それからの…
それからの… 日雇いで得た金の数日分をはたいて得た、宮崎行きの航空券。繁盛期を外れていたせいか想像していたよりも安く入手できたお陰で、彼女の墓前に供える花を少し奮発することができた。
もうあれから、何年になるだろう。
九州、宮崎県。
道行く人の方言が何やら微笑ましく、自然と頬が緩む。都会の喧騒も、高いビル群もここにはない。
この土地に移住してしまっても良いかもしれない、と飛雄馬は彼女の名の刻まれた墓石の前で持ち寄った仏前用花束の包装を綺麗に解くと、花立ての水を交換してから花をそこへ生ける。
蝋燭に火を付け、線香にも朱を灯してからその場に屈み込んで、そっと両手を合わせた。
線香の香りが辺りに漂い、気持ちを落ち着かせてくれる。目を閉じれば、いつも浮かぶのは彼女の笑顔ばかりで、あの楽しかった日々を昨日のことのように思い出す。彼女が病気に冒されていなければ、今頃どんな未来が待っていたのだろう。
「…………」
おれに出会わなければ、おれがデートに誘わなければ彼女はもっと長生きできたんじゃないだろうか。
そんな後悔の念が、浮かんでは消えることを繰り返す。考えても、どうしょうもないことだが。
飛雄馬は閉じていた目を開け、立ち上がるとゴミとなってしまった包装紙や線香の箱類を手に歩み始める。
宮崎に来た目的は果たせた。これから何をしよう。しばらく、観光と洒落込みたいものだが、あいにく手持ちに余裕はない。
「あっ、あの!」
ふと、いつの間にここまで来ていたのか、セーラー服を纏った歩みが少しぎこちない少女に呼び止められ、飛雄馬ははたと足を止める。
どこかで、会ったような気がする、と感じはするものの、その、どこか、が思い当たらず、飛雄馬は声がかけられずにいたが、私、よっこです、の言葉にハッ、と瞬時に当時の情景を思い返した。
宮崎市民球場に、彼女に連れられ、野球観戦に来ていた小児麻痺の──。
合点はいったが、長髪に野球帽をかぶり、サングラスをかけた今の出で立ちではどう返事をしていいかわからず、飛雄馬はそのまま黙り込む。
すると、よっこと名乗った少女が、「星飛雄馬さんですよね」と微笑んだ。
「…………」
名を呼ばれ、飛雄馬はようやくサングラスを外すと、美奈さんのお墓参りに?と少女に尋ねた。
「ああ、よかった。間違ってたらどうしようかと思っちゃいました……美奈さんのお墓参り、時々来てるんです。私、足が悪いからあんまり頻繁には来れないんですけど」
「その節は、大変失礼をしてしまって……いつか会って謝りたいと思ってはいたが……」
「とんでもない。私、星選手の大ファンなんです。あの日も星選手にどうしても会いたくて、無理を言って美奈さんに連れて行ってもらったんです」
会えて、とても嬉しかったんですよ、と微笑む少女──よっこを前に、飛雄馬はかぶっていた野球帽を取ると、頭を垂れる。
「そんな、謝らないでください。私こそ星選手なんて呼んでしまって……」
「いや、気にしないでくれ」
言うと、よっこは吹き出し、飛雄馬もまた彼女につられるようにして笑った。
「ふふふ、すみません。笑ったりなんかして……お会いできて嬉しくて、つい。星選手──星さんの最後の試合の日、沖先生たちと町に出てテレビを観てました。あれから星さんどうしてるかなってすごく心配してました」
「こちらこそ、怪我をさせてしまったのにこうして話しかけてくれて嬉しいよ。ありがとう。今は、見ての通りでね。日雇いをして何とか食いつないでいる状態さ」
「……野球は、もう、なさらないんですか?」
少し、困ったような、今にも泣きそうな顔をして、よっこが呟いた言葉に、飛雄馬はハッと目を見開き、彼女を見つめた。
「……野球か、ふふ、どうして?」
「ごめんなさい。なんにも知らないのに私……」
「いや、そんなことはないさ。でも、野球はやりたくてもできないからだになってしまってね。腕を痛めてしまってもう遠投が、いや、ボールを遠くに投げられなくなってしまった」
「そんな……私ったら、」
「あ、いや、よっこちゃんは悪くない。ごめんよ」
思わず顔を覆い、泣き出してしまったよっこを前に、飛雄馬は弱ったな、と頭を掻く。
でも、そう言ってくれるのは嬉しいよ、と付け加えてから、飛雄馬は、泣かないで、と彼女を慰める言葉を口にする。
「ごめんなさい。私、星さんの気持ちを全然考えてなくて」
「…………よっこちゃんはもう中学生に?」
話題を変えるべく、飛雄馬は彼女の格好を尋ねる。
よっこは頷き、今年中学生になりました、と答え、将来は看護婦になるつもりです、と震える声で続けた。
そう、と飛雄馬は目を細め、よっこちゃんならなれるさ、と肩を震わせる彼女に声をかける。
「美奈さんみたいな看護婦になりたくて……両親はその不自由なからだじゃ無理だって言うんですけど」
「そんなことないさ。よっこちゃんならきっと素敵な看護婦になれるとも……」
参った、どうしよう。
飛雄馬は肩を震わせ、泣き続けるよっこを前に立ちすくむ。何と声をかけたらよいものか。
「ごめんなさい。泣くつもりなんて……」
「…………」
制服のスカートのポケットから取り出したハンカチで涙を拭き、よっこは歩み出すと美奈の墓前の前で立ち止まり、そこで手を合わせる。
飛雄馬はその後ろ姿をしばらく見守っていたが、この場を離れるべく踵を返した。
線香の香りが涙を誘う。まさか、彼女を知った人と会うなんて想像もしていなかった。
よっこちゃん、大きく、強くなったね。
「星さん、私、立派な看護婦になります。そうして、お金を貯めてあなたに会いに行きます」
「…………」
よっこが振り絞るように発した声に、飛雄馬は歩を止め、ぐっと唇を噛み締めると涙を堪えた。
手にしていた野球帽をかぶり直して、ひさしを目元まで下げると、待っているよ、と答え、振り返りもせず歩み出す。できることなら、足が不自由だという彼女を家まで送り届けてやりたい。
でも、それをしてしまったら別れが辛くなる。
彼女がこれから進もうとする道は決して平坦ではないだろう。だからこそ、おれもここで別れると決めた。
視界が涙で滲んで、自然と荷物を手にした腕にも力が篭もる。どこかで咲いているのか、百合の匂いが鼻をくすぐって、飛雄馬はその香りを取り込むべく大きく息を吸うと真っ直ぐ前を見つめ、来た道を引き返す。
感傷に浸ってばかりではだめだ、よっこちゃんのように前を向き、歩き出さなければ。
南国、宮崎の風は暖かく、優しく肌を撫でていく。
飛雄馬はふと、彼女と見た海のさざなみを脳裏に思い浮かべ、そちらにまで足を伸ばしてみよう、とそう思った。