尊敬
尊敬 伴は多摩川の練習場のある川原、その道の整備された土手の上までベンツを乗り付け、運転手にここで待っちょれ、と託けてから車を降りる。
そうして、星、と大きな声でひとり練習に励んでいるであろう飛雄馬を呼ぼうと口元に手を宛てがったところで伴は口を噤んだ。
飛雄馬が練習を終えるのを待っていた大勢のファンたちに一斉に取り囲まれ、サインや写真撮影、握手をねだられたからである。
左腕を壊してから巨人軍に投手として返り咲き、一軍のエースとして活躍する彼には、背番号16を背負っていた頃からの、はたまた甲子園時代からのファンも数多く存在している。
星さん、と女性に絡まれ、頬を染めている飛雄馬がおかしいやら羨ましいやらで、星はやっぱりすごいやつじゃのう、と伴は腕を組み、その様子を黙って眺めた。
ひとりひとりにサインを書いてやったり、手を握ってやる飛雄馬を見つめつつ、伴は最早、星とは住む世界が違うんじゃのう、とも思った。
無論、互いに巨人の選手だった頃からファンの量の差は歴然としていたが、伴重工業の常務となった今、自分を褒め称え、好きだと言ってくれる人間など存在しない。
あまりぱっとしない己だったが、それでも当時、ファンだと言ってくれる人は少なからず存在したし、手紙だって何通か届いたこともある。
その時の手紙は大事に取ってあるし、たまに読み返すことだってあった。
ふわり、と心地の良い、春らしい風が辺りに吹いて、伴は雲ひとつない青空を仰ぐ。
星と出会ったのも、確かこんな季節だったな、あれからもう、10年近くなるのか、と伴は何やら感慨深い思いを抱きながら目を細めた。
「伴!伴じゃないか」
ふいにグラウンドから声がかかり、伴はギクッと上向けていた顔を戻し、土手を登りながらこちらに走り寄って来る飛雄馬の姿を瞳に映すと、来ないでいい、あっちに行けと両手を振り、背を向ける。
しかして飛雄馬は伴の近くまで駆け寄ってくると、来てたなら呼んでくれたら良かったのに、と微笑んだ。
「タイミングの、悪いところに来てしまったようじゃのう……すまん。ファンの皆さんを待たせるといかんぞい。早く戻ってやってくれ」
「……なに、ちょうどサインも書き終え、握手も終わったところだった。ふふ、来てくれるとは思わずつい、走り寄ってしまった」
言われ、伴がグラウンドにちらと視線を遣ると、飛雄馬の言葉通り黒山の人だかりとなっていたファンたちの姿は散り散りになっており、思い思いに幸せそうな笑みを浮かべつつ帰路についている最中であった。
「ほしさん、あすのしあいもかってね!!」
巨人の帽子をかぶった男の子が叫び、飛雄馬は右手を挙げるとそちらに顔を向け、ひらひらと手を振った。
「相変わらずのモテ具合じゃのう。ちと妬けるわい」
「妬ける?なぜ?」
「星が女子にキャーキャー言われとるのもそうだし、う、ううむ、何しに来たか忘れてしまったぞい」
「おかしな伴だな。何をそんなにカッカしとるんだ……」
「星は、もう、手の届かんところに行ってしまったんじゃなあ、とふと、思ったんじゃい。星はもう、あの頃の星じゃない。人間的にも、プロ野球選手としても成熟し、子供の頃からの夢じゃった巨人の星がもうすぐそこに光っとるぞい」
ワハハ、と大声で笑う伴に対し、飛雄馬は目を伏せ、唇を引き結んでいる。
声を上げ、笑っていた伴だが、飛雄馬の様子に気付くと、しまったとばかりに口を手で塞ぎ、視線を左右に泳がせた。
「……おれが今、こうしてファンに囲まれるのも伴のお陰だ。それは左腕時代もそうだし、こうして長島さんから背番号3を受け継いだ今も変わらない。おれは、ひとりで走っているわけじゃない。伴と一緒に、ずっと走ってきたつもりだ」
「あ………う、う」
かーっと伴の顔が赤く火照る。
飛雄馬は帰る用意をしてくる、と帽子のつばを下げ、土手をひとり降りていく。
全身に汗が吹き出し、伴は何か言わねばと思うものの頭の中でぐるぐると飛雄馬との思い出や会話のやり取りが巡って、口をぱくぱくと開閉させた。
「ほ、星、わしはっ、その」
飛雄馬は土手を降りつつ、伴に背を向けたまま手を挙げ、先程少年にしたように手を振る。
ああ、やっぱり、星はすごいやつじゃい……と伴は何だか泣きそうになるのを堪えつつ、黙々とグラウンドの片付けを行う飛雄馬の姿を見守った。