相談
相談 あと五分、と飛雄馬は手首に巻かれた腕時計にちらと視線を遣ってから、喫茶店出入口の扉へと見つめる。
昨晩、突然、姉・明子から寮へと電話があり、相談したいことがあるから指定する喫茶店に来てほしい、と涙ながらに彼女は語り、こちらの返事も聞かずにガチャリと電話は切られた。
その晩、相談とは何のことだろう、と飛雄馬は悶々とした状態で朝を迎え、まんじりともせぬまま姉と約束した時刻に間に合うよう、寮を出た。
思っていた以上に明子の指定した喫茶店には早く到着し、入店とともに頼んだコーヒーは間もなく底をつく。冷たくなったコーヒーをちびちびと啜って、ふと視線を上げた目の前には長い髪を結い上げ、よそ行きらしい着物姿に身を包んだ明子の姿があり、飛雄馬は、ねえちゃん、と一言、言葉を発した。
「ごめんなさいね、突然呼び出したりして……」
「いや、大丈夫。それで、相談とは?」
テーブル席の対面に座る姉を見遣りつつ、飛雄馬は単刀直入にそう尋ねる。
近くを通り掛かった女性店員にコーヒーをひとつと彼女は注文すると、柔和な笑顔を見せ、お腹空いてないかしら?好きなのを頼んでちょうだいね、と何やら話を逸らすような挙動を見せた。
「私、お昼まだなの。食べてもいいかしら」
「…………」
言うと明子は冊子状のメニュー表を一枚一枚、めくり始め、スパゲッティもいいわね、オムライスも美味しそう、などと独り言を呟き始める。
ねえちゃん?と飛雄馬は再び明子を呼び、どうしたのさ、相談なんて、と同じ文句を繰り返した。
「……花形の、ことなんだけど」
明子の口から発せられた名前に、ドキリと飛雄馬の心臓が跳ねた。つい先日、会った男の名。
それも、試合や野球に関することではなく、完全に一個人として。姉がしてきたように寮へと電話が掛かってきて、指定された場所へ呼び出され、明かした夜。
それは親友である伴にも言えないことである。
誰にも知らないよう、目撃されることもないように秘密裏に行われる密会。
飛雄馬は、努めて穏やかに、花形さんが、どうしたのと訊いた。勘付かれてはいないはず。ねえちゃんにはおれと花形の関係は気付かれてはいないはず。
おれは、ねえちゃんの幸せを壊したくはない。
「最近ね、あの人、夜になるとどこかへ出掛けているようなの。仕事や接待、ヤクルトのミーティングだとは言うんだけど、会社や球団に問い合わせてみたらそんな予定は入っていないって……」
「それで……?」
思わず飛雄馬の声が震える。しまったと額に汗が滲むが、明子は気付いていないようで、他に誰か、女の人でもいるんじゃないかと……そう、話を続け、ごめんなさい、と目元に滲んだ涙をハンドバッグから取り出したハンカチで拭った。
「他に、女の、人?」
飛雄馬のコーヒーカップを持つ手が震える。
「そう。それで、あなた、花形から何か聞いてないかしら……伴さんにもお尋ねしたんだけど、彼は何も知らないって……自分が花形を問い詰めてやるって言ってくださったんだけど、何の確証もないのにそんなこと……」
背中に、じわりと汗が滲む。
飛雄馬は遂に涙を流し、鼻を啜る明子を前に掛けてやる言葉も見つからず、ただ呆然と彼女の姿を見つめる。ねえちゃんは、おれと花形の関係に気付きつつある────いや、花形に限ってそんな詰めの甘いことをするわけがない。きっとおれの考えすぎで、ねえちゃんの思い過ごしに違いない。
言うほど頻繁に彼に会っているわけでもなく、花形にも何か事情があって、夜に家を開ける理由を正直に打ち明けられないのだろう。そうだ、そうに違いない。
「何も、聞いては、いないけれど……おれも今度花形さんに会ったときそれとなく訊いてみるよ」
「ありがとう、飛雄馬。ごめんなさいね、たまに会えたって言うのにこんな話で」
「いや、大丈夫……ねえちゃんもひとりで抱え込まないようにしてくれよ」
言いつつも、飛雄馬はまともに明子の顔が見られない。おれは、ねえちゃんを裏切っている。ねえちゃんの夫と関係を持ってしまっている。
それはこちらから始めたものではないなんて都合のいい言い訳に過ぎない。
けれど、それはきっとおれに会っているからだと打ち明ける勇気もなく、それなら何故花形は黙って出て行くの、家に来て話をすればいいじゃない、と言われてしまえば、返す言葉がない。
飛雄馬の視界がゆらゆらと揺れる。どうか夢であってくれとも思う。
明子は飛雄馬の気持ちなど露とも知らず、話をしたことで少しは気が晴れたか、サンドイッチとアイスクリームを平らげ、ここの勘定は自分が持つと言うなり、飛雄馬より一足先に店を出て行った。
ひとり、店に残された飛雄馬は、この後どうするべきかをひとしきり考えたのち、自分もまた、退店すると寮への道のりを歩く。
そうして、寮に帰り着いてから、肉体的な疲れと精神的摩耗から訪れた睡魔に身を委ね、しばらく眠っていた飛雄馬の目を覚ましたのは、寮長の電話だぞの声である。
半ば寝惚けた状態で電話に出た飛雄馬だが、もしもし、の声でハッ、と即座に覚醒した。
『今日、明子がそちらに行ったんじゃないかね』
「…………」
受話器を持つ飛雄馬の手に力が篭もる。
花形──。
人にどれだけ迷惑を掛ければ気が済むのかと怒鳴りつけたいのを堪え、会いましたよ、と淡々と答える。
