇りつつある。飛雄馬の吐息と、花形が逸物を擦る音がいくら庶民が乗る大衆車より広いとはいえ、閉鎖された空間の中でやたらと響いた。
「会えて嬉しいよ、また、きみにこうして」
「いっ……花形、さ……」
「ふふ、出したまえ。思う存分……」
「っ、あ、アッ……」
花形は飛雄馬の精を掌で受けると、何を思ったかそのまま口で荒く呼吸を繰り返す目の前の彼の口元へと遣ったのだ。
「…………」
肩を上下させつつ、飛雄馬は花形を睨み据えたが、その唇から舌を出すと彼の掌に舌を這わせ出す。
嫌だ、と抵抗すればまた何やらこの男は言い出すだろう、と踏んで飛雄馬は自分から花形の申し出を飲み、実行に移した。掌に付着した白濁を啜って、飛雄馬は花形の指を舌でなぞる。
唾液に混ぜた己の体液を喉奥に追いやって、飛雄馬は眉間に皺を寄せた。と、花形は飛雄馬に自身の手を舐めさせつつ、彼のスラックスと下着を掴み、ぐいとそれを引き寄せる。
容易く飛雄馬の足からそれらは抜け、花形は足元へとスラックスを放った。それに引きずられるようにして飛雄馬の頭は座面に落ち、その裸となってしまった下半身には革張りの座席が触れ、ヒヤリとした感触を彼に伝える。
左右に開いた飛雄馬の足の中へと体を滑らせ、花形は車内に置いてあった明子のものであるらしきハンドクリームの蓋を開け、中身を取り出した。
「どこをどう探そうとも見つからなかったきみが、なぜ関東にいる?」
花形は尋ねつつ、飛雄馬の開かせた足の中心、その尻へと指を這わす。後孔にそれを塗り付けてやると、飛雄馬の体は花形が指を動かすたびに反応した。
「誰かに会いに来たのか」
言いつつ、花形は飛雄馬体内へと指を飲み込ませる。
「う、あっ!」
指先で肉壁をくすぐるようにして花形は奥へと指を進ませる。そうして、ぐりっと指を回転させた。
「っ、っ………!!」
「声ならどれだけ出しても聞かれる心配はないぞ飛雄馬くん……」
呻いて、体を仰け反らせた飛雄馬の首筋へと口付け、花形は囁きつつ、挿入させたままの指で彼の体内を掻き回した。
「いっ、っ……!!はな、っ」
「質問に答えたまえ、飛雄馬くん」
「べ、っつに、気……っン、まぐれ、だっ………」
「気まぐれで誰かに見つかるようなリスクをきみが侵すとは思えない。会いに来たんだろう、こそこそと」
「………」
閉じていた目を開け、飛雄馬は花形を仰ぐ。
「だ、れに……」
「まだ白を切るのかね、きみは」
指を抜き、花形は穿いているスラックスのファスナーを下ろし、中から怒張した逸物を取り出すと、飛雄馬の右足を脇に抱えた。そしておもむろに彼の後孔へと手を添えた亀頭を宛てがって、ぐっと腰を突き入れる。
片足が床に付いたままでは花形とて心許ないが、狭い車内ゆえにそれは仕方がない。
窄まっていたそこに男根を押し込まれ、飛雄馬の体は反射的にそれから逃げようと上ずったが、花形は彼を追うようにして深く腰を叩いた。
「はっ、花形さ、ァ、あっ!!」
「あの男はきみをどういう風に抱く?行方を眩ませたきみがわざわざ会いに来るくらいだ、それはさぞ……ふふっ、」
「ちが、ァっ………あ、ああっ、あうっ」
「何がどう、違う」
「おれはっ、花形さ………あなたにっ、」
はっ、はっ、と時折荒い呼吸を交えつつ、言葉を紡ぎながら飛雄馬は花形を仰いだ。
「ぼくに?」
「だっ、め………く、るっ」
びくうっ!と飛雄馬は体を仰け反らせ、その後、ヒクヒクと震える。
しかして、花形は腰の動きを緩めるでもなく、より激しく飛雄馬の中を穿って、肉壁を逸物で擦った。
「だめ、いやだっ……!いやだ、いっ、っ……」
「それが嫌がる顔かね。どう見てもイイようにしか見えんが」
座面を爪で掻いて、飛雄馬は喉を花形に晒して喘いだ。
「やめっ………あっ………っく、くっ」
幾度めかの絶頂を迎え、飛雄馬は花形を締め付ける。飛雄馬の頭はガンガンと激しく痛み、その熱く火照った頬を涙が滴り落ちた。すると、花形はぐりぐりと腰をグラインドさせて飛雄馬の腹の中を抉る。
そうすると、ただピストンされるだけでは触れない箇所を固く熱を持った花形の逸物が撫であげて、擦って、再び飛雄馬を昇りつめらせる。
「ひっ、ぐ……んぅうっ」
座席を掻く飛雄馬の手を撫でて、花形はその指を絡ませた。そうして再度、腰の動きをピストンのそれへと変えて、己も達するために腰を叩きつける。
「あ、っ………頭おかしくっ、な……る」
そんな声を漏らす飛雄馬の中へと花形は射精して、汗をびっしょりとかいた彼の、額を撫でた。
貼りついた前髪を指で拭ってやって、花形はゆっくりと飛雄馬の中から自身を引き抜くと、後処理もそこそこに座席に背を預けるように座り直すとスラックスの中に仕舞い込んだ。
はあ、はあと腹で呼吸をする飛雄馬を横目で見遣って、花形は彼の開いたままの足の間に再度横座りのまま体を滑り込ませ、彼の唇に己のそれを押し当てた。
「ふ………」
ちゅうっ、と唾液を吸って、濡れた唇を離すと熱い吐息が飛雄馬の口からは漏れる。
「それで、ぼくに用とは」
「………大したことじゃない。ただ」
「ただ?」
「………ねえちゃんを、よろしく、と」
花形は弱々しく、そんな台詞を吐いて体を起こす飛雄馬を見つめつつ、膝の上に置いた手、それをぎゅっと握り込む。
「伴や、ねえちゃんには会ったこと、言わないでくれ」
「………」
「花形?」
「約束しよう」
やっとのことでそうとだけ言葉を発して、花形はドアを開け、後部座席から降りると運転席へと乗り込む。
言ってはいけない言葉ばかりが頭の中を巡って、花形は目を閉じる。
飛雄馬はそんな花形の心中など知るはずもなく、淡々と足元に投げ捨てられていたスラックスたちを身に付けると、車のドアノブに手を掛けた。
「会えたのが、花形、さんで良かった。ふふ、伴やねえちゃんならきっと、大騒ぎしていただろうからね」
帽子を被り、サングラスを掛けつつ開いたドアから出て行きながら、飛雄馬はボソリとそんな言葉を口にする。
「飛雄馬くん」
名を呼んだ声も飛雄馬がドアを閉める音に掻き消される。花形はバックミラーに映る飛雄馬の後ろ姿をじっと見つめたまま、微動だにしなかったが、その姿が見えなくなるとふいに目を閉じ、キーを捻って車にエンジンを掛けた。