捨鉢
捨鉢 飛雄馬は、とある大衆食堂のテーブル席にて夕食を取りつつ、ブラウン管テレビに映し出されている野球中継に見入っている。
今日こそは、この回こそは。
そう、祈りにも似た感情を抱きながら新生・長嶋巨人軍の試合展開を見守っていた。
焼酎の入ったグラスを持つ手に思わず力が篭もる。
「隣、いいかい」
「…………!」
ふいに、予期せぬところから声をかけられ、思わず飛雄馬はテレビ画面から視線を外す。
「先程からずっと箸もつけずに見入っているね。そのナリから察するに長島ファンかい」
この声を、おれは知っている────。
飛雄馬は、サングラスのレンズ越しに隣に座る男の顔をしばらく見つめていたが、ふと、目線を逸らした。
「何の気まぐれで声をかけたか知らんが、おれには生憎、あんたのような金持ちに知り合いはいない」
「人捜しをしていてね。きみのように巨人の野球帽をかぶった男性には声をかけさせてもらっている」
「へえ、気の長い話だな。この関東だけでもジャイアンツの帽子をかぶった男は星の数ほどいるだろうに」
飛雄馬はあえて無愛想に、飄々とした態度を取る。
隣に座った男は、アルバイトの女性店員を呼び付け、ビールとグラスをふたつ、と彼女に言いつけた。
「なに、だからこそ、ぼくがこうして出向いたのさ。宿命のライバルの花形満がね。会えば一目でわかる。ぼくと彼は、そういう関係さ」
ニッ、と彼が──花形が微笑む。
飛雄馬はその含蓄ありげな笑みに、ゾクッ、と肌が粟立つのを感じたが、平静を装い、大した自信だな、と皮肉を口にする。
すると、二十歳そこそこであろう若い女性店員は花形の雰囲気に当てられでもしたか顔を真っ赤にしながら盆に乗せた瓶ビールとグラスをふたつ、注文通りに持ち寄り、それぞれテーブルの上へと並べた。
「ありがとう」
花形がそう言うと、彼女は頭を深々と下げ、奥へと引っ込む。
飛雄馬は花形が手にしたグラスを自分の目の前に置いたのを一瞥し、何のつもりだ、とサングラスの奥で眼光鋭く尋ねた。
「何の、とは?ぼくの奢りだ。気にせず飲みたまえ」
「…………」
花形は飛雄馬の醸し出す不穏な、張り詰めたような雰囲気など気にも留めていない様子で瓶を傾けグラスにビールを注ぐと、それを一息に煽る。
それから、どうぞと言わんばかりに花形は飛雄馬の前に並々とビールを注いだグラスを勧め、彼自身もまた二杯目を飲み干した。
触れられることのなく、テーブルの上に置かれたままになっているグラスの中身は泡が立ち消え、今や黄金色をした液体が思い出したかのように炭酸の気泡を吐き出すのみとなっている。
「ビールは嫌いかね」
「…………」
「察しが悪くて申し訳ない。何か好きなものを頼むといい」
「いらない。さっきからひとりで話を進めて、あんたは一体誰なんだ」
飛雄馬は語気鋭く言い放つと、顔色ひとつ変えずこちらを見つめてくる花形の顔をじっと見据えた。
「……ぼくは一目で気付いたというのに、相変わらずつれないね、きみは」
フフッ、と花形は笑みを溢すと、再び店員を呼び留め、焼酎をストレートで一杯、頼んだ。
「誰と勘違いしている?」
「星飛雄馬くん、きみだよ」
「────!」
花形の言葉に、さあっ、と飛雄馬の全身から血の気が引く。逃げなければ。ここから。一刻も速く。
だが、そんなことをすれば、この定食代を踏み倒してしまうことになる。
花形に勘定を押し付けるか。しかし──。
「……逃げ出さないところを見ると、きみの頭には一瞬、ここの勘定のことがよぎった、そうだろう。お人好しもきみの長所だろうが、今はなりふり構わず逃げるべきだったね」
「う……」
「フフ、ぼくの勘もまだ鈍っちゃいないようだ。探したよ、星くん。いや、あえて飛雄馬くんと呼ばせてもらおうか」
「馬鹿な、人違いだ」
飛雄馬が叫んだところで、先程の女性店員が焼酎入りのグラスを持ち寄る。
その叫び声に驚き、彼女はあわやグラスを取り落としそうになったが、間一髪、花形がそれを食い止めるに至った。
先程から疎らとは言え、店内で夕食を摂っている客の視線が痛く、飛雄馬は帽子を目深にかぶると、花形の手から焼酎入りのグラスをひったくり、それを一息に飲み下す。捨鉢になってしまっているのは百も承知だ。怒りも、悲しみも、後悔も全部、このアルコールが忘れさせてくれる。
