隙間
隙間 びっくりさせてやろう、と、ただそれだけの理由だった。
伴宙太は練習休みの日曜日にこっそり、二学年下の星飛雄馬宅を訪ねるべく、我が家のある高級住宅街から彼の住む長屋まで足を伸ばしていた。
きっと星は驚くだろう。そうしてたまげて目を丸くする星に気分転換に街にでも繰り出さんか、とそう、言ってやるつもりでニコニコと顔に笑みを湛えたまま、星と書かれた表札の掛かる長屋の一つの前にて伴は歩みを止めた。
なるべく足音を立てぬようにしてやって来たから、きっとこのガラス戸を開け、星と呼んだら一瞬呆けたのち、にんまりと笑顔を浮かべてくれるだろう、と伴は漠然とそんなことを考える。
「――――!――」
ガラスの引き戸の向こうから何やら声が聞こえて、伴は大方、明子と飛雄馬が何やら話をしているのだろう、と思った。声が小さく、何を言っているかはよく聞き取れぬが、中で会話をしていることは確からしい。伴は音を出さぬよう、そうっと玄関の引き戸を開けた。
そうして、中を覗き込む。たった数センチの隙間。そこから目にした光景に伴の頭はそれこそ鈍器で力の限り殴られたかのような衝撃を受ける。足は縫い止められたかのように動かず、視線さえも逸らせなかった。背筋を冷たいものが走って、口の中はからからに乾いた。
ふらっ、と伴はよろめいて、すんでのところで倒れ込むのを堪える。その瞬間、全身の毛穴という毛穴から汗が吹き出した。 ごくり、と口内に染み出した唾液を飲み下して、伴は深く息を吸う。目の錯覚だろうか。果たして、おれは白昼夢を見ているのか。なぜ、星が、いや、星のおやじさんと、星があんなことを。
「ぅ、あ……っ!」
突如として、開いた戸の隙間から漏れ聞こえた声に伴は体をびくん!と跳ねさせた。慌てふためき辺りを見回しても、人影はなく、一先ず安堵の溜息を吐いたが、伴は目を数回瞬かせてから再び隙間を見遣る。 そこからまず伴の目に飛び込んでくるのは星飛雄馬の裸体である。
裸そのものの彼が敷かれた布団の上に寝転がっている、それだけではなく、その開いた足の間と形容するべきか、その場所に彼を組み敷くような形を取る飛雄馬の父・一徹の姿があった。彼の下腹部の位置には飛雄馬の尻が充てがわれており、もしや、と言うことを伴に嫌でも連想させる。
一徹が腰をゆっくりと飛雄馬の尻めがけ打ち付けるたびに、組み敷かれている彼は白い布団をその指で掻いた。その閉じた目の縁からこめかみにかけて涙が滴るのを伴はその目で見た。
飛雄馬の白い足がゆらゆらと一徹の動きに合わせて揺れている。
汗と土にまみれ、グラウンドを駆け回る星があられもない姿で、ひどく劣情を催すような、そんな表情を下手をすれば中学生と見紛うほどの幼い顔に浮かべていた。
「あ、っ……い……」
かあっ、と伴の顔が火照る。額に汗が滲んで、呼吸が荒く、短くなった。
とんでもないものを見た、と確かに思ったのに。それでも、伴は目が逸らせなかった。布団と畳が擦れる音と、腿が尻を叩く音と、飛雄馬の口から漏れる嬌声とが耳に入って、伴は再び唾液を飲み込み喉を鳴らす。と、一徹が呻いて、ぶるっと震えた、かと思えば、その身を前屈みに倒して飛雄馬の唇に口付けた。その刹那。
飛雄馬は彼の父である一徹と舌と唾液とを絡ませながら目を開け、玄関の引き戸の方を涙でしとどに濡れた瞳で確かに見た。 その戸の隙間からこちらを見ていた伴と大きな瞳と目が合った。
「っ―――!!」
しまった、と伴はその場から後退り、目を見開く。
「伴さん」
「ひ、ぃっ……!!」
まずい、と視線を泳がせ、そこから再び数歩後退ったところで背後から声をかけられ、伴は妙な声を上げる。
驚き、振り返ればそこに立っていたのは買い物袋を手に提げた飛雄馬の姉である明子であった。彼女の方こそ驚いたようなキョトン、とした顔を伴に向け、首を傾げている。
「あっ、あっ、明子さん」
「どうしたの?そんなところに立っていらして」
「あっ、いえ、ちょっと、星に用事があったもんですから」
「飛雄馬に?中におりませんか?飛雄馬」
「あ、明子さぁん!ええんです!明日、学校で……」
ふいに明子が大声を出したために伴は血相を変え彼女を制するが、「なんだいねえちゃん、大声なんか出して」と飛雄馬が戸を開けひょっこり顔を出したもので、伴はあまりの驚きにその体を戦慄かせた。
「伴!どうした」
「飛雄馬に用があるそうよ、今そこでお会いしたの」