『フフ、それで、何と?ぼくが夜な夜なきみに会いに行くのが嫌だと?浮気でもしているんじゃないかと心配しているとでも言っていたかね』
「おれも暇じゃないんだ、花形さん。もう電話で呼び出すのはよしてくれ。ねえちゃんは伴にも相談していると言っていた。知られてしまえばおれもあなたもここにはいられなくなる」
玄関先の、寮長や事務員らがいる受付室まで声が届かぬよう、飛雄馬は小声で言葉を紡ぐ。
『……ぼくはそれでも構わんが、きみは、飛雄馬くんはいいのかね』
「ふざけるな。いつもそうやって人に責任を押し付けて…………」
思わず、声が大きくなり、飛雄馬は受付室に視線を遣ってから、受話器の送話口と自分の口元を掌で覆う。 どうやら聞かれてはいないようで、受付室の事務員と寮長らは何やら楽しげに話をしている。
『責任をきみひとりに負わせているつもりはないが、地獄に落ちるときは一緒だろう、飛雄馬くん』
「くっ……!」
言葉に詰まり、遣る瀬なさから飛雄馬は顔を引き攣らせる。
『明子にはこちらから話しておくさ。心配を掛けてすまないね。ああ、すぐ行く。先に行っていてくれないか。それでは、また』
「あっ、花形さ……」
会社から電話をしていたのだろうか、途中、誰かの声が混ざったかと思うと、すぐさま電話を切られ、慌てて花形を呼ぶも、受話器から聞こえるのは無機質な不通音ばかりで、飛雄馬は溜息を吐くと、受話器を置く。
「花形はなんだって?」
受付室の小窓が開き、顔を出した寮長に声を掛けられ、飛雄馬は心臓が飛び出さんばかりに驚いた。
すまんすまんと寮長は笑い、また呼び出しか?とも尋ねた。
「いえ、ちょっと、昼間に姉から相談を受けたもので、その話でした」
「そうかそうか。ハハ、子供でも出来ればお前のお姉さんも安心するだろうにな。あんまり姉さんに心配させるなって言ってやれ」
「ええ……本当に」
「明日も先発で出るんだろう。早いとこ休めよ」
「はい、ありがとうございます……」
飛雄馬は、いつも電話を取り次いでくださってすみません、と続け、おやすみなさい、と言い残してから廊下を引き返す。
花形からの呼び出しがなかったことで、半ば寂しく思う自分がいて嫌になる。いや、顔を突き合わせて、いい加減にしろと怒鳴ることが出来なかったから、ただそれだけのこと。花形はまず、ねえちゃんのことを第一に考えるべきだ。
「…………」
花形は、ねえちゃんに何と言うのだろう。
浮気なんてしていないと、そう、言うのだろうか。
自室の扉を開け、飛雄馬は中に入ると、ベッドの上に倒れ込む。
明日の対戦相手は、どの球団だと長島さんは言っていたっけ。ああ、いけない。余計なことは考えるな。明日の試合のことだけを考えよう。
そのまま、どれくらいの時間が経っただろうか。いつの間にか飛雄馬は眠ってしまっていたらしく、辺りはいつの間にか闇に包まれている。
再び、寮長の、星、電話だぞの声で飛雄馬は目を覚ます。
誰ですかと尋ねる余裕もなく、飛雄馬はのろのろと廊下を行き、置かれていた受話器を取ると、はい、星ですが、と電話口の相手に名乗る。
『ああ、飛雄馬、ごめんなさい。急に電話なんかして……』
「ねえちゃんか」
少し、弾んだ様子のある明子の声に飛雄馬は安堵しつつ、どうしたの、と訊いた。
『花形から、電話が入って……家を度々空けてた理由を話してくれたの。もう大丈夫。心配掛けてごめんなさい。伴さんにも今からお話しするわ』
「そう、それは、よかった…………」
理由の詳細については飛雄馬も尋ねず、ねえちゃんが安心したならよかったとだけ告げ、また何かあったら相談してほしいと伝えると、電話を切る。
「まったく、姉夫婦の痴話喧嘩に巻き込まれるなんてお前も大変だな、星。知人と身内が結婚するのも考えものだな」
「寮長には恥ずかしい身内の事情ばかりお見せしてしまって面目ないです」
「なに、生きてりゃ色々あるさ、色々な。気にするこたぁねえよ」
「…………」
時刻は間もなく、二十二時を回ろうとしている。
明日、早めに起きてシャワーを浴びるとし、今日はもう休もう。帰宅してから幾度となく微睡んでいるせいで、このまま眠れるかもわからないが。
本当に、解決したのだろうかという疑念も残るが、ねえちゃんはああ言っていたし、こちらももう呼び出すなと花形には告げた。
飛雄馬は部屋に戻り、ベッドに潜り込むと、暗い部屋の中で天井を仰ぐ。
ねえちゃんに知られはしなかったが、関係を持った事実は消えることはない。ねえちゃんの幸せを願いながら、おれは結果として花形を拒めなかった。
地獄に落ちるときは一緒だと、花形は言っていたか。
何故、そこまでしておれと関係を持ちたがる。
何度尋ねてみてもはぐらかされるばかりで要領を得ない。おれはそれを確かめたくて、彼との逢瀬を重ねているのかもしれない。
飛雄馬は目を閉じ、ひとまずは心配事が解消されたことに胸を撫で下ろし、大きな溜息を吐く。
それでも、眠れるまで何度もベッド上で寝返りを繰り返し、寝付いたのは夜中の一時過ぎであった。
この十数時間後に再び、球場にて今度は投手と打者の立場で、花形と相見えることになることを飛雄馬は気付かぬまま、今はただ深く深く眠っている。