推量
推量 視界の端で人影が動いたような気がして、飛雄馬は、半分寝惚けたような状態でねえちゃんかい?と呼び掛けた。しかして、その人影から返事はなく、巡回に来た看護婦だろうかと思い直す。
昼食を終えた昼下がり。窓から差し込む陽の光が心地良く、いつの間にか微睡んでしまったらしい。
腕の痛みもだいぶ薄れてきたように感じる。
病院に担ぎ込まれてから、もう一週間になるだろうか。高熱が下がらず、当分面会謝絶の状態で点滴から水分と栄養を注入される形で命を繋いでいるが、腕の治療についてはひとまず腫れが落ち着いてから始めると主治医から話があった、とねえちゃんから聞いたのは入院から四日後のことである。
生きた心地がしなかったわ、とねえちゃんは涙ながらに語り、隣に寄り添う花形に肩を抱かれていた。
四日の間に、世間の、身の回りの様子はがらりと変貌していたのだ。左門は新宿のお京と付き合い始めており、はたまたねえちゃんも花形とは急速に距離を縮めていた。姉が語る話によると、気の動転した自分を慰め、励ましてくれたのが花形だったそうだ。
伴も未だ入院中との話で、体の調子は良いようだが、どうも精神状態が不安定とのことで、しばらく病院で様子を見ることになっているらしい。
「…………」
おれはどうやら置いてけぼりを食ったようだ。
友人らがそれぞれの人生を歩み始める中で、おれひとり、この場に留まったまま。
心を通わせ、愛を語らった女性はすでにこの世になく、左腕はもう使い物にはならないだろう。
──それにしても、巡回に来た看護婦はいつまでここにいるつもりだろうか。
飛雄馬は閉じていた目を開けると、感傷に浸ることも許されない己の立場に辟易しつつ、どうしましたかと今更ながら人影に尋ねた。
「起きていたのかい」
問い掛けに対し、そう、返事をしたのは思いもよらぬ人物──花形で、飛雄馬は慌てて体を横たえていたベッドから跳ね起きると、彼の名を呼んだ。
「花形さん!」
「寝ていたまえ。腕に障る」
寝ていたまえと言われても……飛雄馬は花形から視線を逸らすと、ねえちゃんは?と訊いた。
花形は、ねえちゃんとの距離を縮めてからと言うもの、おれへの当たりが少々柔らかくなったように感じられる。
それがどうにも気味が悪いのだ──。
体を急に起こしたせいか、引き攣った左腕をさすりつつ、飛雄馬はそこの箱の中のお菓子、食べてもいいですよとも続ける。
病室には知人や球団関係者のみならず、病院を訪れたファンからの見舞いの品も所狭しと積まれている。
おれがマウンドで突然倒れ、左腕が再起不能となった衝撃はそれほどまでに大きかったらしく、スポーツ紙の一面トップも飾ったそうだ。
その中のひとつ、ファンからの見舞いの菓子を飛雄馬は花形へ勧めたのだった。
「遠慮させていただくよ」
「ふふ、花形さんの口には合わんとは思うが、食べてもらわんと場が持たん。見舞いに来てもらえるのは嬉しいが、あなたとは何を話せばいいのかわからない」
「…………」
花形とは、野球以外の話をしたことがない。
こうして見舞いに訪れられたところで、会話が続かない。なぜひとりでやって来たのだろうか。
「おれの見舞いに来るのもねえちゃんを気遣ってのことと思うが、無理はしないほしい。花形さんも居たたまれんだろう、この空気は」
「いや、明子さんには今日ここに来ることは話していないが、ぼくが来てはまずいかね」
「そういう、わけじゃ……」
まずい、と飛雄馬は冷や汗をかく。
こんなことを言ってしまってはねえちゃんとの関係にヒビを入れてしまうことになる。
何とか挽回しなければと考えるが、この状況を好転する言葉が見つからない。
「伴くんが、退院したとの話を小耳に挟んでね。それを伝えに来たんだがお邪魔だったらしい」
「伴が……」
「一度、彼の見舞いにも行ったが、きみの心配ばかりしていたよ。フフ」
そうか、伴が退院したのか。
飛雄馬はふ、と表情を緩め、それは良かった、と安堵の言葉を吐いた。
「勝手に病室に入って失礼した。もうここを訪ねるつもりはないから安心したまえ。では」
「あ、いや、その、花形さんさえ良ければ、おれは……」
「…………」
「いや、すみません。その、ありがとう。ねえちゃんのこともそうだが、伴のことも。花形さんだって忙しいだろうに」
「何を言い出すかと思えば。別に、礼を言われるようなことをしたつもりはないが」
「とうちゃんのことも、ねえちゃんから聞いた。あなたには感謝してもしきれない」
「フフ、感謝すると言う割にはぼくとは何を話せばいいかわからないと来た。まったくきみの気分屋ぶりには振り回されてばかりだ」
「それは……花形さんが気まずかろうと思って……」
「きみは他人に対して気を遣いすぎる節がある。勝手に他人の考えを推し量って、悪い方向にばかり気を揉む」
「…………」
「きみがこの花形に対してどう思っているかは知らんが、少なくともぼくは星くんとふたりきりでいることを気まずいなどと感じたことはない。自分の勝手な推測を他人に押し付けるのはよしたまえ」
「ふふ、相変わらず花形さんは痛いところを突く。ねえちゃんとの距離を縮めたことであなたも変わったと思ったが、そんなことはなかった」
