寿司屋
寿司屋 「まったくあの時の星の顔ときたら」
「またその話か」
酔った後援会長が、またおれの知らない星飛雄馬の話をしている。いい加減にしてくれよ。
丸目は、巨人寿司の大将──サチコの父が握ったマグロの握りを一息に口に押し込んで、胸中で野球部後援会長──伴へと悪態を吐いた。
今日の試合は巨人の勝ち越しとなり、気を良くした伴が奢るからと親友である星飛雄馬と、その女房役を務める丸目太を巨人寿司に誘ったことがすべての始まりであった。それぞれが腰を下ろしたカウンター席の並びは、言うまでもなく飛雄馬を挟む形で左右にそれぞれ伴と丸目が座っている。
やれビールだ日本酒だとしこたま飲んだ伴は隣に座る飛雄馬にやたらと絡み、丸目の知らない青雲高時代、はたまた左腕投手時代の思い出を語っていた。
不機嫌な態度を隠そうともせず、高いネタを片っ端から食ってやれとばかりに丸目は、サチコの父に鰤だ鯛だと思いつく限りの魚の名前を並べ立て、握られたそばから口に運んでいく。
こっちを見もしねえ。当てつけのつもりか。
おれと星飛雄馬がバッテリーを組むのがそんなに気に入らねえって言うんなら、後援会長が務めてやりゃあいいだろうに。つまらねえ、つまらねえ。
丸目は、アナゴ!と叫び、湯呑みの中身を口に含んだ。
「やぁねえ、男の嫉妬は醜いわよ、丸目くん」
「ブッ!」
今の今まで口を噤んでいた巨人寿司の一人娘・サチコにそう言われ、丸目は思わず緑茶を吹き出すと、激しく咳き込む。
「大丈夫か、丸目」
「だっ、大丈夫だ。気にすんな、っ」
隣に座っていた飛雄馬は急に噎せた丸目の体調を気遣い、そんな声を掛けた。
「ふん、大方口に詰め込みすぎたんじゃろう」
「何を、てめえ。黙って聞いてりゃ、好き放題言いやがって。おれはあんたの思い出に浸りに来たわけじゃねえんだよ」
丸目は席を立ち、飛雄馬を挟んで座る伴に噛み付く。
「なによ!ケンカなら表でやんなよ!」
「元はと言えばお前が……」
「文句があるなら帰ればええじゃろう」
喧々囂々と三人がそれぞれに悪態を口にしたことで、場を収めるためにも、いい加減にしろ、と言いかけたサチコの父を飛雄馬が制し、すみませんと頭を下げ、財布から取り出した二枚の万札をカウンターに置くなり、そのまま店を出た。
場に残されたサチコの父を入れた四人は、飛雄馬のあまりの手際の良さにぽかんと呆け、顔を見合わせると、それぞれに彼の名を呼び、追い縋った。
「ええい!お前はついてくるんじゃない」
「後援会長こそすっこんでな!」
「ふたりともうるさーい!」
「星さん、おつり!こんなにいただいちゃあ困ります!」
店の戸を開け、飛雄馬の姿を追った一同だが、丸目、帰ろうの一言により、三人はまたしてもぽかんと呆けるしか出来ずにその場に取り残されることとなった。
「お、おう……」
まさか自分の名を読んでもらえるとは思わず、丸目は顔を綻ばせつつ、先を行く飛雄馬の背を追う。
三人はそれきり追っては来ず、人通りもあまりない住宅街を、丸目と飛雄馬は並んで歩いた。
そこで沈黙に耐え切れず、口を開いたのはやはり丸目で、なんでおれの名を呼んだんだ?と単刀直入にそう、尋ねた。
「何故、とは?今のおれの捕手は丸目、きみだろう」
「そ、そりゃそうだけどよ、後援会長がいてこそのあんただろうし、巨人寿司の親子にもおれと知り合う前から世話になってんだろう」
「……あの場を収めるにはきみを呼ぶのが最善だと思ったんだ。伴を呼べばきみのことだ、臍を曲げ、明日の試合にもそれを持ち込むだろう」
「ちぇっ、なんだ、おれはてっきり……」
「てっきり?」
前を歩いていた飛雄馬が足を止め、丸目の顔を見上げる。なんて、顔をしやがるんだ、この男。
ユニフォームを着け、マウンドに立つ絶対無敵の巨人のエースと同一人物なのか、これが。
きょとんと己を見上げる、まだあどけなさを残す飛雄馬の顔をまともに見られず、丸目は不自然に顔を逸らすと、なんでもねえよ、と語気荒く言い放った。
「…………」
「な、なんだよ。急に黙ってよ」
「いや、丸目はまだおれに心を許していないなと感じてな。ふふ、年もだいぶ離れているから仕方のないことだとは思うが」
「そんなことはねえ。おれはあんたに、星飛雄馬には全部、見せてるつもりだ。そう感じるってえのなら、線引きしてるのはあんたの方だ」
「…………」
まただんまりかよ、と丸目は舌打ちし、タクシーでも捕まえようぜ、と立ち止まったままの飛雄馬の脇を通り過ぎ、大通りに出るべく住宅街の角を左に曲がる。
「おれはあんたにあの場で名前を呼んでもらえて嬉しかったんだぜ」
「素直じゃないな、丸目は」
「な、なんだと?」
大通りに出て、手を挙げた飛雄馬に気付いたかタクシーが一台、ふたりの前へと止まった。
巨人軍宿舎まで、と飛雄馬がタクシーに乗り込むなり運転手へと告げ、続いて丸目もまた、その隣へと体を滑らせる。
「あ、あのよ、明日も頑張るからよ、あんたも、おれのことは気にせず、力いっぱい投げ込んでくれよ」
飛雄馬の顔を見ようともしないまま、丸目は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「手加減をしたつもりはないが、そう言ってもらえるのはありがたい。丸目には頭が上がらないな」
悪魔め、と丸目は隣に座る飛雄馬をちらりと見遣って、またすぐに車窓の向こうに視線を遣る。
何人の人間が、野球人としての星飛雄馬に魅せられ、その人生を狂わせられたのだろう。
大リーグボールと称される魔球は、あのヤクルトの天才バッター花形にことごとく攻略され、完全試合と引き換えに再起不能となった左腕の最期に対峙したのは、あの後援会長と言う話も聞いた。誰もが彼の最期の男になりたかったし、それでいて誰もが彼の復活を願ってやまなかった。
「…………」
「丸目?」
「少し、眠らせてくれよ。腹いっぱいで眠いんだ」
「……それは気が付かずすまないな」
おれもまた、星飛雄馬という悪魔に魅入られたひとりで、その地獄から逃れる術は持ち合わせていないのだ。
小さく笑みを溢す飛雄馬の声が、心地良く耳をくすぐり、丸目はうとうとと今はただ、束の間の休息を得るためタクシーの後部座席で寮までの距離をしばらく微睡むのだった。