鉢合わせ
鉢合わせ あれは、花形さん?と飛雄馬は駅前の車道、その脇に寄せられているオープンカーの運転席に座る彼の姿に目を細めた。
こちらの行く先とちょうど対面になる場所に花形は車を止めており、このまま行けば彼と顔を合わせるのは必須である。
しかも、ひとりではないようで、隣には上品そうな美しい女性が座っている。
花形さん、モテるんだなあ、などと呑気なことを考えながら伴を待たせている己のマンションに帰るべく歩みを再開させた飛雄馬だが、花形の隣に座っていた女性が突然、彼の頬を平手で叩くのを目の当たりにしてしまったために思わずその場に固まった。
このまま素知らぬ振りをして、通り過ぎれば気付かれることもないだろう、と飛雄馬は高を括っていたが、そのアテが外れ、しまったと今更ながら楽天的に構えていた己の行動を悔やむ。
むろん、通りがかりに偶然目にしてしまっただけに過ぎないが、飛雄馬はまさか知り合いの、それも幼い頃からの知り合いでもある花形のこんな決まりの悪い場面に遭遇するとはと視線を泳がせる。
するとちょうど、彼女がオープンカーのドアを開け、車を下りるや否や駅に向かうのとすれ違う羽目になり、飛雄馬は思わず花形から顔を逸らす。
恐らく、花形自身もおれに見られたと分かればいい気はしないだろう、と思ってのこと。
「……フフ、嫌なところを見られたね。何とも格好の悪い」
「いや、おれは何も見ていない。花形さんが試合もないのに関東にいるとは珍しいこともある」
こちらに気付いた花形がいつもの笑みを浮かべつつ語りかけてきたのに対し、飛雄馬は当たり障りなく答えてから彼もまた、吊られるように笑った。
「なに、父に呼ばれてね。勝手に約束を取り付けられこちらはいい迷惑さ」
「約束?」
「今、きみがすれ違った女性はとある企業のご令嬢でね。ぼくはそんな暇はないと言ったが父がとにかく会えとうるさいので少し、話をしたまでさ」
「はあ……?」
「まあ、そんなことはいい。ここで会ったのも何かの縁だ。乗りたまえ。マンションまで送ろう」
「…………」
あんなやり取りを見てしまった手前、断りにくい。
こんなことになるなら知らん顔を決め込み、足早に立ち去るべきであった。
「彼が、待っているんだろう」
「…………」
飛雄馬はええい、ままよとばかりに勢いに任せ、助手席に乗り込む。
すると花形が突然、ニュートラルにしていたギアを入れ替えるなり急ハンドルを切り、アクセルを踏み込んだために飛雄馬は、うわ!と情けない声を上げることとなった。
「おや、すまない。驚いたかね」
クスクスと笑みを溢す花形の声を聞きながら、座席から半ば足元にずり落ちかけた飛雄馬は車が安定して走り出したところでようやく体勢を立て直し、ふうと溜息を吐く。
車などというハイカラなものはタクシーくらいしか乗ったことのない飛雄馬は、花形の操るオープンカーの助手席で風を切る感覚にしばし浸った。
花形はなんの気まぐれでおれを助手席に乗せるに至ったのだろう。
お互い知らん顔をして別れ、球場で会うことだって出来たはず。
おれはどうしてもそういった試合においてはライバルだが、ひとたびユニフォームを脱げば、などと言った公私の使い分けが苦手ゆえに、特にこの花形との個人的な付き合いは避けたくもあった。
「父もあまりぼくが野球をするのは好まんようでね」
「…………」
「ぼくから野球を遠ざけるべく見合いの相手を取り繕ってみたり企業同士の会合に顔を出すように仕向けたり……フフッ、妙な話を聞かせたね。忘れてくれたまえ」
「花形さんは、なぜ野球を?あ、いや、おれなんかより素晴らしい投手や選手は阪神にだってたくさんいるわけで、確かにプロに入ったきっかけはおれとの甲子園での一戦かも知れんが、今になってみれば……」
この飄々としている彼にも、色々あるのだなと飛雄馬は花形に対し人間らしさを垣間見た。
「ぼくが野球を続ける理由は、きみの親友と似たようなものだろう。ピンと来ないというのなら帰って豪傑に尋ねてみるといい」
「伴と?」
ふいに花形の口から発せられた伴の名に飛雄馬は目を瞬かせ、首を傾げる。
「彼が、時折、ぼくは無性に……いや、よそう。言うまい」
進行方向の信号が赤になったことを受け、花形はブレーキを踏み込んだ。
「伴が、無性に?」
飛雄馬は言葉を濁した花形の横顔をまるで吸い寄せられるがごとく見つめ、その続きが紡がれるのを待つ。
「…………」
チラと花形は飛雄馬を横目で見遣り、にやりと微笑む。
飛雄馬はその何やら含蓄有りげな笑みに思わず顔を逸らした。気圧された、という表現のほうがこの場合正しいやも知れぬ。
元より、飛雄馬は花形という男が苦手だ。
嫌い、と突っぱねられるほど単純明快な間柄ではなく、それこそ高校時代からの親友である伴よりももっと深い、何か種類の違う絆で結ばれた友人と言えるかもしれない。
あの、すべてを見透かしてくるような大きな黒い瞳と、あのにやりと意地悪く上がった口角がどうにも恐ろしいのだ。
そのうちに信号は青に変わり、花形は再び車のアクセルを踏むと前を走る車を追い越すべく車線変更すると、国道を駆けた。
何とも、掴みどころのない男だと飛雄馬は前を見据え、ハンドルを握る彼に再び視線を遣りつつそんなことを考える。
しかし、これくらいの距離感を互いに保っている方が変に惑わされずに済むのだろう。
花形が伴のようにわかりやすい男ならおれも少しは野球がやりやすかったかも知れんが──飛雄馬はクスッと吹き出すと、そろそろ着きますと隣の彼に告げた。
「豪傑にもよろしく」
そうしてしばらく走ったのち、花形はクラウンマンションの目の前で車を止め、地面に足をついた飛雄馬の後ろ姿に声をかけた。
「ええ、また」
答えた飛雄馬はふと、マンションの出入り口から外に出てきた見覚えのある人物に目を奪われ、伴!と彼を呼ぶ。
「おう、星ぃ!早かったのう」
「ああ。花形さんが……あれ?」
一目散に駆け寄ってきた飛雄馬との再会を喜ぶ伴だったが、彼が口にした花形の名に眉根を寄せた。
しかして、飛雄馬が振り帰った先に花形の姿はすでになく、おかしいなと首を傾げるばかりとなる。
「花形がなんじゃい」
「あ、いや。ちょっとばったり会ってな……」
マンションの中に足を踏み入れ、飛雄馬がぼやく。
「ふぅん。花形がこっちにおるなんてのう。実家と関西の行き来も大変じゃろうて」
「…………」
「星?」
「いや、何でもない。帰ろう」
怪訝な顔をしてこちらを心配そうに見つめてくる伴を見上げ、飛雄馬はふと、先程花形が話していたことを尋ねたい衝動に駆られる。
けれども飛雄馬はそれきり口を噤み、上階に昇ってしまっている箱を降ろすためにエレベーター昇降口にて、1のボタンを押した。