「……明子さんとの結婚をきみは許すかい」
「…………」
飛雄馬は俯けた顔を上げ、こちらを見つめる花形の顔をまじまじと見つめる。
ねえちゃんとの、結婚、を。
花形はもう、そこまで考えているのか。
おれが意識を失くしていた数日の間に、状況はそこまで。
飛雄馬は花形からついと視線を外し、どうしてそんなことをおれに訊く?おれが嫌だと言ったらどうするんだと尋ね返した。
「…………」
「花形さんはおれにだめだと言われたらねえちゃんを諦めるのか。そんな生半可な覚悟でねえちゃんと付き合っているのか。ふざけるのもいい加減にしてくれ。おれはそんな人にねえちゃんを任せられない」
「それを聞いて安心したよ、星くん」
「……変なことを尋ねないでくれ。ねえちゃんの人生はねえちゃんのものだ。おれがあれこれ口を出すつもりはない」
「明子が突然行方をくらませ、きみが実況中にも関わらずぼくに呼び掛けたことがあったが、その当時彼女は関西にいてね。何度か住み込みで働いているというガソリンスタンドを訪ねたことがある。明子はああ見えてしたたかだよ、星くん。きみが思っているほど弱くない」
「な、んで、それを、今になって話す?」
突然、花形が明子を呼び捨てにしたことに加え、彼女の行方不明時の所在を打ち明けられ、飛雄馬は動揺する。
「さっき言っただろう。自分の勝手な推測を他人に押し付けるなと。明子はきみを足掛かりに──」
「っ、それでも、ねえちゃんが決めたことなら、選んだ道ならおれは何も言うことはない。それに、花形さんならきっとねえちゃんを幸せにしてくれるだろう」
「さあ、それについてはお答えいたしかねる。ぼくは自分が出来る精一杯のことはするつもりだが、それを明子がどう受け止めるかは彼女次第だ」
「ずいぶん、冷たいな、花形さん。仮にも今から夫婦になろうと言う女性に、ねえちゃんに対して、っ、そんな言い方はないだろう」
昼に飲んだ鎮痛剤の効果が切れてきたのだろうか。
左腕が鈍く痛み始める。じわじわと全身が火照り始め、体温が上がりつつあることも飛雄馬は自覚する。
「ぼくは明子がきみの姉でなかったら近づくことはなかったさ。残念だが」
「どういう、意味だ」
目が霞む。頭もぼんやりと靄が掛かったようで、思考が定まらない。
「……人を呼ぼう」
異変に気付いたか、花形がベッドの枕元にあるナースコールを押そうと手を伸ばすのを制し、飛雄馬は大丈夫と首を横に振ってから体を横たえる。
「っ、花形さんが……なぜねえちゃんに近づいたかは知らんが、はぁっ……きっかけはおれの姉だったからだとしても、それでも、結婚したいと、そう思ったのなら、もう、その他に理由は……」
「星くん」
「ふふ……もう、黙るさ。花形さん、伴のことを、わざわざ伝えに来てくれてありがとう。とうちゃんと、ねえちゃんをよろしく…………」
「─────」
花形がナースコールを押したか、数名の看護婦が病室に駆け込んでくる足音を聞きつつ飛雄馬は安心感からふうっと眠りに落ちる。
それから気が付けば日は暮れており、床頭台には看護婦からの事付が書かれたメモが貼られていた。
花形の姿はすでになく、個室仕様の病室はしんと静まり返っている。
鎮痛剤が投与されたか、熱はとっくに下がっているようだ。
「…………」
推し量るなと、言われたところで本心を語ってくれないのならこちらは推測するしかないのだ。
花形がなぜ、ねえちゃんに近付いたのか。
魔球の秘密を、原理や攻略法を聞き出すためだったのだろうか。花形がそんな真似をするとは到底思えない。何にせよ、おれはふたりのこれからに関与するつもりはないが。
飛雄馬はナースコールで看護婦を呼ぶと、言伝にあったように、食事を持ってきてくれるように伝えた。
それにしても、毎日寝てばかりで退屈極まりない。
おれから野球を取ったら、本当に何も残らないことを嫌というほど実感する。暇つぶしと言えば、くだらぬテレビ番組を眺めるくらいか。明日は、何をして過ごそうか。
部屋の扉がノックされ、入室の可否を問う声が廊下から響いた。夕食を手に、部屋を訪れてくれた看護婦に飛雄馬はどうぞと入室を促す。
昼間の看護婦と交替で勤務に当たることになったと言う看護婦は、巨人の星のファンだと言うことを嬉しそうに声を上ずらせながら語った。
巨人の、星か。ああ、まったく、嫌になる。
飛雄馬は失礼しますと頭を下げ、退室する彼女を見送ってから、ひとり、取り残された部屋にて冷たくなってしまった、味の薄い夕食を淡々と義務的に摂取することに努める。
おれにとって、野球とは何だったんだろう。
娯楽も、趣味も何もかもを放棄させられて、とうちゃんに球を放ることだけを強制されて、それも出来なくなった今、おれには一体何が残ったんだろう。
飛雄馬は食事を終えると、そのままベッドに横になる。無駄なものは一切排除されている、無機質な病室の天井。何とも味気ない。
ふ、と小さく微笑んでから飛雄馬は窓側に寝返りを打ち、僅かに開いたカーテンの隙間から夜空に浮かぶ、星々の煌めきを、無言のまましばらくの間、じっと眺めていた。