スイカ
スイカ 「ただいま」
絨毯敷きの床に座り、テーブルにて黙々とファンレターの返事書きに精を出していた飛雄馬は、帰宅したばかりの姉・明子にお帰りなさい、と返しながら顔を上げた。
すると、緑の球体に深緑色の縦縞が入ったボウリングの玉大の果菜──いわゆるスイカを姉が持っていることに気付いて、重かったろう、と心配そうに声を発しつつそのまま立ち上がった。
「うふふ。つい美味しそうでね。好きでしょ、スイカ」
「う、うん。まあ……そうだけどさ」
買い物に行くと言って家を出たねえちゃんは、わざわざおれのために重いのを我慢してあのスイカを抱えて来たのだろうか。
近くの公衆電話から電話するとかタクシーを呼ぶとかしたらよかっただろうに。
ねえちゃんには生活費として、毎月球団から貰う給金のほぼ全額を渡していると言うのに。
堅実で節約家なところがねえちゃんのいいところだが、もう少し贅沢してくれてもいいんだぜ──の言葉を飛雄馬は飲み込み、風呂で冷やすかい?と訊いた。
「そうね、冷蔵庫には入りきらないかしら。盥……は、小さいのしかないものね」
「じゃあそうしよう」
飛雄馬は言うと、スイカを抱え、浴室へと向かう。
長屋にいた頃は、盥に汲んだ井戸水で冷やしてたっけ。あれがまた冷たくて、甘くて美味しかったなあ、なんて笑みを浮かべながら飛雄馬は到着した浴室内の浴槽へスイカを置くと、そこに水を溜めていく。
そうして、半分程度スイカが水に浸ったところで、手ぬぐいを濡らし、その上へと乗せた。
こうすることで、水が少なくても気化熱を利用し、スイカを冷やすことができる。
「お昼は素麺でもいいかしら」
「うん。なんでもいいよ」
浴室から帰ってきた飛雄馬に、明子が尋ねた。
ねえちゃん、長屋にいた頃と別人みたいだな、と飛雄馬はその横顔を通りすがりざまに見遣る。
いつもとうちゃんの顔色を伺って、溜め息ばかり吐いていたねえちゃん。
それが今や生き生きとしており、鼻歌混じりに食事を作るまでになった。
オズマはおれを野球人形だと言ったが、それはねえちゃんも同じことだろう。
とうちゃんの機嫌を損なわぬよう自分の感情を押し殺し、とうちゃんの好きな食事を作り、近所中を謝り歩く日々を送っていたねえちゃん。
とうちゃんの言われるがままに生きてきたねえちゃん…………。
こんなに楽しそうなねえちゃんを見たのは初めてかもしれない、と飛雄馬は思う。
「どうしたの?人の顔をじっと見て」
「え、あ、いや、ちょっと、さ。ふふ、ねえちゃん、美人になったなと思ってさ」
「まあ、いやだ。飛雄馬ったらそんなことを言うようになったのね」
沸騰した鍋の中に素麺の束を投入し、明子が微笑む。
飛雄馬は彼女に笑みを返しつつ、テーブルの上にそのままになっていたファンレターを床に置くと、何か手伝おうか、とも申し出た。
「いいのよ、飛雄馬。たまのオフ日くらいゆっくり休むのよ」
「…………」
飛雄馬はそれ以上何も言わず、明子が用意するままに素麺を啜った。
カーテンを開けた前面に東京タワーを仰ぐ窓からは眩しいほどの夏の日差しが室内に降り注いでいる。
ベランダに風鈴でも取り付けたら少しは涼しいかしらと言う明子に、飛雄馬はねえちゃんの好きにしたらいいよと返し、器の中に残る素麺を口に運ぶ。
ねえちゃんが好きなように、ねえちゃんが住みやすいようにしてくれて構わないさ。
この部屋で大半を過ごすのはおれではなく、ねえちゃんなのだから。
そんな飛雄馬の胸中を知ってか知らずか、明子は近くのスーパーの品揃えの良さを饒舌に語る。
飛雄馬は明子の言葉に相槌を打ちながら、おれが片付けるよと席を立つ。
と、時同じくして来客を告げるチャイムが鳴り響いて、伴さん?と尋ねる明子に、うん、と頷いてから飛雄馬は扉を開けようと行き先を台所から玄関へと変更した。
「おう、星よう。元気しとったかあ」
「さっきも電話で話したじゃないか」
扉を開け、飛雄馬は伴を室内へと招き入れる。
ちょうど明子と入れ違いのように今から遊びに行ってもいいかとの連絡が伴から入り、飛雄馬はふたつ返事でそれを承諾したのだった。
「伴さん、お昼は済んだ?私たち今食べたところなの」
「あ、明子さん……え、えっと、外で済ましてきたので大丈夫ですわい」
「それならスイカはどうかしら。もう冷えてる頃だと思うけど」
「スイカ!?」
うほほーい!と目に見えてはしゃぐ伴に苦笑し、飛雄馬はふたり分の食器を台所のシンクに置くとスイカを取りに浴室に向かった。
浴槽の栓を抜き、溜めた水を排水口に流したところで絞った手拭いでスイカを拭き、それを抱えると台所へと戻る。
すると親友の彼はちゃっかり姉の隣に座り、何やら楽しそうに話しているのが飛雄馬の目には入り、まったく伴の要領の良さには脱帽だぜ──と皮肉を胸に留めつつ、まな板の上に置いたスイカを包丁でふたつに切り分けると、その半分を切り分け、皿に乗せた。
残りの半分はラップを掛け、冷蔵庫に仕舞うとふたりの待つリビングにスイカを持ち寄った。
三人、それぞれにスイカの一片を手にし、思い思いのタイミングでそれを頬張る。
よく冷えた赤く、甘い果肉が熱く火照った体を冷ましてくれる。
飛雄馬は親友と姉が楽しそうに談笑しているのを眺めながら、種を吐き出し、皮ばかりとなったスイカを皿に戻すと、新しいスイカの一片を手に取り、それにかぶりついた。
長屋にいた頃はうるさいほど鳴いていた蝉の声が、ほとんど聞こえないのは住まいを置くマンションの階層のせいだろうか。
もう、夏だな、と飛雄馬は雲ひとつない夏の青空を背景に佇む東京タワーに視線を遣りつつ、スイカの赤い身をゆっくりと咀嚼した。