伴の姿を目の当たりにした飛雄馬が訊く。その格好にはひとつの乱れもない。さっきまで布団の上で肌を晒し、顔を歪めて声を上げ、喘いでいたとは到底思えない。
「……ちょっと、いいかのう」
伴は俯き気味に小さな声で尋ねる。
「……人に聞かれると、まずいか」
訊かれ、伴は頷く。飛雄馬は一徹に少し出てくる、昼飯までには戻る、と断って伴と共に長屋を出た。あと一時間もすれば正午を迎える。
「……それで、話とは?」
長屋の左右にそれぞれ立ち並ぶ、狭い道を二人連れたってしばらく歩いていたが、飛雄馬がついに切り出した。
「あ、いや、なに、日曜日じゃからのう、どこかに、行かんか、と思うてな」
「ああ、誘いに来てくれたのか。フフ、そうならそうとあの場で言ってくれたらいいのに。昼食までには戻る、なんて言っちまったからまたとうちゃんたちに断りを入れに行かなきゃならないだろう」
「……その、つもりだったんじゃが」
「と、言うと」
にこやかに笑みを浮かべていた飛雄馬に対し伴は拳を握り、低い声で言葉を紡ぐ。
「星は、おやじさんと」
「………」
足元の小石なんぞを足の爪先で弄んでいた飛雄馬だったが、伴の言葉に顔を上げた。
「なぜ、あんなことを?」
「見たのか、やっぱり。うふふ、おれはてっきり白昼夢かと思ったんだが――いや、そうであってほしかった。まさか、お前が、伴があの場にいるなんて」
「べ、別におれは、誰かに言いふらすと
か、そういう訳じゃのうて、その、」 こちらを睨み据えてくる恐ろしい飛雄馬の顔と、未だ頭に残る先ほどの情事中の彼の顔がだぶって伴は目を逸らす。
「………その?」
「星、は、嫌じゃないのか、おやじさんと、あんな」
「いや?嫌そうに見えたか、おれの顔が」 険しい表情を堪えていた飛雄馬の顔に笑顔が浮かぶ。
「………」
伴は目を伏せ、黙り込む。
「どう思った」
口を噤んだ伴に苛立ったか飛雄馬が尋ねた。
「どう、ってそりゃあ」
「………伴、耳を貸せ」
とある長屋の軒下で飛雄馬は歩を止め、伴を呼ぶ。
「耳?何をする気……」
身を屈め、伴が飛雄馬の口元の位置まで顔を寄せたまではよかったが、呼び付けた彼は伴の太い首へと腕を回し縋りついた。
「な、にを……」
尋ねた伴の唇に飛雄馬の濡れた柔らかな粘膜が触れる。
「ほ、ほしっ!」
声を上げた伴を尻目に、飛雄馬は彼の首筋に縋ったまま後ろ手で背にしていた長屋の開き戸を開けた。
そうして、伴の首に両腕をも回して、ぎゅうと抱き締めたまま長屋の中へと彼を引き込み、飛雄馬は玄関の戸を開けてすぐにある土間と台所から一段上がった居間の畳の上へと仰向けに倒れ込む。
「な、何をするんじゃい!星!」
慌てて手を付き、飛雄馬の体の上に倒れ込みそうになるのを防いだ伴は思わず声を荒げたが、組み敷いた彼の瞳と視線がかち合って、唇を閉じ合わせた。
「ひ、人の家じゃろう、ここは」
「心配せずとも今は空き家になっているさ」
「………し、しかし、今は空き家でも持ち主が」
「気になるか」
「星、きさま……」
「秘密のひとつやふたつ、共有していた方が、更にいい関係を作れると思わないか?」
「秘密?」
「………」
伴の体の陰になった飛雄馬の瞳が笑みを浮かべるかのように歪む。ゴクン、と伴の喉仏が大きく動いた。
「投手と捕手、大事なのは信頼関係だからな」
「………」
「伴よ、戸を閉めてくれないか。いや、無理にとは言わない」
言って、飛雄馬は伴から手を離す。
伴は飛雄馬の上から体を起こすと、ゆっくりと、先ほど飛雄馬が開いたガラス戸を閉めた。そうして、飛雄馬の横たわる居間と向き直り、こちらを見上げている彼の上に伴は再び覆いかぶさる。
ああ、今し方踏み込んだのは地獄かそれとも。いや、もうとっくの昔に、おれは、星に一目合ったときから――。
伴は脳裏に浮かんだ思いを払拭するかのように首を左右に振ると、飛雄馬の耳元に口付ける。
「あっ、ン……!」
甘い声が飛雄馬の口から漏れて、伴の頭は、臍の下は、それだけであつく熱を持ち、かっかと火照った。
「星……」
名を呼んで、欲望のままに飛雄馬の肌を味わい始めた伴は、組み敷くこの小柄な男が不敵ににやりと笑んだのを知る由もなく、ただただ、まだ日も高い日中だと言うのに、彼にこの埃っぽく広い畳の上でがむしゃらに欲をぶつけ、彼の肌に跡を残した。
玄関の引き戸がほんの少し、開いているとは夢にも思わずに。