飛雄馬は、あれ程嫌っていた酒に、自分の父がしていたように溺れるようになってしまっていたのだ。
一杯目を口にしたが最後、飛雄馬は花形のことなど気にも留めず、運ばれてくる焼酎入りのグラスを空にしていく。
「…………」
花形が、泡の消え、ぬるくなったであろうビールを口に含むのを目の当たりにしたのを最後に、飛雄馬の意識は一度、そこで途切れた。

「う…………」
頭がひび割れそうに痛む。
おれは、今、どこにいるのか。
いつものように酔っ払って、どこか道端で眠ってしまっているのか。
もしかすると、まだ夢を見ているのかも知れない。
それにしても、喉が渇く……水は、近くに公園は……。飛雄馬はうわ言のように水、水と繰り返し、眉根を寄せる。喘いだところで、誰かが助けてくれるわけはないのだが。
体を起こして、立ち上がらなければ。
と、唇に何かが触れたと思った刹那、何やら冷たいものが口内に滑り込んできて、飛雄馬はそこで初めて目を見開くと、体を起こした。
「あ……!?」
口の中に放り込まれたもの──冷たく固い、氷の塊を飛雄馬は奥歯で噛み締め、口の中に溜まった水を喉奥へと追いやる。
「もうひとつ、必要かね」
「っ………」
飛雄馬は口元を押さえ、花形が何やら琥珀色の液体で満たされたグラスを傾ける様を見つめる。
どうやら、ここはホテルの一室のようで、自分が体を預けていたのはそこに置かれているベッドの上であることを察した。サングラスも、帽子も身に着けていない。
無理に体を動かすと頭が痛む。
尋ねたいことは山ほどあるが、飛雄馬は頭を押さえると、そのままベッドに背中から倒れ込む。
横になっていると幾分か痛みが和らぐ。
花形がおれをここまで連れてきてくれたのだろうか。
とんだ醜態を晒してしまった。
食事の代金も、飲んだ酒のそれも立て替えてくれたのだろうか。
目を閉じ、痛みが治まるのを待っていた飛雄馬だったが、体を横たえているベッドが何やら重みを感じたか軋んだような音を立てたことに気付き、ハッ!と目を開ける。
するともう、すぐ目の前に花形の顔があって、飛雄馬は抗う間もないままに彼の口付けを受けることになった。
「あ、ぅ……!」
今度は僅かに酒の匂いを孕んだ氷の欠片が口の中に挿入され、飛雄馬は呻いたが、続けざまに今度は熱を持った舌が入り込んできて、思わず体を震わせる。
互いの舌が絡み、唇を触れ合わせるたびに氷が溶け、飛雄馬はそれを飲み込むために喉を鳴らす。
「っ、」
顔を背け、逃れようとする飛雄馬の両手と顎先をそれぞれ掴んで、花形は再び、濡れた唇を貪った。
体が熱いのは、酔っているせいか。
それとも、花形のせいか。
飛雄馬は着ているシャツの裾から直接、肌に触れる指先に身をよじり、痛む頭に顔をしかめた。
「やめ……っ、う、ぅ」
シャツをたくし上げ、露わになった飛雄馬の腹に花形は舌を滑らせ、そっと肌に吸い付く。
ビク!と変に体が反応し、飛雄馬は自分の臍下がにわかに、下着の中で立ち上がりつつあることに気付く。
やめろ!と花形の体を懸命に押し返すが、痛む頭ではろくに腕に力を込めることもできない。
と、花形は飛雄馬の穿くスラックスのファスナーに手をかけ、中に指を差し入れると、そこから半ば勃起しかけている男根を取り出し、一度頂上から根元まで、ぬるっと先走りに濡れるそれをしごいた。
「あ………!!」
びくん、と腰が引け、飛雄馬は奥歯を強く噛んだが、またしてもすぐに胸の突起を強く吸われることになり、開いた口から高い声を上げる。
「嫌だと言いながらこれではね、フフ。飛雄馬くん、嘘はよくない」
「う、そ、じゃ……あ、っ!」
花形は飛雄馬の根元まで下ろした手を、再度頂上まで滑らせてから、今度は張り出したカリ首の位置と裏筋とをゆるゆるとしごいた。
花形が手を上下に滑らせるたびに、飛雄馬の男根からはとろとろと先走りが溢れ出る。
先走りに濡れた手で男根を擦る卑猥な音が、飛雄馬の耳を犯し、頭痛も相俟ってか意識を朦朧とさせた。
「あ……ぁ、っ……う、」
掠れた呻き声を上げ、飛雄馬は虚ろな目を花形へと向ける。
「限界が近いね。手短に済ますとしようか」
言うなり、花形は男根を擦る速度を速め、射精によって飛散し指に付着した精液を舌で舐め取ると、腹を呼吸に合わせ上下させる飛雄馬の唇へと口付けた。
