合鍵で鍵を開け、伴は扉を開く。相も変わらず真っ暗な静まり返った部屋。
日中、明子が来たのだろうか廊下から差し込む明かりに照らされた玄関先のスリッパの位置が昨日と少し変わっているように伴には感じられた。
今日も部屋の主が帰ってきた様子はない。伴は玄関先で靴を脱ぎ、部屋の照明を付けた。東京都内のあるマンションの一室。かつて、星飛雄馬という男がここに姉と共に住んでいた。
度々、伴もここを訪ねたことがあったし、何なら何度か泊まったことだってある。どこに何があるか手に取るように分かっているし、いっそ所属していた球団の宿舎を引き払ってここに住んでしまおうか、とさえ彼は考えたこともあった。
星飛雄馬の姉が行方知れずとなってから、彼は一人ここで何を考え、何をして過ごしていたのだろうか。
いくら親友の伴とは言えども、彼が自宅に帰ってからの動向までは知る由もなかった。けれども、彼の身を案じ、伴は幾度となく宿舎から飛雄馬宅へ電話を掛けたこともある。
毎日、毎日練習や試合で顔を合わせていたと言うのに、それでも声が聞きたくて、一人で泣いとりゃせんか、めしは食っとるかとそんな取り留めのない会話を振って、呆れられたことも一度や二度ではない。 星飛雄馬の存在は、伴宙太の体の一部であったと言っても過言ではない。
それこそ一心同体の親友であった。
伴はリビングへと入り、すうっと鼻から息を吸い込む。
少し埃臭いような、しかして、どこか懐かしいような匂いが鼻をくすぐる。星飛雄馬が住んでいたときから室内の様子は何ら変わっていない。
あの日、巨人の伴ではなく、中日の伴宙太として18.44mの距離で星飛雄馬と対峙した彼は巨人─中日戦の7回の裏から星飛雄馬の父親であり、中日三塁コーチの星一徹より逆立ちを行うように命じられ、それを見事こなした。
それだけでもフラフラの状態であるのに、更にバット3本を手にしての素振りをするようにと言い渡され、それこそ夢遊病者のようによろよろと覚束ない足取りで打席に立った。
霞む両目で見遣った星の顔はおれの様子を見て何やら驚いていたようだった──その夢遊病者のような状態こそが彼が左腕から放つ魔球を打ち果たす星一徹コーチの策であったのだが──伴はリビングの大きな窓を覆うカーテンを開け、そのままベランダへと繋がる窓の錠を上げる。
窓を少し開けると、夜風が吹き込み、伴の頬を撫でる。あれからおよそ5年が経とうとしている。
見事大リーグボール3号と称される消える魔球を伴は打ち取ったものの、課せられていた逆立ちのせいで走る気力もなく、グラウンドの土を顔面に浴びることとなった。
そうして、星飛雄馬の腕がその3号のせいで壊れてしまった、と聞いたのはその日の晩のことであったか。
星飛雄馬が病院から姿を消した、と血相を変え中日宿舎の部屋に飛び込んできたのは他でもない、彼の父であった。
それから手を尽くし、今や同じ商売人となり、彼の姉と婚姻関係となった阪神の花形満と共に興信所を使い、星飛雄馬の行方を探すが未だ足取り一つ掴めない。
「どこに、おるんかいのう、星は」
ベランダに出て、伴はポツリと呟く。目の前の東京タワーがやたらと物悲しく伴の瞳には映る。
生きているか、死んでいるかも分からぬ彼だが会ったら話したいことはたくさんある。いいや、縁起でもない、生きているに決まっている。
今も同じ空の下、どこかで確かに星は生きているに違いない。ベランダの手すりに腕を乗せ、伴は空を仰ぐ。細い月が出ている。
このかつて星飛雄馬が住んでいた部屋も残しておいても悲しいだけだ、と一時は引き払おうという話も出たが、伴がそれを阻止し、今や父が興した会社の重役となった彼がいつ星が帰ってきてもいいように、と毎月家賃を支払い、賃貸契約を変わらず続けているのだった。
何もかもそのままで消えてしまった星飛雄馬。川上監督から授かった背番号16のユニフォームをも残して。
「みんな心配しちょるぞい……星よう」
グスン、と伴は鼻を啜って目を擦ると、部屋の中へと戻る。元のように鍵を閉め、カーテンを引いた。
もしかしたら今日は帰っているかもしれない、東京に戻ってきているやもしれない、そう思って伴は仕事の空き時間ができると、一日の業務を終えると、こうしてマンションを覗きに来る。
伴は肩を落としつつ、来たときと同じようにリビングを抜け、玄関先で脱いだ靴を履くと、扉を開けた。
蝶番が軋んで、鉄の戸が音を立てて開く。そうして、廊下に誰もいないことを確認して、外に出ると伴はまだ同じ巨人軍にいた頃、星飛雄馬から渡された合鍵で扉に鍵を掛ける。
ねえちゃんもいないことだし、いつ来てもいいように、と星は笑った。
まるで恋人同士のようじゃのう、と笑いあったのがついこないだのような気さえしてしまう。
伴は冷たい鉄の扉に額を押し付け、大きな溜息を吐くと、マンションを出るために廊下を歩き出す。
間もなく春がやって来る。星飛雄馬がいなくなって5度目の春が。
一階の駐車場へと下り、待たせていた自家用車の運転席に座る運転手に声をかけ、伴は後部座席に乗り込むと、またいつものように道行く人々の顔触れの中に星飛雄馬の姿がないか目を細め、じっと眺めた。