すれ違い
すれ違い 「伴は、その、恋人を作ろうとは思わんのか」
「は?」
下着代わりのランニングシャツに腕を通しつつ、そう、尋ねてきた星飛雄馬の顔を、伴宙太は大きな眼を更に見開くようにして見つめた。
開いた口が塞がらない、とは正にこのことである。
たった今、おれと星は、星の部屋で、そういうことをしたばかりじゃないか。
星はそういうこと、を恋人ではない相手と行えるほど、倫理観に欠けた軽率な人間なのか?
嫌な汗がどっと肌の表面に吹き出して、伴は、そ、そういう星はどうなんじゃい?と訊くのがやっとで、ランニングシャツの上から長袖のワイシャツを着込む彼の顔から目が離せないでいた。
「おれは野球が恋人のようなものだし……それに、うちにはねえちゃんもいるが、その、伴はひとりだろう。おれと常に一緒にいてくれるのは嬉しくもあるが、親父さんの会社を継いでいく身としては、これから先のことを考える時期に来ているような気がしてな」
「ぷっ、なんじゃい。そんなことか。急に恋人がどうと吐かすから驚いたわい。おれの恋人は星に決まっとるじゃろう」
げらげら、と伴は飛雄馬の発言を笑い飛ばし、自分もまた、ワイシャツの上からセーターを着込んだ。
「ばか……茶化すな、大事な話だ。見合いの話だって来てるんだろう」
「み、見合いなんて早すぎるわい。まだ大学に行っとるような年で結婚なぞ」
「だからと言っておれとばかり付き合っていてもどうしようもないだろう。伴には伴の人生があって、おれにはおれの人生がある」
コーヒーでも飲むか、とベッドから立ち上がり、スラックスの中にシャツの裾をしまい込みながら飛雄馬が伴に尋ねた。
飛雄馬の姉、明子が行方を眩ませてから早一ヶ月が経とうとしている。依然として行方知れずのまま、日にちだけは経ち、弟・飛雄馬とその親友である伴は地方遠征の度に各地のガソリンスタンドを訪ね歩くが、手掛かり一つ見つけ出せぬ状態であった。
姉が帰ってきたときに住む場所がないといけないから、と飛雄馬はマンションの部屋を引き払うことをせず、この広いファミリー向けマンションに今ではひとりで暮らしている。
度々、伴は部屋を訪ねては共に食事を摂ったり、外泊許可を得、宿泊することもあった。
もしかすると、明子さんはおれが部屋に出入りするのを好まなかったのかもしれんな、と伴は今更ながらそんなことを思う。
気にしないで、とあの人は口では言っていたが、内心、迷惑であったのだろう。
もしかすると、おれと星の関係を知っていたかもしれぬ。
「…………」
「伴?」
「あ、お、おう。貰おうか」
「どうした。急に黙り込んで……」
「星は、迷惑か」
「え?」
スラックスをベルトで留め、カーディガンを羽織る飛雄馬にじっと見つめられ、伴は一瞬、怯んだものの再び口を開くと、「星はおれの存在が迷惑か?」と訊き返した。
「…………」
「明子さんが出て行ってしまったのはおれのせいじゃないかと前々から思っちょってのう。考えてみれば嫌じゃろうて、姉弟ふたりの部屋におれのようなむさ苦しい人間がおったら……」
「ばかな、伴のせいじゃないさ。ねえちゃんもきっと思うところがあって……」
「なぜそう言い切れる?何を証拠に?星だっておれがいるとうざったくて敵わんのじゃろう。じゃから恋人がどうの見合いがどうのなぞ吐かしておれを遠ざけようとする」
「伴!」
「っ……!」
飛雄馬の声に怯み、伴はしばし視線を泳がせると、すまん、と短く謝罪の言葉を口にする。
「頭を、冷やせ、伴。おれは何も言っていない」
「なに、言わんでもわかるわい。伊達に星の親友を務めてはおらんぞい。つまり星はおれと別れたいんじゃろ……」