「ふ……っ、む……」
花形にされるがままに精液の混じった唾液に舌を絡ませ、飛雄馬は彼に促されるままに足を開く。
だめだ、いけない。逃げなければ。
頭ではわかっているのに、体が動かない。
「ん……」
スラックスと下着を剥ぎ取られ、肌に直接触れるベッドのシーツがやたらに冷たく感じるのは、やはり酔いのせいか。
ああ、もう、どうにでもなってしまえ…………。
もう、この男に、おれを星飛雄馬だと知る男に会うことは二度とないのだから……。
飛雄馬は目の前の男の顔を涙に濡れた瞳に映し、そうして、ふと、脳裏によぎった彼の名を、何気なく呼んだ。
と、腹の中を解すように動いていた指が突如抜き取られたかと思うと、それ以上に質量のある、熱い感触が開かれた足の中心に触れて、飛雄馬は、ハッ!とそこでようやく我に返った。
「まさかここに来て間違われるとは気分が良くないな飛雄馬くん」
無理やり、体内に押し入ってきた熱に、飛雄馬は身をよじるが、その両足は花形の腕、その脇の下に絡め取られている。
「ふ……ぅ、っ……!!」
狭い内壁が、花形の形に作り変えられていく。
飛雄馬はその襞をこすり、奥へと突き進んでくる花形の感覚に目を閉じ、体を戦慄かせる。
全身、すべての神経が、花形と繋がるそこに集まっているようで、飛雄馬は開いた口から唾液を滴らせたまま、己の足の間にいる彼を見上げた。
「彼は、きみをどんな風に抱くのかね」
「っ、なこと……っ、していな、ぁっ!」
どすっ、と勢いよく腰を叩きつけられ、飛雄馬はその衝撃で軽く達すると、自分の腹の上に白濁を垂らす。
腰の一打、一打が的確に、飛雄馬の前立腺の位置を突き上げてはそこを擦った。
飛雄馬は自分の情けない表情を浮かべているであろう顔と、だらしなく喘ぐ口を塞ごうと両腕を顔へと遣るが、それぞれを花形の手で阻まれ、為す術なく声を上げる。
気を遣り続け、前後不覚となった状態で上に乗るように言われ、飛雄馬は膝立ちの格好で彼の上に跨ると腰を振った。
腹の中、自分のいい位置に花形のそれが当たるよう、飛雄馬は無意識に体の角度を調整し、腰をくねらせる。結合部から脳天まで、痺れが走って、飛雄馬は白い肌を赤く染めたまま、呼吸を整える。
しかして、花形はそれを許さず、ベッドの上に投げ出していた足、その膝を立てると下から飛雄馬の体を突き上げにかかった。
うっ!と短く呻いて、飛雄馬はその両目から涙を滴らせると、花形をその虚ろな瞳に映す。
一度、花形は上体を起こし、飛雄馬の背中に腕を回すと、彼の口元に垂れる唾液に舌を這わせるようにしてそのまま呼吸を奪った。
「……あ、っ、ん」
ゆるく舌を唇で吸い上げられて、飛雄馬は鼻がかった声を漏らすと、目を閉じる。
腹の中をゆっくり、先程とは違う動きで掻き回されて、肌が再び熱を持つ。
花形はひとしきり、飛雄馬を抱きしめたまま腰を振っていたが、その後、彼を再びベッドに押し倒すと、ようやく腹の中へと欲を放出した。
「……ぅ……」
飛雄馬は戦慄く体をベッドに横たえたまま、花形の口付けを受けると、大きく息を吐く。
びっしょりと全身に滲む汗が肌の表面を熱く火照らせている。
花形が煙草を咥えたか、室内には微かにマッチを擦ったときの焦げ臭いそれと、独特な煙の匂いが漂った。
「ゆっくり、体を休めて行くといい。ぼくはこれを吸ったらここを出る」
「…………」
それは、彼なりの優しさか。それとも罪滅ぼしのつもりか。飛雄馬は返事をしない。
「皆には内緒にしておくさ。きみと会ったことはね」
「ふ……別に、言いふらしても構わんが。もう花形さんらと会うことはないだろう」
寝返りを打ち、飛雄馬は花形に背を向ける。
「あんなに熱心に、野球中継を見つめていたのにかね」
「…………!」
相変わらず、痛いところを突く──この男は。
「何かあったら、連絡してきたまえ」
言うと、花形は煙草を咥えたまま名刺を取り出し、そこに何やら書き込み、飛雄馬の耳元に口付けてから部屋を出て行った。
誰が連絡などするものか。自惚れるのも大概にするんだな──飛雄馬は花形の嗜んでいた煙草の残り香が妙に体を疼かせる感覚を覚えながらも、仰向けの体勢を取ると、腕で隠した目元に涙を滲ませながら、ふふふ、と己の浅はかさと情けなさを、ひとり、自嘲した。