「違う、おれは伴の将来を考えて……」
「おれは星といついつまでも一緒にいたい。親父の会社なぞ、跡取りなぞ関係ない。おれは星と一緒にいられることが何よりの幸せなんじゃい」
「…………」
少し、困ったような表情を浮かべ、飛雄馬は無言のまま部屋を出て行く。伴はその小さな背中を見つめたまま、追いかけることも待てと声をかけることもできず、寝室に取り残される。
もたもたと脱ぎ散らかしたスラックス類を身に着け、飛雄馬の後を追うようにして、言い訳のひとつも思いつかぬまま伴は寝室を出た。
リビングに向かうと、コーヒーのいい香りが漂ってきて、伴はぐっと胸が詰まるのを感じる。
「さっきの話」
「伴、さっきの……」
顔を突き合わせるなり、ふたり同時に口を開いて、互いに顔を見合わせ吹き出す。
「伴から言ってくれ」
「うんにゃ、そっちからじゃい」
「ふふ……」
「…………」
互いの顔を見つめ合い、それぞれ続きの言葉を待つ。
明子さんがいなくなってからも変わらず、綺麗に片付けられ整理整頓されたリビング。
星はこの広い部屋でたったひとり、何を思うのか。
その寂しさを、切なさをひとりで背負うことなく、おれに分けてほしい。
ふたりならきっと、乗り越えられる。
「おれも伴とできることなら一緒にいたいさ。でもきみは優しいから、自分のことなど二の次でおれに尽くそうとするだろう」
「死ぬも生きるも一緒じゃい、星。今更水臭いぞい」
「ああ、そうだな……ずっと一緒だ、伴」
そう言って、微笑んだ飛雄馬の瞳が微かに潤んでいて、伴もまた目元に涙を滲ませる。
「な、泣くな星よ。こっちまで泣けてくるわい」
「ふふ……泣き虫伴め」
「そりゃこっちの台詞じゃい」
伴は言うと、飛雄馬の目元を指で拭ってやってから身を屈め、目を閉じてから口付けをせがむように唇を突き出す。
「…………」
飛雄馬の腕が首に回ったことで、伴は身構えたが、すぐに唇を塞がれ、ゆるゆると全身の緊張を解く。
涙に濡れた唇は、いつもと違う熱と感触を伴に与え、飛雄馬を抱く腕を普段より一層力強くさせた。
「あ、いかん、勃ってきたわい」
「ばか……いい加減にしろよ」
「星、もう一回」
「しない」
「…………」
「コーヒーを飲んでくれよ、せっかく淹れたんだから」
くすくす、と微笑み、自分から距離を取る飛雄馬を見つめ、伴はホッと胸を撫で下ろすと、砂糖の数を尋ねてくる彼にふたつ、と返した。
「ひとつにしたらどうだ。だから太るんだぞ」
「にゃにおう。角砂糖ふたつで太るわけがなかろう。失礼な」
ふたり顔を見合わせ、吹き出すと伴と飛雄馬はそれぞれ、好みの味に調整したコーヒー入りのマグカップ片手に窓辺に置かれたソファーに腰を下ろす。
「冷えるな」
「コーヒー、作り直すわい。おれのせいで冷えてしまったのう」
「…………いや、大丈夫」
マグカップを包むように手を添え、一口啜る飛雄馬の横顔を伴は見つめ、自分もまた、コーヒーに口を付けた。思った以上に冷えていたコーヒーは砂糖が上手く溶け切れなかったかいつもより苦いようで、伴はいつの間にか降り出した雪が窓の外を白く染めつつあるのを、何も言わずただじっと見守る。
隣では飛雄馬もまた、同じように窓の外を見ている。
今夜は泊まるのか、の問いに、伴は、おう、と短く答えてから、ソファーの前に置かれたガラステーブルにマグカップを置いた飛雄馬の体を、そのまま座面の上へと押し倒した。
窓の外は深々と降り積もる雪が月明かりを反射して、白く光る。
部屋の中は徐々に冷えていくと言うのに、互いの肌は燃えるように熱くて、伴はただただ、目の前の白く小柄な彼を、愛しい、とそう思った。